Chapter 1 of 1

久生十蘭

風がまだ冷たいが、もう、すっかり春の気候で、湖水は青い空をうつして、ゆったりとくつろいでいる。

キャラコさんは、むずかしい顔をして、遊覧船の桟橋で、釣りをするのを眺めている。すこしばかり機嫌が悪いのである。

キャラコさんは、半月ほど前から、蘆の湖の近くの小さな温泉宿で、何ともつかぬとりとめのない日を送っている。本を読むか、日記をつけるか、散歩をするか、この三つのほかにすることがない。佐伯氏と話すことのほかは、なにもかもすっかり飽き飽きしてしまった。

キャラコさんは、早く家へ帰って家事の手伝いをしたり、ピアノのおさらいをしたり、今までどおりキチンとした生活をしたいのだが、千万長者の相続人になったばかりに、窮屈な思いをしてこんなところに隠れていなくてはならない。本当の名を名乗ることさえできないのである。

こんな淋しい山奥に年ごろの娘がたったひとりでのっそりしているのは、ずいぶん奇妙に見えるにちがいない。キャラコさんは女々しいことはきらいだから、宿のひとたちにもいいわけがましいことはひと言もいわないが、かなり肩身の狭い思いをして暮らしている。

キャラコさんに、父の長六閣下から、手紙で、当分のあいだ、家へ帰ることはまかりならぬと申し渡された。

……当分本名を名乗ることはならぬ。名前をいう必要がある時はキャラコとだけいいなさい。それから、当分の間、いっさい新聞雑誌を読んではならぬ。友人のところへ手紙を出してはならぬ。右、命令す。

ならぬ、ならぬ、ならぬ、――長六閣下の濶達な文字は、ひとつひとつ八字髯をはやし、キッと口を結んでキャラコさんをにらみつけていた。

青天のへきれきである。どういう理由でこんな眼に逢わなければならないのか、いくら考えても思いあたることはなかった。

二三日たってから、キャラコさんが当惑しているだろうと察して、秋作氏がくわしい便りをよこしてくれた。

キャラコさんは何も知らなかったが、そのころ、東京ではたいへんな騒ぎがもちあがっていたのである。キャラコさんの居どころをつきとめようとして、東京中の新聞社の自動車が社旗をヒラヒラさせながら狂気のように走り廻っていた。

ひところは、世界の謎とまでいわれた失踪の千万長者、山本譲治がとつぜん日本に現われ、今年十九歳になる一少女を千二百万弗(四千万円)の財産相続人に選んだ。……世界的なビッグ・ニュースである。

どんなことがあっても『キャラコさん』をつかまえて、ひと言でもいいからしゃべらせろ。捕まえたらかまわないから、脛でもたたき折って動けないようにしてしまえ。……畜生、それにしても、写真ぐらいありそうなもんだ。

まるで、殺人犯人でも追いつめるようないきおいで狂奔したが、キャラコさんはおろか、写真さえ手に入らない。長六閣下の機敏な統制と緘黙にかかっては、さすがの新聞記者たちも手も足も出なかった。

キャラコさんは、ここへ来る途中、小田原の駅でこの獰猛な追撃隊の一行に出っくわしている。キャラコさんが改札口を出ようとすると、三枚橋のほうから新聞記者と写真班を乗せた自動車が五六台走り込んで来て、ワイワイいいながら改札口へ殺到して来た。

キャラコさんは、何が起きたのだろうと思って、ちょっと足をとめて眺めてから、そのそばを通って電車の停留所のほうへ歩いて行った。

襟のつまった紺サアジの服を着た、みすぼらしいほどのこの娘が、じぶんたちがいま血眼になって探している千万長者の相続人だとは、気のつくものはひとりもなかった。

……お前は競馬馬ではないのだから、下劣な関心の対象にするわけにはゆかない、という長六閣下の意見には、俺も賛成である。そんなわけだから、当分お前はお前でないことにして置きなさい。

長六閣下は、あの四千万円を、日本のためになるようにお前に使わせたいといっている。最も意義あるようにあの金を使うために、すこし世間を見て置くのもいいだろう。旅行をするなり、働くなり、この機会を利用してできるだけいろいろ経験をつみなさい。閣下も希望している。

つまらぬ財産をもらったばかりに、こんなよけいな苦労をしなくてはならぬことは、さてさてお前もふびんなやつだ。

秋作

キャラコさんのほうは、財産を相続したことなどは、すっかり忘れていたといっても決して嘘にはならない。人形でももらうほどに気軽にもらってしまったが、それもなにか他人のことのようで、自分が使うのだなどとは、今日まで、ただの一度も考えたことはなかった。

ところで、この手紙を読むと、四千万円という金が、とつぜん、ひどい重みで自分の肩にのしかかってくるような気がする。

あたしがあの四千万円を使う? 考えただけでも気が重くなる。なにしろ、キャラコさんは、いままで自分の手から二円以上の金を使ったことがないのに、それが、四千万円ということになると途方に暮れるほかはない。

キャラコさんは、思わずためいきをついた。

「たいへんだわ、死ぬまで、金をつかうことに、あくせくしなければならないとすると……」

金をもつことは、不幸のはじまりだということの意味がわかるような気がする。じじつ、あんな遺産などをもらわなければ、こんなところで肩身を狭くしていることもいらないし、世間へ金の使いみちを探しに出かけることもいらない。そう思うと、キャラコさんは、なんだか山本氏がうらめしくなってきた。

キャラコさんは、いつまでたってもうごかない浮木をながめながら、ぼんやりと考えしずんでいたが、ちいさなためいきをつくと、蘆を一本折り取って、それを鞭のように振りながら、湖尻の疏水のほうへ歩き出した。……今日こそ佐伯氏に例の話を切りだしてみようと思いながら。

佐伯氏は南京の戦争で失明した名誉ある傷痍軍人である。

傷痍軍人といっても、衛戍病院にいるのではないから、あの白い病衣を着ているわけではない。背に帯のついたスマートな大外套を着て、アッシュのステッキをついて歩いている。

顎はいつもきれいに剃ってあるし、髪にはキチンと櫛目がはいっている。散歩に出ると、野の花を襟にしたりして帰ってくる。どこにも軍人らしいいかついところがないので、キャラコさんは、この優雅な盲目の青年が名誉ある傷痍兵士だとは、まるっきり気がつかなかった。

そういえば、なるほど顔色は陽にやけて黒く、歩きぶりにもどこか軍隊式なところが残っている。肩も腰も頑丈で、この肉体がどんな刻苦に耐えて来たか充分に察しられるが、全体の感じはどことなく弱々しく、挙動もたいへんに神経質だった。

黒い大きな眼鏡で顔が半分以上隠されているが、鼻も口もきりっとしまっていて、学者とでもいったような、奥深い、理智的な印象を与えるのに、声は低く細く、いつもふるえるような調子をおびていた。極めて理性的なものと、極めて感情的なものと、まるっきり矛盾した二つの性格がひとつの肉体の中におさまっているような感じだった。

佐伯氏の兄妹は五日ほど前の夕方ここへやってきた。宿のひとのはなしでは、佐伯氏はここへ点字の勉強に来たのだそうだった。まだ春が浅く、それにこんな淋しいところなので湯治の客もすくなく、静かに勉強するにはうってつけの場所だった。

佐伯氏は、茜さんという、すごいような端麗な顔をした妹さんと二人で別棟の離屋を借り切って、二階と階下に別れて住んでいる。

どちらも静かなひとたちで、ときどき、佐伯氏に本を読んできかせるらしい茜さんの澄んだきれいな声がきこえるほか、一日じゅう、ひっそりとくらしていて、部屋の障子がひらかれることさえごくまれだった。

佐伯さんは、まいにち三時ごろになると散歩に出て、湖のそばでフリュートを吹く。まだ習いはじめだとみえ、とぎれとぎれで、なんとなく悲しげだった。茜さんのほうは、めったに部屋からも出て来ない。たまに廊下などですれ違うと、軽く目礼して、眼を伏せて急ぎ足で行ってしまう。不幸の重荷を背負っているような薄倖な感じのひとだった。

キャラコさんは、はじめての日、湖畔から宿のほうへ曲り込むわかれみちのところで佐伯氏に逢った。

佐伯氏は、道からそれた蘆の繁みの中へ踏み込んで、途方に暮れたようすで立っていた。

キャラコさんは、すぐ、眼の悪いひとなのだと気がついて、佐伯氏をていねいに道まで連れ戻し、そのままそろそろと宿のほうへ手をひいて行こうとすると、佐伯氏は、とつぜん、邪険な仕方でキャラコさんの手をふり切って、毒々しい口調で叫んだ。

「いいから、独りで歩かしてください。これから毎日散歩に来なくてはならないのだから、道に馴れておこうと思ってやって来たところなんです。おせっかいはごめんだ」

黒い眼鏡だけのような顔を、キャラコさんのほうへふり向けると、

「……もっとも、一生私の手をひいて下さるというなら別ですがね。たった一度くらい世話してもらったってなんにもなりゃしない」

そして、空うそぶくようにして、は、は、は、と笑った。

すこし、ひどいいい方だったが、キャラコさんは気にもかけずに、

「でも、ここはひどい石ころ道で、とても危ないのよ。……それに、陽もくれて来ましたし……」

佐伯氏は、ふん、と鼻を鳴らして、

「陽も暮れて来たし……か。私にとってはどっちみち同じこってすよ、お嬢さん。はじめっからまっ暗なんだから。……まあ、放っておいてください。私はめくらだが、あまりめくら扱いにされるのは好きじゃないんです」

キャラコさんは、すこし悲しくなってきた。しかし、自分があまりうるさくしたのがいけなかったのだと思いかえして、いわれた通りに佐伯氏の腕から手をのけた。

佐伯氏はステッキで道をさぐりながら、危なっかしい足つきで歩いてゆく。道がわからなくなると、癇癪を起こしたようにどこでもかまわず踏み込んで行った。

キャラコさんは心配でたまらないので、すこしあとからついて行くと、佐伯氏はキャラコさんのほうをふりかえって、

「君はどこか別な道から帰れないの。うるさいから、ついてこないでくれたまえ」

と、イライラした声で、投げつけるように叫んだ。

キャラコさんは、

「ええ」

と、素直にそう返事をして、しばらく立ちどまってから、ずっと離れて見え隠れに宿の入口まで送って行った。

宿へかえると、キャラコさんは、机に向って日記を書きはじめた。

キャラコの失敗

私は不幸なひとを見ると、すぐ感動してしまう。

きょう、私は夢中になりすぎて、不幸なひとをいら立たせた。

他人の不幸に感情だけで同感するということ。――ことに、衝動的な親切などは何の意味もなさない。私は、私の薄っぺらな同情を佐伯氏に見ぬかれてしまった。

それは、……

ここで、急にペンが動かなくなった。

キャラコさんは、にがにがしい顔をして長い間ペン軸を噛んでいたが、とうとう、思い切ったように、そのあとに、こんな風に書き足した。

つまり、私が、おっちょこちょいだから……。なってないわね。……よく覚えておきなさい。他人に同情するなどというのは、けっして容易いわざでないということを。いい加減な同情などは、これからつつしまなくては。

キャラコさんは、寝床へはいってから、いつまでも大きな眼をあいて天井をながめていた。

気持が沈んで、ひどくメランコリックになっている。なんだかもの足りない。あの不幸なひとにやさしくしてあげることができないというのは、なんというさびしいことだろう。

アッシュのステッキをついて、そろそろと足さぐりして歩いている佐伯氏のわびしそうな姿が眼にうかぶ。

佐伯氏は、石ころだらけのゆるい坂道を虫のはうように歩いて行く。杖のさきで長い間道の上をたたく。いよいよ大丈夫だと見極めがつくと、おずおずと右足を伸ばす。また杖で道をさぐる。それから、ようやく左足が出てゆく。

なんて、はかばかしくないんだろうと思って、キャラコさんのほうで、ジリジリしてくる。がっかりしたような声をだす。

「とても、見てはいられないわ」

佐伯氏は、まだのそのそやっている。あまりひどい骨折りなので、すぐ疲れてしまうらしい。四、五歩あるいては立ちどまって汗をふく。それからまた元気を出してやりだす。

ところで、休んでいるうちに方角がわからなくなったとみえて、道を斜に、大きな松の木の根が出ている窪みのほうへどんどん歩いてゆく。危ない危ないと思っているうちに、案の定、穴ぼこの中へ右足を踏みこんでえらい勢いでひっくりかえる……。

キャラコさんの胸が劇しくおどる。思わず大きな声をだす。

「あら、危ない! ……ほうら、とうとう落っこっちゃった」

自分の声ではッと気がついて赤い顔をする。てれくさくなって、枕の上で頭をまわす。

キャラコさんの耳に、毒々しい佐伯氏の声がきこえる。

(うるさいから、放っておいてくれたまえ! めくら扱いにされるのはごめんだよ)

たしかに、ひどすぎるいい方だ。辛辣すぎる。ひねくれている。あまり礼儀しらずだ。

キャラコさんは、こんな事をかんがえながら、一方では、穴ぼこのなかからやさしく佐伯氏を助け起こしている。

どんなに腹を立てようと思っても、どうしても思うようにならない。

キャラコさんは、幻想を払いのけるために、えへん、と大きな咳払いをする。

「こんなことじゃしようがないわ」

自分があまり感傷的なのが不愉快になってきた。

「むやみにひとに同情しやすくて困るわね。だから、みなあたしのことを馬鹿だと思っている。もう、十九にもなったんだから、そろそろこんな性質にうち勝たなくては!」

キャラコさんは、額に皺をよせむずかしい顔をしながら、決心する。

「ともかく、もっと強い意志を持つことだわ! あんな意地の悪いひとなど放っておけばいい」

これで、ようやく安心する。枕を置き直して眼をつぶる。

間もなく眠くなってきた。

キャラコさんは、うつらうつらした半睡の中で、あす早く起きて、佐伯氏が散歩する道の石ころをみな取りのけておこうとかんがえていた……。

次の日の夕方、いつものように疏水のほうへ散歩に行くと、佐伯氏がそこの枯蘆の間にあおのけに寝ころんでいた。

またうるさがらせてはいけないと思って、猫のように足音を忍ばせながら、そっといま来たほうへ帰りかけると、とつぜん、佐伯氏が声をかけた。

「ああ、きのうのお嬢さんですね」

キャラコさんは、ギョッとして立ちどまった。

「ええそうよ……。あたし、あちらへまいりますわ。お邪魔してはいけませんから……」

佐伯氏は、あわてたように身体を起こすと、

「邪魔だなんて、……よかったら、……すこし、話して行ってください」

そういって、狭い蘆の間で、すこし身体をすさらした。

とげとげしたところはなく、今日はたいへん静かな口調だった。

「でも、あなたひとりでいらっしゃるほうがお好きなんでしょう。気がつかないでこんなほうへやって来てしまって……。あたし、やはり、あちらへまいりますわ」

佐伯氏は、唇のはしに神経質な微笑をうかべながら、

「そんなに気をつかってくださらなくとも結構ですよ。……でも、あたしのようなものとお話になるのがおいやなのなら……」

キャラコさんが、あわてだす。

「あら、そんなことありませんわ。いやだなんて……。あたしは、ただ、お邪魔してはいけないと思っただけなの。……お差しつかえなかったらここへ坐ってよ」

へどもどしながらそばへ並んで坐ると、佐伯氏は頬骨の上のところをすこしあからめながら、

「きのうはずいぶん失礼なことを申しました。どうか、ゆるしてください。疲れてイライラしていたせいなんです。……おわかりになりますまいが、こんな不自由な身体で長い旅行をすると、思うようにゆかないことが多くて、ついいら立ってしまうのです」

「どんなにかご不自由なことでしょうね、お察ししますわ」

「有難う。……感のわるいところへ持ってきて、すこしわがままなもんだから、なんでもないことにすぐ腹を立ててしまうのです。結局、自分の損なんだけど……」

「まだお馴れならないせいもあるでしょうし……」

「そうですよ、なにしろ、俄かめくらでね」

「そんな意味でいったのではありませんわ」

「気になさらないでください。どうしてでしょうかね、つい、こんな口調になってしまうのです。……眼が見えなくなったという事実にたいしては、すこしも遺憾はないのですが、日常の直接なことにあまり不便が多すぎるので、じぶんで始末がつかなくなってしまうのです」

キャラコさんは、だまって佐伯氏の顔をながめていた。それにしても、あの茜さんというひとがなぜもっと佐伯氏をいたわってあげないのだろうと考えていた。散歩についてくることもなければ、廊下などで手をひいてやるところも見たことがない。いつも、ひとりで放っておく。いったいどうしたというのだろう。盲目の兄と一緒にいるところをひとに見られるのを嫌がっているようにもみえる。もし、そうなら、すこしひどすぎるようだ。それも、戦争で失明されたのだというのに。

キャラコさんは、すこし腹が立ってきた。……しかし、なにか事情のあることか知れないし、自分が差し出るような性質のことではないので、そのことには触れなかった。

佐伯氏は、しばらく黙り込んでいたが、ふいにキャラコさんのほうへ顔を向けると、

「それにしても、あなたは、いったい、どういう方なのですか、お嬢さん?……声のようすだとたぶん、十九ぐらい……」

キャラコさんが、笑いだす。

「当りましたわ。……あたし、十九よ」

「ずっと、ここにおいでなのですか」

「ちょうど、半月になりますわ」

「失礼ですが、どなたと?」

「あたし、ひとり」

佐伯氏は、驚いたように、ほう、といって、

「どこかお悪いの?」

キャラコさんが、すこし、あかい顔をする。

「いいえ、ただ、こんなふうにしていますの。……妙でしょう。あたしも、妙でしょうがないのよ。あたしのような若い娘が、たったひとりでこんなところにブラブラしているなんて、あまりほめた話でありませんけど、すこしわけがあって、もうすこしの間こんなことをしていなくてはならないの。でも、そのわけは申しあげられませんわ」

佐伯氏が、つぶやくような声でいった。

「だれにだって、事情はあるもんだから……」

「でもね、あたし、悪い人間でないことだけはたしかよ」

キャラコさんがそういうと、佐伯氏は、低い声で笑いだした。

「誰がそんなふうに思うもんですか。それどころか、あなたのような親切なお嬢さんに逢ったのははじめてです」

「おや、どうしてでしょう」

「いえ、ちゃんと知ってますよ。……私があんなひどいことをいったのに、それにもかかわらず、あなたは心配して、とうとう宿の入口まで送ってくださいましたね。……ほんとうに、有難かった。……言葉では、ちょっといい現わしきれないほどです」

キャラコさんが、やさしく抗議した。

「あんなのが親切というのでしょうか。あなたをうるさがらせただけですわ。あたし、差し出がましいまねをしたばかりに、あんなにあなたをいら立たせてしまって申し訳ないと思っていましたの。あたし、出しゃばりで、ほんとうにいけないのよ」

「親切だといっていけなければ、たいへんに心の深いお嬢さんだと申しあげましょう。……あなたは私の歩く道の石ころをみなとり除けてくださいましたね。ちゃんと知ってます」

キャラコさんは、閉口して黙り込んでしまった。

「……それから、二股道のかどの木の枝に、石を入れた空鑵をつるして、風が吹くとカラカラ鳴るようにして置いてくだすった」

「…………」

「私は、その音をたよりに、迷わずに湖水のほうへ出てゆけるのです。帰るときも、またその通り、わき道へはいり込まずにすみます」

佐伯氏は、深い感動のこもった声で、

「……昨日まであんなものはありませんでした。……お嬢さん、あなたがしてくだすったのですね」

佐伯氏の口調が、あまり切実なので、キャラコさんは度を失って、思わずうつ向いてしまった。

「あなたが、してくだすったのですね?」

「…………」

「返事をしてくださらなくとも結構です。……あなたのような優しい方でなくて、誰れがあんなことをしてくれるでしょう。有難う、お嬢さん……」

佐伯氏は、とつぜん、眼ざましいほどに昂奮して、

「ありがとう、ありがとう。……このありふれた言葉を、私が、いま、どんな深い感情で叫んでいるか、とてもあなたにはおわかりにならないでしょう。……しかし、いつか、それがおわかりになる時が来たら、あなたが、なんの気なしにしてくだすった親切が、ひとりの男の人生に、どんなたいへんな影響をあたえたか、きっと了解なさるでしょう。……これだけ言ったのでは、なんのことだかおわかりになりますまいけど、あなたの親切のおかげで、いままで知らなかった新しい高い世界が、とつぜん私の前にひらかれたような気がしているのです。……ほんとうに、思いもかけなかった新しい世界が……」

そういうと、唇をふるわせながら、急に言葉をきってしまった。

佐伯氏は、戦場でいろいろ痛烈な経験をしたので、それで、なんでもないことに感じやすくなっているのに違いない。キャラコさんは、佐伯氏の感情を乱してはいけないと考えて、できるだけしずかにしていた。

しばらくすると、佐伯氏は蘆の中から木笛を取りあげて、ゆるやかに吹きはじめた。古い舞踏曲のようなもので、なんともいえない憂鬱な旋律だった。佐伯氏は、つまずいてはいくどもやり直しながら、終いまで吹きおえると、蘆の中へそっと木笛を置いた。

キャラコさんが、たずねた。

「なんだか悲しそうな曲ですね。それは、なんという名の曲?」

佐伯氏は、人がちがったような落ち着いたようすで、キャラコさんのほうへ向きかえりながら、

「これは、フランスの十七世紀ごろの古い舞踏曲で、『罪のあがない』という標題がついているんです。……舞踏曲にしては妙な名ですね。どんな意味なのか私にもわからない。でも、なんとなく好きで、こればかり吹いているんです。……それはそうと、私は、さっきから、あなたがどんな顔をしていられるのかと思って、いろいろに想像していたんです。……たぶん、やさしい美しい顔をしていらっしゃるのでしょうね」

キャラコさんが、例の、大きすぎる口をあいて、笑いだす。

「あたし、美しくもなければ、やさしい顔なんかもしていませんわ。……むしろ、みっともないといったほうがいいくらいなの」

佐伯氏が、釣り込まれて、低い声で笑った。

「すこし、説明してみてください。……その前に、あなたをどうお呼びすればいいのでしょうね、お嬢さん」

「キャラコ、と呼んでちょうだい」

「キャラコ……。珍らしいお名前ですね。……では、こんどは顔のほうを……。あなたは、どんな眼をしていらっしゃるんですか」

「眼は割に大きいほうよ。……でも、魅力があるという工合にはゆきませんわ。ただ、大きいというだけ。……白熊の眼のようだというひともありますけど、それだって、すこしほめすぎているくらいよ。……でも、視力だけはたしかなの。なんでも、よく見えますわ。……あら、ごめんなさい」

「いいえ、かまいませんとも。……それで、鼻はどんなふうですか」

「鼻はそんなにひどくはありませんわ。段なんかつかないで、割とスラッとしていますの。ちょっと希臘型といったふうなの。でも、そんなに高いほうではありませんわ。あまり美しく想像なさると損をなすってよ」

佐伯氏は、想像を楽しむように、こころもち首をかしげながら、

「すこしずつあなたの顔が見えるようになりましたよ、……もうすこしいって見てください。口はどんなふう?」

「困ったわね。……口は、とても駄作なのよ。すこし大きすぎるってみながそういいますわ、それは、たしかなの。口を開いて笑うと、奥歯がいつも風邪をひきますの、たいへんな口でしょう。口の話は、これくらいにしておいてちょうだい。……お次はなんですか?」

「歯はどうです」

「歯並びはいいほうよ」

「髪は?」

「棒みたい」

「棒って、なんのことです」

「つまり、パーマネントをかけないもんですから、髪が棒みたいにブラブラさがっていますの。でも、別に気にもしていませんわ。……どう? あたしの顔、だいたいおわかりになって?」

佐伯氏が、楽しそうにうなずいた。

「もう、はっきり眼に見えますよ。あなたがどんなやさしい顔をしていらっしゃるか!」

夕風が吹き出して、湖の面が赤紫色に染った。

こんなことがあってから、疏水へ行くと、佐伯氏がいつもそこでキャラコさんを待っているようになった。二人は湖の岸を遠くまで歩き廻り、くたびれると肱をつき合わして草の上に坐った。キャラコさんは歌をうたったり、本を読んでやったりした。佐伯氏は戦場でたいへん勇敢な働きをしたひとだということだったが、自分では、いっさい戦争の話にふれなかった。キャラコさんには、それが奥ゆかしく思われた。あまり実感がはげしくて、かるがるしく口に出す気になれないのだろうと思って、戦争のことはなるたけたずねないようにした。

キャラコさんは、たったひとつ佐伯氏にたずねたいことがある。佐伯氏の眼が本当に絶望なのかどうかということである。今までいく十度、口さきまで出かかったか知れないが、そんなことにふれてはいけないのだと思って、しんぼうしていたのだった。しかし、今日はどうしても切り出してみようと決心した。

秋作氏の親友で、キャラコさんを本当の妹のようにかあいがってくれる立上氏という若い博士が、ついこのころ、ミュンヘンから帰って来た。

秋作氏は、立上のやつ、独逸から近代眼科学の精髄をかっぱらって来やがったそうだ。と、恐悦しながらキャラコさんに話してきかせた。もし、佐伯氏にその気があるなら、いちどぜひ立上氏に診させたいと思うのである。

キャラコさんが、蘆をわけて疏水のほうへおりてゆくと、いつものところに佐伯氏が待っていて、きょうは、たいへんおそかったと、いった。キャラコさんといっしょにいることだけが、このごろの楽しみになっているふうだった。

見ると、佐伯氏の膝の上に英語の本が一冊のっている。キャラコさんが、おどろいて、たずねた。

「あなた、本がお読みになれるの」

佐伯氏は、悲しそうな微笑をしながら、

「私は、まず骨を折って点字で読みます。それから、その活字の本をこうして撫で廻しながら、この中に、あんなすぐれた事が書いてあるのかと感慨にふけるのです。……こうして頁の上をさすっていると、いろいろな文章がつぎつぎ記憶の中によみがえって来て、ちょうど眼で読んでいるような気持になれるのです。……未練だと思うかも知れないけれど」

このごろは、心ないことばかり口走って佐伯氏を悲しませる。これも、自分の感情が足りないせいだと思って、キャラコさんは、そっと唇をかんだ。それにしても、眼のことに触れられるのを、こんなにもいやがっているひとに、あなたの眼はもうだめなのか、などとたずねるのは、いかにも心ない仕業だと思ったが、死んだ気になって、切り出してみた。

「佐伯さん、あたくし、たったひとつ、おたずねしたいことがありますの」

佐伯氏は、ビクッとしたように、キャラコさんのほうへ顔をふり向けて、

「あらたまって、どうしたんです。……ききたいって、どんなこと?」

「あなたのお気にさわることなんですから、はじめに、おわびしておきますわ。……あたしがおたずねしたいのは、あなたの眼はどうしても絶望なのかどうかということなの。……まだ、いくぶんでも希望があるのでしょうか」

キャラコさんが、そうたずねると、佐伯氏は、急にキュッと頬の肉を痙攣らせ、なんともいえない暗い顔をしておし黙ってしまった。

キャラコさんは、どうしていいかわからなくなってしまった。うなだれて、唇だけを動かして、ごめんなさい、とつぶやいた。

佐伯氏は、ふいに、渋い微笑をうかべて、

「いま、ごめんなさい、といいましたね。よく聞えましたよ。……あやまることなんかいりません、なんでもないことです。……私が眼のことに触れたがらないのは、じつは、どうしてもあきらめきれないことがあるからなんです。…私のは、単性視神経萎縮という厄介な眼病で、手榴弾の破片で頭蓋底を骨折したために、起こったもので、日本では治癒できませんが、ミュンヘン大学のヘルムショルツ博士のところへ行けば必ず癒してもらえるあてがあるのです。……しかし、私にはそんな金もないし……」

ここまでいいかけると、とつぜんいらいらした口調で、

「もう、よしましょう。この話は」

と、クルリとキャラコさんに背中を向けてしまった。

キャラコさんは、宿へ帰ると、秋作氏の気付にして、ヘルムショルツ先生の高弟に宛てて長い長い手紙を書いた。

……そういうわけですから、この手紙を見次第、鞄を持って飛んで来て、ちょうだい。これは、あたしの、めいれいよ。と結んだ。日記には、こんなふうに書きつけた。

キャラコの信念

佐伯氏の眼は、必ず見えるようになる!

一日おいて次の日、立上氏から、ミヨウゴニチアサユクという電報が来た。

キャラコさんは、その電報を持っていつものところへ駆けて行った。

木笛は蘆の中に置いてあるが、佐伯氏の姿は見えない。四時ごろまで待っていたがやって来ない。もしや水ぎわにでもいるのかとそのほうを見廻したが、渚には人の影らしいものもなかった。

キャラコさんは手帳の紙に、

佐伯さま。明後日のあさ、ここへ、ヘルムショルツ先生の高弟が来ます。どうぞ、あなたの眼をふたつ貸してちょうだい。

と、走り書きをし、それを電報用紙の中へ細長くたたみ込み、その表に、(茜さま、これを読んでさしあげてくださいませ)と、書いて、それを木笛に結びつけた。

それから、三十分ほどすると、疏水の向う側から佐伯氏がやって来た。

木笛のあるあたりに顔を向けて、ぼんやりと立っていたが、ツと手を伸ばして手紙をほどきとるとむこうを向いて、立ったままでそれを読み出した。

しばらくののち、手紙を持った手がだらりと下へ垂れる。それから、左手をいそいで眼のほうへ持って行った。

佐伯氏は、こちらへ背中を向けたままいつまでも立っている。佐伯氏の手の中で、キャラコさんの手紙がヒラヒラと風にひるがえっていた。

次の朝、廊下の窓のそばの籐椅子に掛けて本を読んでいると、廊下の向うのはしから茜さんがひどくまっすぐな姿勢でこちらへちかづいて来た。

ウールのレーンコートを着て、腕に外套をひっかけている。瘠せているので、ほんとうの身丈よりずっと長身に見える。面ざしは冷たすぎるほど端正で、象牙のような冴えかえった色をしていた。

廿二三だと思われるのに、どこか、ひどく老けたところがあって、娘がいきなり大人になったような妙な感じをあたえる。

すらりと、キャラコさんのそばに立って、

「いいお天気ね。発動機艇で箱根町のほうへ出かけてみません? すこし、お話したいこともあるのよ」

否応いわせない、おしつけるような調子があった。

キャラコさんは、きのうの返事がきけるのだと思って、急いで自分の部屋へ行って帽子と外套を持ってきた。

二人は桟橋まで歩いて行ってそこで、発動機艇に乗った。

とりわけ、きょうは陽ざしが熱く、湖の面はガラスのようにきらめいて、深い水底でときどきキラリと魚の鰭が光った。

モーターの響きがこころよく身体につたわる。茜さんは、眼を細めて、うつりかわる対岸の景色をながめたまま、いつまでもおし黙っている。キャラコさんは、すこし気味が悪くなって、

「お話って、どんなお話」

と、おそるおそる切り出してみた。よくよく辛抱したあげくのことである。茜さんは急にこちらへ顔をふり向け、運転手のほうを眼で指しながら、

「ここでは、なにも申しませんわ。あなただって、それでは、お都合が悪いでしょうからね」

と、謎のようなことをいうと、また、クルリとむこうを向いてしまった。

どういう意味なのか一向わからない。何かひどく腹を立てていることだけはわかる。しかし、どう考えて見ても、茜さんを怒らせるようなことをした覚えはない。

(いったい、何をいいだす気なんだろう)

キャラコさんは、ひとりで首をひねっていたが、そのうちにめんどうくさくなって、そんなことにクヨクヨしないことにした。

浮ヶ島の近くへ来ると、発動機艇は速力を落として、岬の鼻のところでとまった。

茜さんは、ボートから降りると、岸づたいに岬の鼻を廻り、先に立って御用邸の下の深い林の中へズンズンはいって行く。

キャラコさんは、なんだか嫌気がさしてきて、ついて行きたくなくなった。

「お話って、こんなところでなければいけないことですの」

茜さんは、キッと振り返って、冷酷な眼つきでキャラコさんを見すえると、

「それは、あなたのほうが、よくご存知でしょう。……逃げようたってだめよ。だまってついて来てちょうだい」

と、甲高い声で叫んだ。

キャラコさんは、閉口して、またトボトボと歩き出した。

鬱蒼と繁り合った葉の間から、陽の光が金色の縞になってさし込んでいる。しんとして、小鳥の声のほか何の物音もきこえない。

茜さんは、急に足をとめて、顎で指して、大きな切り株へキャラコさんを掛けさせると、自分は樹の幹に背をもたせて立ったまま、悪く落ち着いた声で、

「……どう? ここなら、どんな話でもできるわね。……あたしが、こんなに気をつかってあげるのは、女のよしみだけですることなのよ。親切だなんて思いちがいしないようにして、ちょうだい」

それにしても、わけのわからないことばかりいう。キャラコさんは返事のしようもなくておし黙っていると、茜さんは、唇のはしに皺をよせてジロジロとキャラコさんを見おろしながら、だしぬけに、

「キャラコなんて、ずいぶんトンチキな名ね。ひとを喰ってるわ」

と、切って放すように、いった。すこし無礼だと思ったが、キャラコさんは、笑いながら素直にうなずいた。

「そうね」

「それ、あなたの本当の名?」

キャラコさんは、うちあけた話をする。

「いいえ、綽名なのよ……あたし、いつもキャラコの下着を着ているでしょう。だもんだから……」

「本当の名は、なんというの? 宿帳には、沼間槇子となっていますわね。あれがそうなの?」

「いいえ、あれは従姉の名よ」

「じゃ、あんたの名は?」

キャラコさんは、まっすぐに茜さんの顔を見つめながら、こたえる。

「それは、いえないことになっていますの」

ふうん、と鼻を鳴らしてから、

「じゃ、あんたのお父さまは、何をなさる方?」

キャラコさんが、首をふる。

「それも、いえませんの」

「おや、不便ね。……どういうわけで?」

「それも、申し上げられませんわ」

「ええ、いってくれなくても結構よ。……要するに、あんたは、偽名して、あんなところに隠れているのね」

茜さんは露骨な嘲笑をうかべながら、

「なにか、よくよくうしろ暗いことがあるのね」

キャラコさんは、返事をしなかった。うしろ暗いことなんかないといってみたところで、しょせん水かけ論だからである。

茜さんは、勝ち誇ったような声で、

「そんなことぐらいわからないと思う? あたしはよほど前からちゃんと知っていたのよ。あんた、槇子さんと呼ばれると、ときどき、返事をしはぐるでしょう。……ははあ偽名をつかっているんだな、ってそう思っていたの。……いったいどうしたっていうの?……あんた、ここで、そっとママにでもなるというわけ? それとも、なにか、もっと深いわけがあるの?……いずれにしても、浮世を忍ぶには屈強の場所ね。……でも、そんなことは、あたしの知ったことじゃない。おうかがいしたいのは、ほかのことなの」

キャラコさんが、落ち着いた声でいう。

「おっしゃってみて、ちょうだい」

傲慢に、上から見おろしながら、

「あんた、兄に対して、どんな感情を持っていらっしゃるの」

「お気の毒だと思っていますわ」

「おや、たったそれだけ?……ほんとうのことをいってくださいね」

「あたし、嘘なんかいったことはありませんわ」

茜さんは、ふん、と鼻で笑って、

「自慢らしくいうわね。だいたい、嘘のある齢でもないじゃないか。あんたなんか、まだ子供だわ。……でも、あんたは別なのかも知れない。……ねえ、かくさずにいってちょうだい。あんた、兄に対して何か特別な感情を持っているんじゃない?」

キャラコさんは、ゆっくりとかんがえてみる。

どう考えても、特別なんてことはないようだ。佐伯氏にたいする愛の感情は、秋作氏や立上氏にたいするそれとちっとも変わりがないように思う。ただ佐伯氏のほうはたいへん不幸なので、どんなことでもして慰めてあげたいという、すこし別な気持が加わるだけのことである。

キャラコさんは、微笑しながらこたえた。

「特別な感情なんかもっていないようよ」

「じゃ、なぜ、あんなにしつっこく兄をつけ廻すの」

「あなた、考えちがいをしていらっしゃるんだわ。あたし、本を読んであげたり、お話をしてあげたりしているだけなの」

「それ、本当でしょうね」

「本当よ」

「誓うことができて?」

「ええ、誓ってもいいわ」

「そんなら、それでいいから、じゃ、もうこれっきり兄に逢わないようにしていただきますわ」

「あら、なぜでしょう」

茜さんは、マジマジとキャラコさんの顔をみつめながら、吐きだすように、

「汚らわしいからよ、あんたのようなひと」

そばへ寄ってもらいたくないというふうに、殊更らしいしぐさでとなりの幹に移ると、それに背をもたせながら、

「ご存知ないかもしれませんけれど、あたしの一族は純血なのよ。……だから、あんたのような、うしろぐらいところのある下等なひとはそばへ寄せつけないことにしてあるの。膚がけがれますから。……どう、おわかりになって? これでもわからなければ、あんた、すこし馬鹿よ」

キャラコさんは、思わず立ちあがった。が、すぐ自制した。

(……すこし、頭の工合が悪いのかも知れない。どうも常態でないようだわ。こんな非常識なひとのいうことにムキになったりしたら、それこそ、こっちがやりきれないことになる。……それにしても、純血って、なんのことかしら? 馬でもあるまいし、ずいぶん、でたらめなことをいうわね)

キャラコさんは、馬鹿馬鹿しくなって、口をきく気にもなれなくなった。

茜さんは、いら立たしそうに眉をひそめながら、

「なんでもいいから、兄から手をひいてちょうだい。いくらつけ廻したって、もうモノにならなくてよ」

茜さんは美しいので、キャラコさんはたいへん好きだったが、あまり下等な口のききかたをするのでガッカリしてしまった。

「それで、佐伯氏のほうは、どうおっしゃっていらっしゃるの?」

茜さんは、イライラと足踏みをして、

「兄のことなんか放って置いてちょうだい。もちろん、あんたのことなんか、もう問題にしていなくてよ。……兄はお人好しなもんで、一向気がつかないの。……だから、あたしからよくいってやりましたわ。……あれは、たいへんなお嬢さんなのよ、って。……兄も不愉快がって、あいつ、どこかへ行ってしまわないかな、っていっていましたわ。……つまりね、あたし、兄の代理でやってきたわけなの」

キャラコさんは、ちょっと眼を伏せた。

(なるほど! きのうに限って疏水へやって来なかったのは、そういうわけだったんだわ)

もちろん、よく思われようとしてやったことではないが、それにしても、こんな情けない原因で佐伯氏に逢えなくなるのは、すこし悲しかった。

しかし、自分でなければ、佐伯氏を慰めることができないというのではないし、それに、いつまでもそばにいてあげられるというわけでもないのだから、どっちみち同じことのようである。立上氏の力で、佐伯氏の視力がすこしでも回復すれば、それで自分の好意はとどくわけだ。

茜さんは、鋭い舌打ちをひとつして、

「ねえ、お返事はどうなの」

キャラコさんが、はっきりと、こたえた。

「もう、お目にかかりませんわ」

「逢わないっていうだけでは困るのよ。すぐあの宿から出て行っていただけるかしら?」

キャラコさんは、素直にうなずいた。

「ええ、そうしますわ。今日じゅうならよろしいの?」

「できるだけ早くね」

茜さんは、背伸びをするようにグッと胸をそらすと、

「……それから、あしたおいでになるというドクトルの件ね、あれ、お断わりしてよ」

キャラコさんは、眼を見はって、

「あら、どうしてでしょう。そのかたなら、かならずお兄さまのお眼を癒して差しあげることができるんです。どうか、そんなことをおっしゃらないで……」

茜さんは、切りつけるような調子で、

「結構よ。放って置いてちょうだい。……あたし、兄を盲目のままにして置きたいんです」

キャラコさんは、自分の頬にクワッと血がのぼってくるのがわかった。

「茜さん、あなた……」

茜さんは、空うそぶいて、せせら笑うように、いった。

「盲目の兄! なんて、ずいぶん、浪漫的じゃないこと?」

とりつくしまもなかった。

キャラコさんは、これを機会に、秋作氏のすすめにしたがって、すこしの間ほうぼうを歩いて見ることにきめた。

箱根町の小さな旅館へ引き移って、旅行の支度をしようと思って町へ買物に出ると、町かどの電柱に、脇坂部隊の戦傷勇士佐伯軍曹が、本町有志の熱心な懇請によって、今日午後一時から処女会の講堂で実戦談を行なわれることになったというビラがはりだしてあった。

蘆の間で、ほのぼのと木笛を吹いていたわびしそうな姿が眼にうかぶ。あの佐伯氏がどんな切実な働きをしたのか聴いてみたくなった。

会場へ行くと、入口に大きな国旗をつるし、

南京光華門突入決死隊の一人、佐伯軍曹軍事講演会々場

という大きな紙の立看板がたてかけられてあった。

講堂にはもう大勢の聴衆がつめかけ、演壇の両側には町の役員らしい人たちがズラリとい並んでいる、前列のはしに、佐伯氏が、すこしうつ向き加減になって、茜さんと並んで掛けていた。

キャラコさんは、うしろから突かれてとうとう演壇から二列目の椅子のところまで押しだされ前の人の背中に隠れるようにして坐っていた。

定刻になって、司会者のながながしい紹介が終ると、とどろくような拍手が起こり、佐伯氏が茜さんに手をひかれて、演壇あがってきた。

昂奮しているせいか、いつもより顔の色が悪く、ソワソワして、まるっきり落ち着きがなかった。水差しの水を一杯飲んでふるえるような手つきで唇をぬぐうと、聞きとりにくいほどの低い声ではなしはじめた。

「……南京城攻略戦は、……南京城壁、東南方から開始されまして、……十日の午後五時、脇坂部隊は、工兵部隊の決死的城門破壊と間髪を入れず、光華門の一角を占領……」

声がとぎれて、何をいっているのか最後のところははっきりと聞えなかった。顔が土気色になり、ハンカチを出してはしきりに額をぬぐう。倒れるのではないかと思って、キャラコさんは、気が気でなく伸びあがって佐伯氏の顔ばかり見つめていた。

佐伯氏は演壇に両手をついて首を垂れていたが、しばらくののち、顔をあげると、つぶやくような声でつづけた。

「……午後五時廿分、山際、葛野両勇士麾下の決死隊士によって光華門城頭高く日章旗が掲げられますと、伊藤中佐につづいて、……われわれ……」

壇に手をついて、肩で大息をつき、

「われわれ、……一同……」

もう、倒れる。……キャラコさんは、夢中になって、われともなく、

「ああ」

と、大きな声をあげた。

佐伯氏はギョッとしたように、急に顔をあげてキャラコさんのほうを眺めていたが、聴衆のほうへ向き直ると、とつぜん、

「申し訳ありません。……実に、どうも、不敵千万な……」

と、いうと、声をあげて演壇の上へ泣き伏してしまった。

講堂の一同は、何事かと眼をそばだてているうちに、佐伯氏は、錯乱したように演壇を駆けおりると、人波をおしわけながら入口から走り出して行ってしまった。

キャラコさんは、旅の身じたくをして箱根町から発動機艇に乗り、湖尻の桟橋で降りた。

渚の向うに、毎日、佐伯氏と落ち合っていた疏水の蘆が見える。

いろいろな思いが、しずかに心のうえを流れる。

佐伯氏の過去に、いったいどのような事があったのか察することができないが、なにか、たいへんな不幸か、たいへんな悩みがあったのだという事だけはわかる。あの狂い出したようなようすを見るにつけても、それが、どんなにかひどいものだったろうと、思いやられるのである。

……疏水のほうから、木笛の音がゆるゆると流れてくる。

空耳ではなかった。佐伯氏がいつも吹く、あのやさしげな曲である。

キャラコさんは、なつかしさに耐えられなくなって、小走りしながら、蘆の間へ入ってゆくと、佐伯氏は木笛を吹いたまま、いつものように、すこし身をすさらせて、キャラコさんの席をつくった。

キャラコさんは、そのそばへ肱をくッつけて坐った。

佐伯氏は、もうあの黒い眼鏡をかけていなかった。どうしたのかと思われるほど、いきいきとした顔色をしていた。

楽しそうに、ゆっくりと木笛を吹き終えると、男にしてはすこしやさしすぎる、深く澄んだ眼差しでキャラコさんの顔を眺めながら、いった。

「キャラコさん、私はあなたに、ひどい嘘ばかりついていました。どうか、ゆるしてください。……私の弱さのせいもありますが、それはともかく、そうしなければならない深い事情があったのですから……」

キャラコさんは、黙ってうなずいた。

佐伯氏は、言葉を切ってから、ちょっと例のないほど率直な口調で、

「……キャラコさん、驚かないでくださいね。私は、昨年の暮れから世間を騒がせていた三万円の拐帯犯人なんです」

キャラコさんは、だまって佐伯氏の顔を眺めていた。自分でもふしぎに思われるほど静かな気持だった。

佐伯氏は、両膝を抱いて、ゆるゆると身体をゆすりながら、

「こんな話は、お聞きになりたくもないでしょうが、でも、我慢して、もうすこしきいてください。あなたのご親切を、こんなふうに、長い間裏切っていたおわびのためにも、せめて、そうでもさせていただきたいと思うのです」

キャラコさんは、微笑しながらこたえた。

「あたしにお詫びになることなんかいりませんけど、それで気がすむのでしたら、どうぞ、なさりたいようになすって、ちょうだい」

佐伯氏は、湖尻の汽船発着所のほうへチラと眼を走らせてから、

「私は、今あなたが乗っていらしたモーター・ボートで箱根町へ行って自首するつもりなのですから、どっちみち、そんなに長い間お話はできないのです。……もう、時間もありませんから簡単にお話しますが、私も茜も、子供のときから、屈辱や不安や空腹などの鋭い切っ尖に絶間なくおびやかされて来た身の上だったのです。……ようやくの思いで小さな実業学校を出て、長い間就職口を探していますと、ある銀行の課長が私を使ってやってもいいというのです。ただし交換条件がある。……就職させてやるかわりに、茜と秘密の結婚をさせろというのです」

キャラコさんは、思わず眼を閉じた。キャラコさんのような人生の経験の浅いものにも、それからどんな悲劇が起きたのか、これだけ聞くともうなにもかもわかるような気がした。

佐伯氏は、眼に見えぬほど顔を赤らめて、

「……どれほど卑屈になじんでいたとはいえ、さすがに、そんなことまでする気にはなれませんでしたが、茜が泣いて説得するので、死んだ気になって承知しました。……そうさえすれば、二人とも、長い貧乏の中から浮びあがれるのですから。……ところが、それもいつまでもつづきませんでした。茜はたった二年で捨てられてしまい、そのあげく、こんどは私を解雇するといい出しました。……私は、貧乏だというだけの理由で、長い間、底知れぬ悪意や不親切や迫害に駆りたてられて、すっかりひねくれてしまい、人生とは、いつか復讐してやる値打のあるものだといつもそう考えていましたので、課長のひどい仕打ちにしかえしをするために、その日、支店へ送るはずの三万円の現金を持ち出してやりました。せめて、それくらいのことをしてやらなければ息がつまりそうだったのです。……それから不埓にも傷痍軍人になりすまして、茜と二人でほうぼう逃げ廻りました。やって見ると、思いがけなく困難な仕事でしたが、私たちは元気をなくしませんでした。自分のしたことが悪い事だとはどうしても考えられなかったからです。……愚かな話ですが、ざまア見ろとさえ思っていました。そんなにも、心がねじけていたのです」

そういって、おだやかな微笑をうかべながらキャラコさんの眼を見かえし、

「……ところで、ここであなたにお目にかかるようになってから、とつぜん、私の前に新しい世界がひらけることになりました。……こんな親切な世界もあるのかと、呆気にとられてしまったのです。……生まれたときから、ひとの不親切や、意地悪や、悪意ばかり眺めてきた眼には、とても真実なこととは考えられないのでした。……キャラコさん、あなたは、私の眼がかならず癒ると茜におっしゃったそうですね。……実際、その通りでした。……なにも、ドクトルなどを呼んでくださる必要はなかったのです。……あなたの手で、ちゃんと私の視力をとり戻してくださいましたから。……つまり、心の視力をね。……それから、たびたびここであなたと逢って、人間の親切というものを深く心にしめるにつけ、自分のしていることがいかにも果敢なく思われてきて、新しい出発の動機をつくるために自首するといい出しました。……茜は、私の決心がにぶったのだと思って、いろいろな方法でそれを阻止しようとしました。あなたに逢えないようにしたのもそのためです。……しかし、どうか、茜をせめないでください。間違っていようとも、あれは、あれなりの真情で私を愛しているのですから。……嘘だったということは、今日はじめてわかりましたが、茜から、あなたが東京へ行かれたと聞くと、私は闇夜の中でとつぜん光明を失ったような気持になって、また決心がにぶり、茜にすすめられて、今日のような不埓なまねをいたしましたが、でも、もう大丈夫です。私の決心はぐらつきません。贖罪をして新しく生まれ変わったら、その身装りをお目にかけに行きます。……キャラコさん、私はあなたにひどい嘘をつきましたが、どうぞ、ゆるしてください。あなたにだけは、拐帯犯人だということを知られたくなかった。ここで語り合ったあの姿で、あなたの記憶にとどめて置きたかったからです」

プツンと言葉を切ると、蘆の間でゆるゆると身体を起こしながら、

「……さあ、ずいぶんしゃべった。……では、そろそろ出かけることにしましょう。……いつか、私がそういいましたね。なんでもなくしてくださったあなたの親切が、私にどんなたいへんな影響をあたえたか、いつか必ずわかるときが来るって。……つまり、これが、その結果です」

キャラコさんは、発動機艇の桟橋まで佐伯氏を送って行った。

発動機艇は渚を離れた。

佐伯氏は船尾に坐って、ゆるゆると木笛を吹いている。

岸では、キャラコさんが長い蘆を振ってわかれの挨拶をする。

発動機艇の影が見えなくなっても、木笛の音はまだきこえていた。

次の日のひるごろ、キャラコさんと茜さんは、長尾峠の頂上に立っていた。眼のしたに、蘆の湖が、古鏡のように、にぶく光っている。

キャラコさんは、ここから御殿場のほうへくだり、茜さんは、仙石原のほうへおりて、それから東京へ職業をさがしに行くのである。

いよいよ別れる時がくると、茜さんが、いった。

「兄は、ほんとうにあなたを愛していたのではないでしょうか。あなたが立上氏を呼んだと聞くとその夜、兄は夜半にそっと起きあがって、稀塩酸でじぶんの眼をつぶそうとしているのです。必死なようすでしたわ。……あなたにだけは嘘つきだと思われたくなかったのでしょう。……これだけ申しあげたら、この間、あたしがなぜあんなひどいことをいったか、わかってくださるでしょう。……ほんとうに、ごめんなさいね。……でも、あたしにすれば、あなたより、やはり兄の眼のほうが大切だったのですから……」

二人は、右と左にわかれた。互いの姿が見えなくなるまで、手をふりながら。

Chapter 1 of 1