二
たしかに葉山にいらっしてるはずだと思って、安心してやって来たのに、
「ちょうど、きのう、お帰りになりまして……」
と、小間使いが、いう。
困ったことになったと思ったが、もう、引きかえすわけにはゆかなかった。
御母堂が、恰幅のいい、大きな身体をゆするようにして、
「まあまあ」
と、叫びながら玄関へ走り出してきた。
「……、これは、ようこそ。珍らしいひとがひょっくりやって来たもんだ」
「おばさま、いつも、ご機嫌よくて」
御母堂は、顔じゅう笑みをくずして、
「うむうむ、挨拶などは、どうでもいい」
手をとらんばかりにして、
「さァさァ、どうかあがってちょうだい。……ご無沙汰ばかりしていますが、みなさん、おかわりはないの?……うむ、それはよかった。……きのう帰って来たとこでね、ちょうどいい折りだった」
上機嫌に、なにもかもいっしょくたに、ひとりでうけ答えしながら、庭に向いた風とおしのいい夏座敷へ通すと、せっかちに手を鳴らして、
「おいおい、誰かいないのかい。早く、おしぼりを持っておいで」
走りこんできた女中に何かいいつける間も惜しそうに、
「葛子が帰って来たら、嬉しがって、また、暴れまくるこッたろう。……ほんとうに、こんな暑い日に、よくやって来ておくれだった。……なんだろう、きょうは、ゆっくりして行っていいのだろう」
「ええ、べつに用事ではなかったのですけど……」
胸の中に臆心があるので、いつものようなのんきな調子が出て来ない。
「あの……、あまり、ごぶさたしましたから、……きょうは、ちょっと、お顔を見におうかがいしましたの」
相手がなんともいわないのに、あわてて、じぶんから、
「ほんとうよ」
と、つけ足して、心の中で赤面した。
もちろん、疑うようすなどはなく、ほくほくと眼を無くして、
「そうかい、そうかい。どうか、ゆっくりしていってちょうだい」
女中たちが廊下の端に固まって、なにかコソコソいってるのへ聴耳を立てて、
「こらこら、なんだい、そんなところでコソコソと……。どうも、躾の悪い家でねえ、あんなところで垣のぞきをしている。……なにしろ、この家じゃ、あなたの評判がたいへんなんだから、新しく来た女中どもがあなたを見たがって、それで、あんなことをしてるのさ。まあまあ、すこし見物させてやんなさい」
その自慢らしい顔といったらないのである。
キャラコさんが、なにより懼れていたのは、母堂のこの底知れない愛情だった。
古い旗本の家で、ずっと濶達なくらしをして来たせいで、六十を越えたこの年になっても、相変らず、派手で大まかで、元気いっぱいに、男のような口調でものをいう。
キャラコさんは、小さな時から、気さくで太っ腹な、この大叔母がだいすきだった。
浜子夫人のほうも、寛大で謙譲で、そのくせ、どこは硬骨のあるこのキャラコさんが大々のひいきで、進級祝いなどには、あッと眼を見はるような豪勢な祝品をかつぎ込んだりする。
いったん、キャラコさんのことになると、すっかり夢中になって、とろとろととろけてしまう。自慢で自慢でしようがなくて、行く先々で、精いっぱいに吹聴する。
「うちの馬鹿どもとちがって、剛子はほんとうにりっぱな娘です。あたしゃ、ほんとうに日本一だくらいに思っているんだ。夫人さん、あなたの前だけど……」
そのひとの家へ、今日自分が、何をしに来たかとかんがえると、キャラコさんは、すこし情けなくなる。
留守でさえあってくれたら、多少、良心の呵責が軽くてすんだろうに、まるで舐めずりたいというように、ニコニコとじぶんを眺めている慈愛深い母堂の眼に出逢うと、手も足も出ないような気持になる。
せめて、放って置いてでもくれたらと思うのに、あれこれと気を揉んで、いっしょうけんめいに世話をやく。
「そうそう、首のとこなんかも、よく拭きなさい。……いっそ、服なんかひ※脱いでおしまいな」
「それじゃ、裸になってしまいますわ」
「裸になったっていいじゃないか。よその家じゃあるまいし」
何を思い出したか、急に膝を打って、
「そうそう、まだ、話さなかったね、そら、このお正月。……れいの遺産相続の騒ぎのとき。……あたしゃ、じぶんで玄関にがんばっていて、ひとりずつ新聞屋を追っ払ったんだよ。……もちろん、写真もあれば、居どころも知っているが、新聞などでワイワイ騒がれちゃあの娘の身上に瑕がつく。そうまでして、お前さんたちに義理だてするいんねんはない※だから、まごまごしないで、とッとと帰っておくれって、ね……」
そういって、その時のようすが見えるような真剣な顔つきをする。見ていられなくなって、キャラコさんは、思わず眼をつぶった。
(おばさま、ごめんなさい……)
恥と、すまなさの感情で、もうすこしで、何もかも打ちあけてしまうところだった。
でも、それでは、悦二郎氏が隠しておきたいことを犠牲にして、自分だけがいい児になる結果になると思いついて、危ないところで踏み止どまったが、良心のほうは、一向楽にならなかった。それどころか、これで、はっきりと共犯のかたちになり、いっそう、抜きさしのならない羽目に落ち込むことになった。
キャラコさんは、うんざりする。すっかり参ってしまって、ものをいう元気もなくなった。ぼんやりと、こんなことをいって見る。
「悦二郎さんは、お留守?」
母堂は、大袈裟にうなずいて、
「ああ、ああ、あれは、相変らずさ。……善福寺の池へ珍らしい鳥が来たといって、けさ早くから井荻へ出かけて行った。正午までに帰るといっていたが、どうして、なかなか。……れいの通り、小鳥と遊びはじめて、時間なんて忘れてしまったんだろう」
思いついたように、
「正午といえば、あなた、午食はまだなんだろう? ……さて、なにを、ご馳走しようか。昨日帰ったばかりだから、碌なこともできまいけど……」
どう饗応そうかと焦るように、しきりに首をひねってから、
「そうそう、いいものがある。信州から風味なものが届いているから、あれをご馳走しよう。待っていてちょうだい、すぐだから」
キャラコさんは、閉口して、手を合わせんばかりに、
「おばさま、もう、どうぞ。……あたしなら、結構ですから」
「おや、生意気。……お辞退をすることを覚えたのかい。……まあ、ちょっと、待っていなさい」
そういって、身体をゆすりながら、小走りに勝手のほうへ行ってしまった。
キャラコさんの身近で、なにか、たいへんなことが始まりかけている。この邸の中の空気がただならぬ動揺をはじめた。
この座敷は母堂の居間で、お勝手に近いので、忙しく指図をしている母堂の声や、それに答える女中たちの声、あわただしく走り廻る足音や、何か重いものをドスンと落す音、賑やかな笑い声やシュウ、シュウ水を流す音などが雑然といり交ってここまで響いてくる。
キャラコさんは、物怯したような顔で、広い座敷の真ん中にぽつねんと坐っている。靴下をへだてて藺草の座布団の冷たさがひやりと膚に迫る。それがまた、なんとなく落ち着かない思いをさせる。
床の間に、瓢斎の竹籠にけた黄色い夏薔薇がある。
小さな声で、
「まあ、きれいだこと」
と、いって見る。
ところで、キャラコさんの本心は、綺麗だともなんとも思っているわけではない。視線はたしかに薔薇の上をうろついているが、心はただひとつのことばかり考えている。自分の手が書机の抽斗にかかる気の遠くなるような瞬間のことを。
ムズムズする感覚や、えたいの知れないこそばゆさが、背筋を這い廻ったり、喉の奥を締めつけたりする。知らない野道で日が暮れたような、この広い世界でたったひとりぼっちになってしまったような、なんとも手頼ない気持である。途中の電車の中のような元気はどうしても湧いて来ない。
人間には、誰でも一度はこんな助からない気持になることがあるものだ。なんということはないが、身体じゅうから力がぬけて、手も足も出ないような工合になってしまう。いまのキャラコさんが、ちょうど、それである。
ここへ来るまでは、わけのないことのようにかんがえていたが、さて、いよいよ乗り込んで来て見ると、どうして、どうして、わけなしだなんてわけには行かない。庭下駄をはいて、三十歩も歩けば行かれる離屋の書斎が、雲煙万里の向うにあるような気がする。ちょっと駆け出して行けば、ものの三分ぐらいですんでしまうことなのに、なんとも億劫で、どうしても腰をあげる気にはなれない。腰どころではない。眼さえも庭のほうへは向きたがらない。なるだけ、そのほうを見ないようにしている。
もう一人のキャラコさんが、焦れったがって、さいそくする。
――さァ、今がチャンスだ。早く行きなさい。
べつのキャラコさんが、弱々しい声で、こたえる。
――もうすこし、あとで。
もう一人のキャラコさんが、舌打ちする。
――あとなんていってると、チャンスをなくしてしまうぞ。おばさまが帰って来ないうちに、早くやっつけろ!
べつのキャラコさんが、いやいや、をする。
――そんなふうに、コソコソやるのは、いや。
――コソコソでなければ、どんなふうにやるつもりだ?
――もっと、堂々とやる。
もう一人のキャラコさんが、とうとう癇癪をおこす。
――くだらないことをいうな。そんなことをいって、結局やらないつもりじゃないのか?
べつのキャラコさんが、情けない声を、だす。
――やるにはやるけれど、いま、気が乗らないから、いや。
――じゃ、いつになったら、やるつもりだ。
――御飯を食べてから。
せめて、母堂でもいてくれれば助かると思うのに、なかなか戻って来ない。何をしてるのかと思ってお勝手へ行って見ると、母堂は両肌脱ぎになって、一生懸命に蕎麦を打っていた。
キャラコさんは、やるせなくなって、壁にもたれて眼をつぶった。