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キャラコさん 06 ぬすびと
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キャラコさん 06 ぬすびと
久生十蘭
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译文 Pagera AI
原文 Public Domain
Chapter 2 of 3

二

たしかに葉山にいらっしてるはずだと思って、安心してやって来たのに、

「ちょうど、きのう、お帰りになりまして……」

と、小間使いが、いう。

困ったことになったと思ったが、もう、引きかえすわけにはゆかなかった。

御母堂が、恰幅のいい、大きな身体をゆするようにして、

「まあまあ」

と、叫びながら玄関へ走り出してきた。

「……、これは、ようこそ。珍らしいひとがひょっくりやって来たもんだ」

「おばさま、いつも、ご機嫌よくて」

御母堂は、顔じゅう笑みをくずして、

「うむうむ、挨拶などは、どうでもいい」

手をとらんばかりにして、

「さァさァ、どうかあがってちょうだい。……ご無沙汰ばかりしていますが、みなさん、おかわりはないの?……うむ、それはよかった。……きのう帰って来たとこでね、ちょうどいい折りだった」

上機嫌に、なにもかもいっしょくたに、ひとりでうけ答えしながら、庭に向いた風とおしのいい夏座敷へ通すと、せっかちに手を鳴らして、

「おいおい、誰かいないのかい。早く、おしぼりを持っておいで」

走りこんできた女中に何かいいつける間も惜しそうに、

「葛子が帰って来たら、嬉しがって、また、暴れまくるこッたろう。……ほんとうに、こんな暑い日に、よくやって来ておくれだった。……なんだろう、きょうは、ゆっくりして行っていいのだろう」

「ええ、べつに用事ではなかったのですけど……」

胸の中に臆心があるので、いつものようなのんきな調子が出て来ない。

「あの……、あまり、ごぶさたしましたから、……きょうは、ちょっと、お顔を見におうかがいしましたの」

相手がなんともいわないのに、あわてて、じぶんから、

「ほんとうよ」

と、つけ足して、心の中で赤面した。

もちろん、疑うようすなどはなく、ほくほくと眼を無くして、

「そうかい、そうかい。どうか、ゆっくりしていってちょうだい」

女中たちが廊下の端に固まって、なにかコソコソいってるのへ聴耳を立てて、

「こらこら、なんだい、そんなところでコソコソと……。どうも、躾の悪い家でねえ、あんなところで垣のぞきをしている。……なにしろ、この家じゃ、あなたの評判がたいへんなんだから、新しく来た女中どもがあなたを見たがって、それで、あんなことをしてるのさ。まあまあ、すこし見物させてやんなさい」

その自慢らしい顔といったらないのである。

キャラコさんが、なにより懼れていたのは、母堂のこの底知れない愛情だった。

古い旗本の家で、ずっと濶達なくらしをして来たせいで、六十を越えたこの年になっても、相変らず、派手で大まかで、元気いっぱいに、男のような口調でものをいう。

キャラコさんは、小さな時から、気さくで太っ腹な、この大叔母がだいすきだった。

浜子夫人のほうも、寛大で謙譲で、そのくせ、どこは硬骨のあるこのキャラコさんが大々のひいきで、進級祝いなどには、あッと眼を見はるような豪勢な祝品をかつぎ込んだりする。

いったん、キャラコさんのことになると、すっかり夢中になって、とろとろととろけてしまう。自慢で自慢でしようがなくて、行く先々で、精いっぱいに吹聴する。

「うちの馬鹿どもとちがって、剛子はほんとうにりっぱな娘です。あたしゃ、ほんとうに日本一だくらいに思っているんだ。夫人さん、あなたの前だけど……」

そのひとの家へ、今日自分が、何をしに来たかとかんがえると、キャラコさんは、すこし情けなくなる。

留守でさえあってくれたら、多少、良心の呵責が軽くてすんだろうに、まるで舐めずりたいというように、ニコニコとじぶんを眺めている慈愛深い母堂の眼に出逢うと、手も足も出ないような気持になる。

せめて、放って置いてでもくれたらと思うのに、あれこれと気を揉んで、いっしょうけんめいに世話をやく。

「そうそう、首のとこなんかも、よく拭きなさい。……いっそ、服なんかひ※脱いでおしまいな」

「それじゃ、裸になってしまいますわ」

「裸になったっていいじゃないか。よその家じゃあるまいし」

何を思い出したか、急に膝を打って、

「そうそう、まだ、話さなかったね、そら、このお正月。……れいの遺産相続の騒ぎのとき。……あたしゃ、じぶんで玄関にがんばっていて、ひとりずつ新聞屋を追っ払ったんだよ。……もちろん、写真もあれば、居どころも知っているが、新聞などでワイワイ騒がれちゃあの娘の身上に瑕がつく。そうまでして、お前さんたちに義理だてするいんねんはない※だから、まごまごしないで、とッとと帰っておくれって、ね……」

そういって、その時のようすが見えるような真剣な顔つきをする。見ていられなくなって、キャラコさんは、思わず眼をつぶった。

(おばさま、ごめんなさい……)

恥と、すまなさの感情で、もうすこしで、何もかも打ちあけてしまうところだった。

でも、それでは、悦二郎氏が隠しておきたいことを犠牲にして、自分だけがいい児になる結果になると思いついて、危ないところで踏み止どまったが、良心のほうは、一向楽にならなかった。それどころか、これで、はっきりと共犯のかたちになり、いっそう、抜きさしのならない羽目に落ち込むことになった。

キャラコさんは、うんざりする。すっかり参ってしまって、ものをいう元気もなくなった。ぼんやりと、こんなことをいって見る。

「悦二郎さんは、お留守?」

母堂は、大袈裟にうなずいて、

「ああ、ああ、あれは、相変らずさ。……善福寺の池へ珍らしい鳥が来たといって、けさ早くから井荻へ出かけて行った。正午までに帰るといっていたが、どうして、なかなか。……れいの通り、小鳥と遊びはじめて、時間なんて忘れてしまったんだろう」

思いついたように、

「正午といえば、あなた、午食はまだなんだろう? ……さて、なにを、ご馳走しようか。昨日帰ったばかりだから、碌なこともできまいけど……」

どう饗応そうかと焦るように、しきりに首をひねってから、

「そうそう、いいものがある。信州から風味なものが届いているから、あれをご馳走しよう。待っていてちょうだい、すぐだから」

キャラコさんは、閉口して、手を合わせんばかりに、

「おばさま、もう、どうぞ。……あたしなら、結構ですから」

「おや、生意気。……お辞退をすることを覚えたのかい。……まあ、ちょっと、待っていなさい」

そういって、身体をゆすりながら、小走りに勝手のほうへ行ってしまった。

キャラコさんの身近で、なにか、たいへんなことが始まりかけている。この邸の中の空気がただならぬ動揺をはじめた。

この座敷は母堂の居間で、お勝手に近いので、忙しく指図をしている母堂の声や、それに答える女中たちの声、あわただしく走り廻る足音や、何か重いものをドスンと落す音、賑やかな笑い声やシュウ、シュウ水を流す音などが雑然といり交ってここまで響いてくる。

キャラコさんは、物怯したような顔で、広い座敷の真ん中にぽつねんと坐っている。靴下をへだてて藺草の座布団の冷たさがひやりと膚に迫る。それがまた、なんとなく落ち着かない思いをさせる。

床の間に、瓢斎の竹籠にけた黄色い夏薔薇がある。

小さな声で、

「まあ、きれいだこと」

と、いって見る。

ところで、キャラコさんの本心は、綺麗だともなんとも思っているわけではない。視線はたしかに薔薇の上をうろついているが、心はただひとつのことばかり考えている。自分の手が書机の抽斗にかかる気の遠くなるような瞬間のことを。

ムズムズする感覚や、えたいの知れないこそばゆさが、背筋を這い廻ったり、喉の奥を締めつけたりする。知らない野道で日が暮れたような、この広い世界でたったひとりぼっちになってしまったような、なんとも手頼ない気持である。途中の電車の中のような元気はどうしても湧いて来ない。

人間には、誰でも一度はこんな助からない気持になることがあるものだ。なんということはないが、身体じゅうから力がぬけて、手も足も出ないような工合になってしまう。いまのキャラコさんが、ちょうど、それである。

ここへ来るまでは、わけのないことのようにかんがえていたが、さて、いよいよ乗り込んで来て見ると、どうして、どうして、わけなしだなんてわけには行かない。庭下駄をはいて、三十歩も歩けば行かれる離屋の書斎が、雲煙万里の向うにあるような気がする。ちょっと駆け出して行けば、ものの三分ぐらいですんでしまうことなのに、なんとも億劫で、どうしても腰をあげる気にはなれない。腰どころではない。眼さえも庭のほうへは向きたがらない。なるだけ、そのほうを見ないようにしている。

もう一人のキャラコさんが、焦れったがって、さいそくする。

――さァ、今がチャンスだ。早く行きなさい。

べつのキャラコさんが、弱々しい声で、こたえる。

――もうすこし、あとで。

もう一人のキャラコさんが、舌打ちする。

――あとなんていってると、チャンスをなくしてしまうぞ。おばさまが帰って来ないうちに、早くやっつけろ!

べつのキャラコさんが、いやいや、をする。

――そんなふうに、コソコソやるのは、いや。

――コソコソでなければ、どんなふうにやるつもりだ?

――もっと、堂々とやる。

もう一人のキャラコさんが、とうとう癇癪をおこす。

――くだらないことをいうな。そんなことをいって、結局やらないつもりじゃないのか?

べつのキャラコさんが、情けない声を、だす。

――やるにはやるけれど、いま、気が乗らないから、いや。

――じゃ、いつになったら、やるつもりだ。

――御飯を食べてから。

せめて、母堂でもいてくれれば助かると思うのに、なかなか戻って来ない。何をしてるのかと思ってお勝手へ行って見ると、母堂は両肌脱ぎになって、一生懸命に蕎麦を打っていた。

キャラコさんは、やるせなくなって、壁にもたれて眼をつぶった。

Chapter 2 of 3
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