Chapter 1 of 6

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宇治黄檗山の山口智海という二十六歳の学侶が西蔵へ行って西蔵訳の大蔵経(一切経または蔵経、仏教の典籍一切を分類編纂したもの)をとって来ようと思いたち、五百三十円の餞別を懐ろに、明治卅年の六月廿五日、神戸を発って印度のカルカッタに向った。

日本の大乗仏教は支那から来たせいで、蔵経も梵語(古代印度語)の原典の漢訳であるのはやむをえないが、宋版、元版、明版、竜蔵版とかれこれ読みあわせてみると、随所に章句の異同や遺漏があって疏通をさまたげるところへ、天海版、黄檗版、卍蔵版などの新訳が入ってきたので、いっそう混雑がひどくなった。

漢訳大蔵の模稜は早くから問題になっていて、それから八年後、日露戦争当時、明治天皇が奉天の黄寺にあった年代不明の満訳大蔵と蒙古大蔵を買上げ、校合の資料として東京帝大へ下附されたようなことまであったが、仏教は印度教(波羅門教)の興隆で大打撃を受けたうえ、八世紀の末、回教が侵入してきてあらゆる寺塔と仏像経巻を焼き、僧侶と信徒をかたっぱしから虐殺するという大破壊を二世紀にわたって行なったため、仏教は印度では形骸もとどめず、梵語経論の写本の一部がセイロン島やビルマ地方に残っているだけだから、漢訳大蔵を正誤するなどは、望んでもできることではなかった。

大乗仏教が西蔵へ入ったのは七世紀頃のことで、トンミという僧が印度から大蔵の原典を持って帰って西蔵語に翻訳し、ついで蓮華上座師が仏教の密部を西蔵の原宗教に結びつけ、西蔵を中心に満洲、蒙古、シベリヤから裏海沿岸にいたる一千万の信徒をもつ西蔵仏教の基をひらいた。西蔵人は高原パミール系の印度原住民の分流であり、西蔵語なるものはトンミが梵語のランツァ体をとってつくった国語だから、西蔵大蔵の「甘珠爾」正蔵千四十四巻、「丹珠爾」続蔵四千五十八巻の二部は、よく経、律の機微をつたえ、漢訳仏教にない経論がたくさん入っている。黄寺にあった満訳大蔵も蒙古訳大蔵もみなそれの翻訳で、梵語仏典の写本の校合すら西蔵訳の助けをかりるくらいのものだから、それを持ちだすことができれば、仏教伝来千三百年にして、はじめて釈迦所説の正念に触れることができるのである。

明治廿一、二年から日露戦争のはじまるまでの十七、八年間は、かつてないほど国民的感情が昂揚し、日本人の心に国家という斬新な感情を目ざめさせた。岡本監輔の千島義会の結成から福島中佐のシベリヤ騎馬横断、郡司大尉の千島探検、野中至夫妻の富士山頂の気象観測にまで発展する愛国心のブームのなかで、進んで国家的な事業に身を捧げようという受難者型のタイプが何人かあらわれたが、なかでも玉井喜作と山口智海の行動は傑出している。

玉井喜作は山口県三井村の出身というほか、経歴はなにひとつ知られていない。郡司大尉の千島探検隊の出発から遅れること十カ月、福島中佐が単騎旅行を終えようとする明治廿六年の十二月、イルクーツクでロシア人の茶の隊商に加わり、福島中佐と逆コースをとってシベリヤ徒歩横断の旅行にのぼった。

その頃、シベリヤ経由の茶の隊商の旅行は、寒気、プルガ(暴風雪)、狼群、流賊との戦争、ペスト、大飢餓というぐあいにあらゆる災厄の要素がそなわっていて、その隊商もポーランドの国境に着いたときは、四百五十人の人間が三分の一になっていたということである。玉井喜作は最後まで隊商から離れず、歌にもうたえないような一万五千粁の旅行をつづけ、翌々、廿八年の二月に独逸へ入り、ベルリンで Karawanen-Reise in Sibilien(「西比利亜征槎旅行」)という本を刊行した。イルクーツクからトスムスクまでの千八百粁の見事な素描は、欧亜をつなぐ茶の隊商の生活を知る唯一の文献だとされ、独逸地理学協会の紀行文庫へ収録されたが、当の玉井喜作はそれっきり欧羅巴のどこかへ消え、その後誰も逢ったものはない。玉井喜作はその本の序文で、「汽船の船室に閉じこもって欧羅巴へ行くのは月並だから、わざとこういう道をえらんだまで」といっているが、ありきたりの旅行が月並だというだけのことで、それほどの波瀾と艱難に耐えられるものだろうか。もし事実なら不可解というほかはない。

山口智海が西蔵へ密入国して、ラッサ(聖都)に達するまでの苦行は、玉井喜作のそれよりも荒々しく凄涼としていて、幸も不幸ももろともにおし潰してしまう悲劇的な宿縁の翳といったようなものが感じられる。二万一千尺のヒマラヤ越えだとか、孤独無援の百日の凍原の旅だとか、異教徒と見れば、八ツ斬りにして野犬に食わしてしまう狂人じみたラマ教徒だとか、匪賊だとか、雪豹だとか、そういう道具立てはべつにして、入蔵を企てるそのこと自体が無謀な振舞いであり、無益な消耗であって、人間の精神がこれほど肉体を苛み、躍起になって無意味な目的に駆りたてて行く例もすくない。

西蔵のラッサは、今なら自動車を利用すれば、ブータン(西蔵と印度の間にある小独立国)の国境に近い印度のダージリンから五日ぐらいで行かれるが、つい二十世紀のはじめまでは、国境のまわりに立ちめぐる一万六千尺から三万尺に及ぶ山脈の防壁を利用し、乖離と排他主義の精神をおし樹てていた頑冥な閉鎖国で、清の高宗が辺外諸部との交通を禁止した乾隆十五年(一七四九)から、民国三年(一九一四)のシムラ会議まで、百六十五年の間、欧米人と名のつくもので、ラッサはおろか、西蔵本部(南部の渓谷地方)への潜入に成功したものは一人もない。一七四九年の鎖国以後に入蔵を企図した、英、露、仏、独のあらゆる探検隊の実例が示すとおりである。

西蔵は唐代に西域諸州を侵略し、長駆して長安を攻めた慓悍な吐蕃の国で、北に崑崙、東にタングラ、南は二万九千尺のエヴェレストと二万八千尺のカンチェンジュンガを含むヒマラヤ、西はトランスヒマラヤの雄大な山脈をめぐらし、地域の半分が一万五千尺以上もある大高原地帯である。

西蔵は本部と外部に分れ、外西蔵は日本の内地のほぼ三倍ほどの広さの西北原といわれる高燥不毛の地で、平均高度一万八千尺、冬は零下四十八度まで下るので空寂たる無住の凍原となり、六、七、八の三カ月、ところどころに遊牧民の天幕が見られるだけである。本部は西北原の南にひろがるほぼ日本ぐらいの面積の低地だが、低いといっても渓谷地方で海抜九千尺、平均高度一万四、五千尺、富士山の頂上より二千尺も高いところに日本の全面積を載せ、そこに西蔵を仏法相応刹土と誇る、おそるべき二百万人のラマ教徒が住んでいる。

ラマ(喇嘛)教は、神力加持を説く密教(仏教の一流派)を精霊信仰の西蔵の原宗教(シャマニズムの一種)に結びつけ、輪廻と転生を信じ、超自然の神秘力に帰依する多神教の秘密咒教である。ラマ教の教理によると、人間の身体は地火風水の四つの要素からできていることになっている。したがって死んでもとのかたちに還元するにも、地、火、風、水の四つの道があるが、死体は穢れの最上のものなので、土葬して汚穢がながく地の下に残るのを好まない。火葬がいちばんいいのだが、樹林がともしくて燃料に苦しんでいる国柄だから、いきおい水葬か風葬ということになる。水葬は河に流すのだが、ただ投げこむのではない。手を斬り足を斬り、形のないまでにバラバラにして投げる。そのほうが魚が食いやすいのだという。風葬というのは、犬か鷲に食わせることで、岩山の平らなところへ担ぎあげ、肉は肉、骨は骨にして、石で叩いて手で捏ね、すさまじい肉団子をこしらえ、手も洗わずに恬然たる顔で茶を飲んでいる。

ラマ教徒はすべて激越な狂信者で、一種独得のクリュオーテシスム(加虐性)については、鎖国前一七〇六年に入蔵した伊太利の耶蘇会士イッポリート・デシデリが、「思い出すだけでも身の毛がよだつ」と旅行記に書いている。ラマ教徒の手に入った残酷技術の花々しさを証明するものは拷訊と刑統で、律書できめられた重罪は七十二条、これにたいする刑統(刑の種類)は千八百八十六条という豊富さである。

「ラマ教徒の残虐の熱愛と狂信が思いつかせた拷問と刑罰は、技術の繊細巧緻と創意のすばらしい点で、人類の歴史に残るすべての方法を凌駕し、トルケマダ(天才的な拷問の方法を案出した西班牙の宗教裁判判事)やアルベ(和蘭の叛乱者裁判で前例のない残酷な処刑を行なった)も及ばないような完璧さを示している。

一例をあげると、それはこんなふうにやられる。西蔵の律法はすべて連坐法(子が罪を犯せば、その父も、父が罪を犯せば、その子も同罪になる)によるので、父と子、夫と妻がいっしょに刑場へ出てくるが、刑僧はまず二人に大きなヤットコを示し、これから歯抜きの刑を行なうと宣告する。そうしておいて、剃刀で二人の髪を剃りはじめる。受刑者には歯抜きの刑に頭を剃るというのは、どういうことなのか理解できないが、間もなく、西蔵の刑術はおどろくほど洗練されたものだということを知るようになる。頭を剃り終ると、刑僧がヤットコを受刑者の一人に渡し、父に子の歯を、子に父の歯を、というぐあいに交互に抜かせる。刑僧は直接になにもしない。円滑に刑が進行するよう傍で鞭撻するだけである。はじめのうち、受刑者たちはやさしくいたわりあっているが、そのうちにたがいに呪咀しあい、最後はあらんかぎりの憎しみを投げあう眼もあてられない場面になる。歯は全部抜けたが、刑は終ったのではない。そこからはじまる。こんどは、抜いた歯をたがいの脳天へ金槌で打ちこまなくてはならない。さっきの毛剃りは、歯を楽に頭蓋骨へ嵌入させようという親切な配慮だったことを、ここではじめて諒解する。なおまた、受刑者が仏敵であるときは、打ちこんだ歯の配列が、仏陀のイニシアルになっている梵字ののフィギュアを描くように、傍から丁寧に指示するのである」

受刑者の身体を焼く刑罰にしても、西班牙や独逸では、石炭の火を入れたアイロンで身体を撫でまわすとか、蝋燭の火で気長に腋を焼くぐらいのことしかしないが、そういう場合、ラマ僧は硫黄のかたまりに火をつけてどろどろになるのを待ち、焔のたつ硫黄の溶体を棒の先ですくって、ここと思うところへ気まぐれに塗りつける。受刑者が火を磨り消そうと努力すればするほど炎の面積が広くなり、燐が骨を腐蝕する時間が早くなる。つまり刑罰の主要なモーメントの案配は、受刑者の自由意志に任せるといったぐあいになっている。

この二つの例だけをとってみても、ラマ僧は残酷の真の意味を理解していることがよくわかる。相手に与える苦痛そのものにたいする洞察力と想像力は、どんな智力でも及びつけないほど深い。見せかけのむごたらしさに眩まされるようなこともなく、客観的な残虐さに酔い痴れるようなこともない。あくまでも実際的で、受刑者の感受性を土台にして周到に計算され、相手の苦痛を想像力で補ったり割引したりするような幼稚な誤りをおかさないのみならず、単純ないくつかのマニエールに独創的な組合せをあたえることによって、誰も想像もし得なかった測り知れぬ残酷の効果をひきだすのである。

ラマ教徒の残虐精神が活発な動きをみせている間はまだしも助かるが、怠けて動かなくなると、刑罰はたとえようのないほど陰惨なものになる。その一つの例が西蔵式のカロリナ刑法である。

樹皮を剥がない丸太の二重柵で囲った十尺四方ぐらいの空地のまんなかに、長さ四尺、高さ一尺五寸ぐらいの檻が置いてある。それは受刑者が生きたまま入れられる監房なのである。受刑者は首と両腕を一つの鎖でいっしょくたにまとめられ、坐ることもできなければ身体を伸して寝ることもできず、背を曲げ、何年となくかがんだままの恰好でいるので、四肢は使途を失って骨と皮ばかりになってしまう。食餌は番僧が思いだしたとき、檻の鉄棒の間から便宜に投げこまれる。西蔵ではめずらしくない零下二十度という寒い日でも、蔽い物として羊の皮を一枚与えられるだけである。欧羅巴のカロリナ刑法は、拘禁が餓死に導くように配慮されているが、西蔵人のやりかたは、カロリナ刑法から餓死の部を引き去り、それにハンブルグの鎖拷問と西班牙の拘搾拷問を附け加えたものであることがわかる。

これがラマ教徒の加虐性が怠けているときの結果だが、そういう状態で、最低五年から二十年ぐらいまで忘れられる。受刑者のことだが、そうしておし縮められた肉体の苦痛は言語に絶するものがあろう。飢えさせられ、凍てつかされ、呪われたものの呵責をこうむりながら、どうして生きていかれるのだろう。人間の智慧ではわからないことだが、ここにもラマ教徒の行届いた残酷技術の勝利があることを知らなくてはならない。というのは、そういう不幸な受刑者の命の緒をつなぎとめ、天寿が終るまで、ゆるゆると生きつづけさせる延命薬のようなものが発明されていて、渇きの頂上で水に混ぜてこっそり飲ませる。自殺を企てて食餌を拒むものでも、水だけは飲まずにいられない人性の必然を利用するわけだが、当人は、こんなひどい目に逢いながらどうして死ねないのだろうと訝り、第三者は、こんな状態でよく生きていられるものだと驚嘆するのである。

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