Chapter 1 of 11

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肌色の月

久生十蘭

運送会社の集荷係が宅扱いの最後の梱包を運びだすと、この五年の間、宇野久美子の生活の砦だった二間つづきのアパートの部屋の中が、セットの組みあがらないテレビのスタジオのような空虚なようすになった。いままで洋服箪笥のあった壁の上に、芽出しの白膠木の葉繁みがレースのような繊細な影を落しているのが、なぜかひどく斬新な感じがした。

管理人の細君が挨拶にきた。

「おすみになりましたか」

「ええ、あらかた……ながながお世話になりました」

「宇野さん、和歌山なんだそうですね」

「ええ、和歌山よ」

「お郷里へお帰りになるんだって。テレビであなたの顔を見られなくなると思うと、さびしいですわ」

「こんなふうに休んでばかりいるんじゃ、ろくな仕事はできないでしょう。ほうぼうへ迷惑をかけるばかりで……二、三年、郷里でのんきにやって、また出なおしてくるわ」

「焦っちゃだめよ、ね。仲さんみたいなことになるのは不幸すぎるわ」

「あたしはだいじょうぶ」

「じゃ、お大切にね。元気で帰っていらっしゃい」

「ありがとう」

管理人の細君がひきとると、久美子はボール・ペンをだして、戦争の間、疎開していた伊那の谷の奥の農家へハガキを書いた。

伊那はいま藤のさかりでしょう。みなさま、お元気のよし、なによりです。先日、勝手なことをおねがいしましたが、さっそくご承知くださいましてお礼の申しようもございません。今日、日通から身の廻りのものを貨物便で送りました。ちょっと和歌山へ帰って、それからそちらへ伺うようになりますので、それまで雑倉の隅へでもお置きくださるようおねがいいたします。

もう仕残したことはなにもない。衣裳と小道具の入ったボストン・バッグをさげて部屋を出るだけ。ハガキをポストに投げこんで、どこかの安宿で衣裳を換えて、たぶん伊東行の湘南電車に乗る……。

宇野久美子は完全犯罪を行なおうとしている。ただし、久美子の場合、殺そうというのは他人ではなくて自分自身なのであった。

……生活するということは、昨日と明日の継ぎ目を縫うことだと、なにかの本に書いてあった。ラジオ劇場の台本にあったセリフだったかもしれない。

「うまいことをいうもんだわ」

久美子は出窓の鉄の手摺子に凭れ、眼の下の狭い通りを漠然とながめながら唇の間でつぶやいた。

「この人生に明日という日が無いということは、継ぎ目を織る、今日の分の糸がないということなんだ」

久美子は生存というものを廃棄するために、というよりは、自分という存在を上手にこの世から消すために、その方法をいろいろと研究した。想像力の及ぶかぎり、可能なあらゆる場合を想定し、プロットを立て、それに肉付した。これならばというプランを一月以上も頭の中にためておき、いくどもひっくりかえしてみて、完全だという確信ができたので、さっそく実行することにした。

二年ほど前の秋、おなじ声優グループの仲数枝が、フラリと久美子のアパートにあらわれた。久美子は用があって、階下の管理人の部屋で立話をしていると、裏の竹藪へドサリとなにか落ちこんだような音がした。それをなんだとも思わず、十分ほどして部屋に帰ると、仲数枝が久美子の行李の細引を首に巻きつけてその端を出窓の手摺子に結びつけ、一気に窓から裏の竹藪へ飛んで死んでいた。

「やったねえ。若い娘にしては心得たもんだ……頸骨をへし折るように作業するのは、縊死のもっとも完全な方法なんだな。ほとんど苦痛はなかったろうと思う」

老練らしい検視官が鑑識課の若い現場係に訓話めいたことをいっていた。

仲数枝の最後の演技はすごい当りだったが、人生の舞台にはエンディングという都合のいい幕切れはないので、終末はひどくごたごたした。こういう死にかたをすれば、どんなみじめな扱いを受けるものかということを、久美子はつくづくと思い知らされ、死にたくなればいつでも死ねるという高慢な自負心がひとたまりもなく崩壊した。

久美子が郷里の小学校にいるころ、生涯の運命を決定するような痛切な事件があった。土用の昼さがり、帷子を着て縁に坐っていた父が手を拍ちあわせながら叫んだ。

「ほい、これはまあ見事なもんや。どこもかしこも菜の花だらけじゃ」

草いきれのたつ庭先には荒々しい青葉がぼうぼうと乱れを見せて猛っているだけで、どこをみても菜の花などはなかった。

「お父ん、なにをいうとるなん? 土用に菜の花などあるかしらん」

「そうかのう。俺には菜の花が咲いてるように見えるがの」

間もなく父は黄疸になった。全身からチューリップ色の汗を流してのたうちまわり、夜も昼も絶叫して、阿鼻叫喚のうちに悶死した。

癌だった。原病竈は不明だが、最後は肝臓に転移して肝臓癌で死んだ。祖父も父の兄弟もみな癌で死んだ。父は癌は遺伝しない。俺だけは癌では死なぬといい、久美子も久美子の母も、そうあるように心から祈っていたが、その父も不幸な死の系列から遁れることができなかった。

さほど遠くない将来に、いずれ自分もすごい苦悶のなかで息をひきとることになるのだろうということを、久美子はそのころからはっきりと自覚していたので、もし、すこしでもそういう予徴が見えだしたら、肉体の機能のうえに残酷な死の影がさしかけない前に、安らかな方法ですばやく自殺してやろうと覚悟していた。それが願望になって、心の深いところに凝りついていた。

三月三日の夜、雛祭にちなんだ特別番組があった。それが終ってから、仲間の一人とスタジオの屋上へ煙草を喫いに行った。

晴れているくせに、どこかはっきりしないうるんだような春の空に三日月が出ていた。あまり妙な色をしているので、久美子は思わず叫んだ。

「なんなの、あの月の色は」

「月がどうしたのよ」

「妙な色をしているじゃないの。黄に樺色をまぜたような……粉白粉なら肌色の三番ってとこね」

「肌色でなんかないわ」

「黄土色っていうのかな」

仲間は煙草の煙をふきだしながら、まじまじと久美子の顔をみつめた。

「いつもの月の色よ、灰真珠色……あなたの眼、どうかしているんじゃない」

月だけではなかった。塔屋の壁も扉もアンテナの鉄塔も、もやもやした黄色い光波のようなものに包まれていた。

心臓にきたはげしいショックで久美子はよろめいた。

「宇野さん、どうしたの」

「疲れたのよ。きょうは帰るわ」

アパートへ帰るなり、久美子は鏡の前へ行って眼のなかをしらべた。白眼のところに黄色い翳のようなものがついている。爪にも掌にもそれらしい徴候があった。

あわてて服を脱いで下着をしらべてみた。シュミーズの背筋にあたるあたりにあの不吉な黄色いシミが、爪黒黄蝶の鱗粉のようなものがかすかについていた。

いずれ、こんなことになるのだろう。それはわかっていた。遠い将来のことだろうと気をゆるしていたが、意外にも早くやってきたので、久美子は愕然とした。

「疲労だね」

肋骨の下を念入りに触診してから、内科の主任は事もなげにいった。

「君達のグループは働きすぎるよ」

「うちのものはみな癌で死んでいるんです。父は肝臓癌でした……あたし黄疸なんでしょう?」

「黄疸というほどのものでもない。この冬、軽い肺炎をやったね。その名残りだ。しばらく仕事を休んで、うまいものを食ってごろごろしていれば癒ってしまう」

医務室のへっぽこ医者にわかるわけはないのだ。癌のことならこちらのほうがよく知っている。

「和歌山県と奈良県の癌死亡者は人口百万人にたいして千人以上で、比率の大きなことでは世界的に有名なんですってね……先生、あたし和歌山なんです」

内科の主任は虚を衝かれたような気むずかしい顔になった。

「家族的黄疸とでもいうのか、一家の中でつぎつぎに黄疸にかかる特異な体質がある。赤血球の構成が病的で、すぐ壊れるようになっているので黄疸にかかりやすいのだが、この型の黄疸は肝臓機能とは関係がない」

「そういう体は遺伝するんでしょうか」

「遺伝するだろうと考えられている」

これではまるで告白しているようなものじゃないか。癌研へ紹介する必要のないほど決定的な症状になっているのだと久美子は察した。

未だかつて死体があがったためしがないという深い吸込孔のある湖水がいくつかある。死んだあとで死体をいじりまわされるのが嫌なら、そういう湖でやるほうがいい。万一、死体が浮きあがっても、行路病者の扱いで土地の市役所の埋葬課の手で無縁墓地に埋められるのなら、我慢できないこともない。宇野久美子から宇野久美子という商標を剥ぎとってどこの誰ともわからない人間をつくるぐらいのことは、やればやれる。

湖はどこにしようかと迷っていたが、ある日、駅の観光ポスターの「夢の湖、楽しい湖へ」といううたい文句がひどく気に入って、伊豆の奥にあるその湖にきめた。

人間がましい恰好で、出窓の敷居に腰をかけて煙草を喫ったりしているが、実は人間の影のようなものにすぎない。プランどおりに事が運べば、明日中か遅くとも明後日の朝までには宇野久美子という存在は完全にこの世から消えてしまう。この演出は成功するだろうという確信があった。

久美子は和歌山までの切符を買って、二十一時五十分の大阪行に乗った。

網棚へ小道具の入ったスーツ・ケースを載せると、灰銀のフラノのワンピースに緋裏のついた黒のモヘアのストールという、どこかのファッション・モデルのような恰好で車室を流して歩き、知った顔がないかと物色していたが、三つ目の車でロケハンにでも行くらしい楠田という助監督の一行を見つけた。

「楠田さん」

「おお、お久美さんじゃないか。すかっとした恰好で、どこへ行く」

「郷里へ帰るの、和歌山へ……親孝行をしに」

「なんだかわかったもんじゃないな。キョロキョロして、誰をさがしているんだ」

「誰か乗っていないかと思ってさがしていたの」

「こんなお粗末なのでよかったら、つきあっていただきましょう。掛けなさいよ」

宇野久美子はどうなったというような騒ぎになると、この連中は、五月二十日の夜の九時五十分の大阪行の準急に久美子が乗っていたと証言してくれるだろう。これで用は足りた。

「ありがとう。ここもいっぱいね。またあとで話しにくるわ」

さっきの座席に戻ると、話しかけられるのを防ぐために、久美子は顔にストールをかけて寝たふりをしていた。

午前三時ごろ、浜松に停車した。久美子は網棚からスーツ・ケースをおろすと、浜松で降りる乗客にまじっていったホームへ降り、それからすぐ前の車輌に移って、つづきの二等車のトイレットに入った。

ドレスを脱いでお着換えをする。よれよれの紺のスラックスに肱のぬけたナイロンのジャンパー、ベレエに運動靴……何年か前に友達の絵描きが置いて行った絵具箱に三脚を結びつけたのを肩にかけると、脱いだものを入れたスーツ・ケースをさげてトイレットから出た。宇野久美子が身につけていたものは、汽車の中に置いて行くつもりなので、二等車を通りぬけながら網棚のあいたところへ放りあげ、前部のつづきの車に移った。簡単な手続きだが、これで宇野久美子の中から、誰とも知れない別な人間を抽出したつもりだった。

予定どおりに豊橋で下車すると、久美子は車掌をつかまえて、汽車の中で書いておいたメモをわたした。

「すみませんが、これをアナウンスしてください。おねがい……」

間もなくホームの拡声器からアナウンスの声が流れだした。

「一二九号列車に乗っていられる東洋放送の宇野久美子さん……東洋放送の宇野久美子さん、お連れの方はつぎの便になりましたから、待たずにその汽車で行ってください」

風の吹きとおすホームのベンチでアナウンスの声を聞いていると、モヘアのしゃれたストールをかけた宇野久美子が実際に客車の中にいるような気がして、思わず笑ってしまった。宇野久美子という女性はたしかに豊橋まで汽車に乗っていたはずだが、それから先は行方知れずということになる。永久に大阪駅に着くことはないのだ。

久美子が恐れていたのは、自殺する意図のあったことを嗅ぎつけられ、しつっこく捜したてられることだったが、ここまで手を打っておけば、その心配もない。郷里の母は娘が帰ってくるなどとは思ってもいないし、伊那の農家では郷里の滞在が長びいているのだと思うだろう。勘がよければ、医務の内科主任がはてなと思うのだろうが、そのときは湖底の吸込孔の中か、無縁墓地の土の下で腐っているはずだ。

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