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ハムレット
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ハムレット
久生十蘭
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译文 Pagera AI
原文 Public Domain
Chapter 4 of 6

4

ポローニヤスの扮装をした老人は北山で、ブロンドの鬘をつけた少女は要するに綣村だと、わたしはすぐ意識をとりもどしましたが、この東京の一隅、しかもこんな戦争の最中にエリザベス朝の生活がそのまま寛闊に繰りひろげられていようとはさすがのわたしも想像さえもしませんでした。

二人はまもなくカーテンをまくって控室へ戻ってきましたが、壁際に据えた大きな衣裳櫃からタイツ、刺繍のある胴着、赤毛の鬘、尾長鳥の羽根飾の帽子、細身の剣、銀の留金のついた爪先の反った妙な靴……そんなものを一揃えとりだしてわたしに着せると、正面奥の王座の前へ連れて行きました。さっき隙見したときは柱の陰になって見えませんでしたが、王座の右手の唐草を彫刻した台座の上に等身大の聖母の像がすこし俯向き加減に立っているのに気がつきました……いやマリヤの像ではない。よく見るとそれは光輪のかわりに花鬘をつけたオフィーリヤの像なので、胡粉で薔薇色に頬を染め、腕の中に菫や紫雲英や苜蓿や、そういうつつましい野の花を抱き、なにかいいかけるように前のほうへすこし首を傾けて立っていますが、それはリュウベンスの描いたあのオフィーリヤの顔ではなく、瓜実顔の優しい眼と眉を持った琴子の顔なのです。

ポローニヤスはわたしを王座の前に残し、左手のクローバ形の扉の前に行って、手に口をあてて、軽い咳払いをしますと扉の向うから、

「何者なればかくしばしば予を訪い苦しむるぞ。ああ人生のわずらわしさ。永久の眠りこそ望ましいわい」という朧気な声がきこえてきました。

まもなく沈鬱な足音がして、黒い絹の短上衣に銀の帯をしめ、三つ重ねの襞衿をつけた六十歳ばかりの男が、眼を伏せながら謁見室へ入ってきて、しずかに壇を上って王座に掛けました。

それにしてもなんという立派な顔でしょう。運命に忍従しているようなものしずかな眼差、高い知性を示す蒼白な広い額、寛容をあらわすゆるやかにひき結ばれた唇。こうして額に手をあててうつむいているようすはいかにもハムレットらしく、アーヴィングでもバリモアでもこれほどのすばらしい肉体化は出来なかったろうと思われたほどでした。しかし、まだ五十四歳でしかないのに鬘の下から房のような異常白髪がのぞきだし、眼にはもう老人環が出来、この二十八年の歳月は小松にとってどんなすさまじいものだったか雄弁に物語っていました。

ポローニヤスは慇懃に進みでて、

「殿下、ローゼンクランツがまいりました」とせりふもどきにやりますと、ハムレットはつと眼をあげてまじまじとわたしの顔をながめてから、第二幕第二場の台本どおりに、

「ああ、さてさてなつかしい。どうじゃローゼンクランツ、よい景色かの?」とたずねました。わたしもすぐ、

「まず世間並でござります」と調子をあわせますと、ハムレットはじっと眼を見すえたまま「時に友達ずくで遠慮なく問うがこのエルシノーアへはなにしにお来やった? 両陛下からお使いを受けたのであろう? 自身の好みか? 全く任意の訪問か? さ正直に言やれ」としみだすような声でいいました。

これは第二幕第二場のセリフどおりにちがいないですが、阪井の意をうけてやって来たことを見すかされたようで、ちょっと返事にこまっていますと、小松はすぐ追いかけて、

「こりゃ、ローゼンクランツ、友たるの信義、幼い折の交りを思わば包まず真直ぐに話してくれ。お迎いをうけたのか、どうじゃ」

わたしの思いすごしかも知れませんが、小松はわたしを見知っていて、わたしがこんなところへやって来たのを不審に思いはじめたのではないか。芝居ならここで連れ立ってきた相手に、どうしたものであろうと相談するところですが、そういう相手もいないので「お迎いを受けましたのでござります」と正直にこたえました。

次の日から廷臣またはローゼンクランツとして近侍の生活がはじまりました。午前八時に土製水瓶と足付杯を持ってハムレットの寝室へ行きます。これは洗面と含嗽の水なのですが、そのとき部屋の隅にある香炉に竜涎香を投げいれる。そこへ侍女が朝食を運んでくるのでそれを受け取って、食卓をこしらえハムレットの食事が終るまで傍に立っていて“蠅追い”で蠅を追う真似をしなくてはなりません。

木皿に盛った蒸パンに野菜を添えた簡素な朝飯をハムレットは手掴みでやり、汚れた指先を木椀の水で濯ぎ、その水を飲みほしてナフキンで丹念に唇を拭うと、これで朝の食事が終ります。食事が終ると小松は謁見室へ行き、オフィーリヤの像の下に跪いてなにか長々とお祈りをする。そのあとは書見をするために居間に入るか時には庭へ散歩に出かけます。これだけのくりかえしですが、小松の頭脳機質は雨にはもっとも清明し、曇天の日はこれにつぎ、快晴の日はいちじるしく快戯性を帯びてきて終日落着かず熟慮困難の症状をあらわすようでした。

いろいろ観察するところ、はなはだしく空想に耽るとか、異常軽率、衝動行為や感情のいちじるしい転換もなく、強迫観念や幻覚に襲われるようなところも見られず、ときどき軽度の偏頭痛を訴え言葉がはじまるのが遅いようですが、言語障碍は認められませんでした。

そのうちにわたしには小松が精神病の雑多な症状群を連絡もなく模倣していることに気がつきました。いったい精神病の症状は互いに有機的なつながりを持ちながら非常に明瞭な群をつくるのですが、小松の症状を見ると、興奮はあるが躁陽病に来るべき爽快、意志奔逸症を欠き、また緊張病のような不自然行為や衒奇症状を持たず、ことさら指南力を欠くような真似をするので、かえって真の疾病でないことをさとらせるのです。ときには妄覚病の真似をしますが意識は非常に清明で、その上全部の症状を真似することができません。また当意即答症のような真似をしますが、緊張病者のような奇抜な答えでなく、感情と意志の障碍はすこしも認められないことです。

こういうところからかんがえますと、小松は発狂して精神病院に入院した看護夫の狂態を仔細に観察し、そのまま上手に模倣しているのではないか、精神病学の通俗な知識を得たいにも、そんな本を手に入れる手段も機会も小松はまったく持っていないからです。

しかし現代の精神病学はS・M(佯狂)というものの存在を疑い、気狂いの真似をするようなものはすでに病的性格者だとするのが定説になっていますので、模倣だと思っていることも案外本物かもしれずそのへんの決定はなかなか困難でしたが、それから一週間ほどのち、わたしが例のとおりハムレットの書見の側に近侍して蠅を追っていますと、ハムレットはマンツァーヌスの「牧詩」を読みながら奇妙な身振りをしました。

これは小松の愛読書の一つなのですが、この日もなにか会心の章句にゆきあたったらしく、低い声で朗誦しながらしきりに頁を繰っていましたが、ふと見ると、右手の人差指と中指がちょうど胃袋のあたりで律動的に動いているのに気がつきました。わたしもはじめなんの気なしにながめていましたが、そのうちにとつぜんある連想が喚起されました。それはわたしの知人の中に、書見に熱中するといつもチョッキの胸の時計の鎖を律動的に弄る癖のあること、そうしてこういう偶然行為をするひとをあげようと思えば、わけなく幾人でもあげることができることです。わたしを刺戟したのはつまりこの記憶なのです。ハムレットの短衣の胸に打紐の細い肋骨がついて、ハムレットはそれを律動的にいじっているのですが、その打紐は、この場合、観念内で時計の鎖の代償をしているのではないかということです。ハムレットが時計の鎖をいじる……ハムレットのように現代の記憶を喪失した乖離性追想喪失症には、これは絶対にありえないことなのです。わたしはこの点に非常に興味を感じたのですが、これは症状行為なのか、偶然行為なのか、それとも単なる痙攣運動なのか、習慣的なものか孤立的なものか……これだけではいかなる決定をも与えることができませんが、しかしひきつづいて起った次のような事情がこの疑問に明確な方向を与えることになりました。

それから二日ほどのち、わたしはハムレットと夕暮の窓際で将棋をさしていました。そのうちに窓の外は、おいおい薄蒼く暮れ、将棋盤の上がおぼろげになって来ましたので、わたしは呼索をひいて燭台を持ってこさせようと思っているとき、ハムレットは熱心に将棋盤を見つめながら傍の小卓のほうへ斜に右手をのばし、しきりになにか探るような真似をしました。

それがなぜわたしの注意をひいたかといえば、それはちょうど卓上の電気スタンドのスイッチをさぐる指先のように見えたからです。その小卓の上には丸い笠で蔽われた青銅製の聖龕が置いてありますが、その形はわれわれの書机の上にある青銅製の電気スタンドにじつによく似ているのです。

定型性偏執狂の観念内にエリザベス期と現代とが併存するはずはないから、これがもし電気スタンドのスイッチをさがす動作だったら……つまりハムレットの Vergreifen(やり損い)だったら、ハムレットは完全に治癒しながら、なにかの必要があって気狂いの真似をしていたのだと思うほかはないのです。

わたしはいろいろかんがえたすえ、簡単なしかし非常に効果的なちょっとした実験をしてみせました。それは小松の放心状態のとき唐突に年齢をたずねるという実験です。これにたいしてわたしは二様の返事を予期していました。つまり、二十六歳と五十四歳……二十六歳というのはあの不幸な事件のあった年齢で、五十四歳のほうはハムレットの現在の年齢です。小松がもし二十六歳とこたえれば、小松が非常に用心深い、もしくは依然として記憶中断の状態にあるとかんがえてよく、反対にもし不用意に五十四歳とこたえれば彼が詐病者であることを示すわけです。

わたしはハムレットの返事に興味と期待をかけていましたが、意外にもハムレットは全然わたしの予期を裏切って、四十四歳とこたえました。これによってわたしはハムレットの精神病はすでに十年以前に自然治癒していたのではなかろうかとかんがえるようになり、そういう意味のことを手紙で阪井へ報告しますと、翌日、阪井からすぐ来るようにという電話がありました。

出掛けて行ってみると阪井はいらいらしたようすで書斎に待っていて、わたしが椅子にかけるかかけないうちに、

「君の報告は読んだ。小松の気狂いが癒っているのではないかという疑念は、おれも早くから持っていたんだ。最初に感づいたのは北山ですぐ巴里へ電報をうってよこした」

「どんなことがあったんだね」

「小松がひと晩のうちに白髪になってしまったという電報だった」

「それであの時あわてて日本へ帰ったというわけか」

「そうだよ。しかし正気になったものなら訴訟でも起して正当の権利を主張するのが当然で、気狂いの真似をしてとぼけていなければならないわけはないんだからね。それでそのままずっと変化がなかったんだが、去年の暮、君が家へ来るすこし前、鮎子がとつぜん霊感をうけた。やはり小松は癒っていて、われわれに復讐する機会をじっと待っている、とそういう見神なんだ。知っているように鮎子の霊感は的確だからね。それでおれが行ってようすを見たが、どうもよくわからない。そこへいいぐあいに君が飛びこんで来てくれたので、君に診察を依頼したというわけだったんだよ。ともかく、小松が癒っていることは事実なんだね」と早口にまくしたてました。

わたしは学問的な興味で、深くもかんがえずに阪井へ報告したわけでしたが、阪井のクルエルな人相を見ているうちに、これは下手なことをすると小松の運命を悪く変えることになるかも知れないと急に不安になって、

「ちょっと待ってくれ。そうかんたんにきめられてもこまる。あんなものは報告でもなんでもありはしない。エッセエぐらいのところだ」というと、阪井はそっぽを向いてなにかかんがえていたが、急に振り返ってじろりとわたしの顔をみると、

「なにかおれに隠していることがあるんじゃないのか。君がもしそういう態度をとるならわれわれの仲はおそろしく気まずくなると思うんだが」

「それはどういう意味だい」

「どういう意味? とぼけてはこまる。君は性格学の大家なんだからおれがどんな人間かよく知っているはずだ。隠すには及ばない」

Chapter 4 of 6
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