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その晩の九時半ごろのことである。
ちょうどその日、宿直の番に当たった会計の野田幸吉は、宵の口の騒ぎもほぼ静まり、ほうぼうからうるさく問い合わせてくる電話の応接もたいてい済んだので、肘掛け椅子をガス・ストーブの傍へ曳きずっていって、疲れた身体をぐったりとその上に乗せた。
彼の様子は妙にそわそわしていた。椅子を立ったり坐ったり、ときどき社長室へ通ずるドアのところへ行って、腰をかがめて鍵穴から中を覗いたりした。ドアには警察の封印がしてあって、警官の立ち会いの上でなければ中へは入れないのである。
やがて、彼はがっかりしたもののようにぐんなりと肘掛け椅子に寄りかかっていると、なんだか大急ぎで階段を駆け上がってくるような音が下から聞こえてきた。彼は全身の注意を耳に集中して、だんだん近づいてくる足音に耳を澄ました。
足音は彼の部屋の前でぴたりと止まった。
こんこんとノックの音がする。
彼はできるだけ冷静な態度を装って、
「どなたですか?」
と訊いた。
「警察の者です、ちょっと急に調べる必要があったものですから、どうぞ開けてください」
野田はぎょっとしたが、相手が警官と聞いては開けないわけにはいかない。ポケットから鍵を取り出して、震える手先で鍵穴へ突っ込んで、ぎりっと回した。
「どうも晩くなってすみません」
と警官にしてはばかに丁寧な挨拶をしながら入ってきたのは、さっきの若い刑事であった。
冬木刑事は野田がストーブの傍へ持ってきた椅子にどかりと腰をかけて、野田と向かい合った。
「急に思い出したものだから、ちょっとお訊ねしようと思って来たのですがね」
冬木は朝日(当時の煙草の銘柄の一つ)の袋をポケットから出して、ガスで火をつけながら言った。
「それよりも前に、社長室のドアはまだだれも開けないでしょうな?」
刑事はちょっとドアのほうへ目をやった。
「はい、そのままにしてあります」
「実は、庶務の北川さんがたいへん不利な立場に立っておられるのでね、そのことでもう一度、あなたからはっきりお訊きしたいと思って来たのですが、北川さんが最後に社長室へお入りになった時刻は、さっきあなたがおっしゃった時刻に間違いありませんね?」
「はい、確かに四時十五分でした」
「それから社長室を出られたのは?」
「それから間もなくでした」
「間もなくというと?」
「そうですね。三分間か、せいぜい五分たったかたたないうちです」
「社長室から出てきたときに、べつに変わった様子はありませんでしたか?」
「いいえ、わたしはべつに気がつきませんでした。たしか、社長はどこへ行ったんだろう? なんて、みんなの者に訊いていたように思います」
「その訊き方にべつに変わったところはなかったですか。たとえば声が震えていたとか、いつもよりもとくに声が大きかったとか、あるいはなんだかわざとらしい訊き方だったとか?」
「そういうことは、べつに気がつきませんでした」
「社長室の中にいる間にもべつに変わった物音は聞こえなかったのですね」
「そうです」
「いや、どうもありがとう。では、ちょっと社長室を拝見しますかな。窓はあのままにしてあるでしょうな?」
と言いながら、冬木刑事は立ち上がった。
野田も同時に立ち上がった。
やがて、ドアの封印を破って、冬木が先になって二人は社長室へ入っていった。
スイッチをひねると、室内は昼のように明るくなった。室内はなにひとつ取り乱されていない。恐ろしい凶行の行われた現場とはどうしても思えない。
冬木刑事は無言のまま、開けっ放しにしてある窓のところへ行って、ポケットから虫眼鏡を取り出しながら言った。
「すみませんが、電気をこちらへ引っ張ってくれませんか」
野田は言われるままに、電灯の紐をゆるめて百燭の球を窓の傍へ持っていって、右手でそれを差し上げた。
冬木刑事は窓枠のあちこちへ虫眼鏡を当ててしばらく熱心に何物かを探していたが、やがてナイフを取り出して細かい塵埃のようなものをかき集めて油紙の中へ入れた。それが済むと、今度は窓枠の下のリノリウムの床の上へ同じく虫眼鏡を当てて、蜘蛛のように這いながら前と同じように熱心に何物かを調べて、やはりナイフで塵埃をかき寄せて別の油紙に包んだ。
「風がなくてよい按配だった」
と彼は腰を伸ばしながら、油紙の包みを大事そうにポケットへしまった。
それからまたもとのようにドアに封印をして、二人は事務室のほうへ引き返して、ストーブの前に向かい合って腰を下ろした。
冬木刑事は朝日を一本ふかすと、
「どうもおじゃましました。いずれ……」
と挨拶しながら帰りかかったが、ふと何か思い出したものとみえて立ち止まって、
「三時ごろに社長室へ行ったタイピストは瀬川艶子さんとか言いましたね?」
野田はこの質問を聞くと、なぜか相手にも分かるほどわなわなと震えた。
「そうです」
と答えた声にも、震えが伝わっていたことは言うまでもない。
けれども、冬木刑事はそんなことはべつに気にもとめずに言った。
「その女が今日着ていた着物の地はなんでした?」
「銘仙だったように思います」
「羽織は?」
「メリンスだったように思います」
「羽織の柄には紫の色は混じっていませんでしたか?」
「ええ、大きな紫の模様がついていました」
会話はこれで終わって、冬木刑事は出ていった。刑事が出ていってからものの五分とたたぬうちに、またもや慌ただしい足音が階段に聞こえて野田をひやりとさせた。やはり、その足音も西村電機商会の事務所の入口の前でぴたりと止まった。
前と同じようにノックの音がする。
「どうも晩くなってから……」
と息を切らしながら、入ってきたのは探偵小説家の長谷川だった。
「さっきはたいへんでしたね。その後、べつに変わったことはなかったですか?」
「べつに変わったことはありませんが、ついいましがた昼間の刑事が来ました」
「ほほう。あの、背の高いほうですか低いほうですか?」
「低いほうでした」
「それじゃ、××署の冬木刑事だな。あの刑事はなかなかあれでしっかりしていますよ。で、どんなことを調べていきました?」
野田幸吉は冬木刑事が、北川が社長室へ入った時間などについていろいろ訊き質したこと、それから社長室の開けっ放してある窓の窓枠や、床の上を虫眼鏡で念入りに調べて、何かごみのようなものを油紙に包んで持って帰ったことなどを詳細に語った。
長谷川はいちいちうなずきながら聞いていたが、野田の話が終わると、
「もうそれっきりでしたか?」
と、念を押した。
野田は刑事が帰りがけに、タイピストのことをちょっと訊いた旨を告げた。
「なにか、着物の地のことでも訊いたのですか?」
「そうです。着物の地や色のことを訊きました」
と、野田はびっくりしながら答えた。
「えらいっ」
と、長谷川は思わずぽんと膝を打った。
「ぼくと同じところへ目をつけている。しかも、ぼくより早く気がついたのはさすがだ。……野田さん、ぼくもこのとおり虫眼鏡を用意してきたのですよ。だが、警官が帰ったあとじゃ社長室へ入るわけにもいかんし、もう調べなくとも結果は分かったようなもんですがね」
こう言いながら、彼はさっき刑事が持ってきたのと同じような虫眼鏡を掌へ載せて見せた。
長谷川がSビルディングを出るとき、ほうぼうの部屋の時計が十一時を打つのが聞こえた。