犯罪編
良心という言葉は、いろいろの意味に解釈されている。ある人はこれを苛責と解釈しているが、この苛責すなわち remorse の re は再びを意味し、morse は噛むを意味しているところから、学究的にむつかしく考える人は、良心のことを「再び噛む」というのである。それからまた、一方では良心をごく気楽に考える人もあって、そんなことが、幸福と幸福でないことの、決定的な要素のように思われている。
むろん、良心というものを気楽に考える人にも、理窟がないことはないが、そこに大きな問題があるのである。こちこちの固い良心をもった人は、柔かい良心の人だったら「再び噛む」に痛めつけられるようなみじめな状態におちいっても、案外けろりとしているようなこともある。それからまた、ある少数の不運な人は、良心というものを全然もっていないのもあるが、これは普通人の精神的有為転変を超越できるマイナスの賜物といえるだろう。
そのいい例が、サイラス・ヒクラーである。善意にかがやく、いつもにこにこ笑っている彼のほがらかな丸顔をみては、だれだって彼を犯罪者とは思わない。わけても、しょっちゅう機嫌がよくて、家のなかで気がるに喋り、食事の時に気のきいた冗談をとばす彼を、いつも見ているはずの、彼のうちの尊敬すべき高教会派の家政婦は、彼を信じきっていたのである。
だが、このサイラスという男は、じつのところは、その控えめではあるが不自由のない収入を、泥棒の技術でえていたのである。それは不安定で危険な仕事にはちがいなかったが、判断をあやまらず慎重にふるまえば、そう危険とばかりはいえなかった。そして、もともとサイラスは、判断力をもった男だったのだ。彼はいつも一人で行動した。だれにも相談しなかった。これが共犯者のある犯罪者だったら、法廷で困ってきたりすると、共犯者をおとしいれるような証言もしようが、彼には共犯者がないので、そんな心配もなかったし、また、なにかの拍子に怒って密告するために、警視庁にとびこむような女ももっていなかった。それかといって、多くの犯罪者のように、強慾でもなければ、つかんだ金を湯水のように使うくせもなかった。周到な計画のもとにひそかに行なう彼の犯罪のみいりは、わりにすくなく、かつ犯罪と犯罪とのあいだに、相当の期間をおくというふうだったが、そのかわり彼はそのみいりを控えめに生活費につぎこんだ。
若いころ、ダイアモンド関係の仕事をしたことのあるサイラスは、いまでも時々ではあるがそれに手をだすので、どうかするとダイアの密売者とうたがわれたり、また二三の不謹慎な業者は、彼のことを盗品故買者だと蔭でささやいたりする。でもサイラスはにこにこ笑いながら自分の道をすすんだ。彼には彼の考えがあったし、アムステルダムの宝石商人は彼と取り引きしながら、べつに彼のことをせんさくしもしなかった。
サイラス・ヒクラーはそんな男だった。ある十月の夕方、ほのぐらい自分のうちの庭を歩きまわる彼は、どうみても、つつしみぶかい中産階級の人としかみえなかった。大陸へ渡る時に着るいつもの旅行用の服を着て、荷造りのできた鞄は、シティングルームのソファのうえにおいてあった。彼のチョッキのポケットのなかには、ダイアの包みがあったが、それはこっそりではあったが、とにかくサザンプトンで正直に買った品物だった。右の靴のかかとの、くりぬいた穴のなかには、もっと高価な包みがかくしてあった。一時間半ほどしたら、船に連絡する汽車にのらねばならぬが、それまでは、こうして薄暗い庭をそぞろあるきしながら、来るべき商談をどう進行させるべきかというようなことを、考えるよりほかになすべきことがなかった。家政婦は週にいちどの買物でウェラムへ行き、十一時ごろまでは帰らぬはずだったので、彼は家のなかに一人でやや退屈だった。
家のなかにはいろうとしていたら、庭さきの道、それは、時々人が歩くので自然に道のようになったところだったが、そこに人の足音がきこえた。立ちどまって耳をすました。近くに人のすみかはないし、またその道は庭のそばだけで、ちょっと行くと立ち消えになっているような道だった。来客だろうか? だが、サイラス・ヒクラーのうちには、めったに来客がないので、いまどきそんな者が来ようとも思われなかった。石だらけの固い土を踏む足音はしだいに近くなる。
サイラスが好奇心にかられて、門に近づいて外をのぞいてみたら、煙草の火にてらされた人の顔がみえ、それからその人影は、うす暗がりを近づいて、彼のまえにたちどまった。その男は口にくわえていた巻煙草をとり、ぷっと煙をはきだして、
「この道を行くと、バドシャム駅へ出られますか。」ときいた。
「いいや、」とヒクラーはこたえた。「この道はだめですが、もっと向うのほうに、駅へ出る細い道がありますよ。」
「細い道ですか?」と、その男はうんざりしたようにいった。「もう細い道にはこりこりしました。町から駅へ出ようと思って、キャトリーへまわったのですが、途中で近道があると教えられて迷いこんだのがもとで、もう三十分もこんなところをうろうろしているのです。目がわるいもんですからね。」
「何時の汽車におのりになるんです?」ヒクラーはきいた。
「七時五十八分です。」
「そんなら、私も同じ汽車にのるのですが、まだ一時間いじょうもありますよ。駅はここから一マイルもないんです。なんでしたら、うちへはいってお休みなさい。いっしょに行きましょう。そしたら道を迷う心配はないですよ。」
「そうですか、それはどうも――」その男は眼鏡ごしに暗い家をみて、「でも――まあ――」
「駅でお待ちになるのも、ここでお待ちになるのもおなじでしょう。」
そうサイラスは愛想よくいった。ドアを大きくあけると、その男はちょっとためらったあとで門をはいり、煙草のすいがらをすてて、すたすた彼のあとについて、カテージふうの家へ歩きだした。
シティングルームはまっくらで、煖炉に消えのこる火が赤くみえるだけだったが、サイラスはさきにはいって、マッチをすって、天井からぶらさがるランプに灯をつけた。ランプに灯がついて小さい部屋が明るくなると、二人ははじめて好奇的な目で相手をみあった。
「なんだ、この男はブロズキーじゃないか! なるほど目がわるいというし、もう長年あわずにいるから、おれが分らないとみえる。」そう心につぶやいたが、口にだしてはていねいに、「まあお掛けなさい。いまウィスキーでもだしますから。」といった。
ブロズキーは口のなかでなにやらつぶやきながら、この家の主人が戸棚をあけているまに、部屋のすみの椅子に固い鼠色の中折帽をおき、テーブルの端に鞄をのせ、そのそばに蝙蝠傘をたてかけて、小型の腕椅子に腰をおろした。
「ビスケットをおあがりになりますか?」
ヒクラーはそういいながら、ウィスキーの壜と、サイフォンと、とっときのグラスを二つテーブルのうえにおいた。
「それはどうもありがとう。これから汽車にのるのですし、ずいぶん歩きましたから――」
「腹がへっていちゃいけませんよ。オートケイキをめしあがりますか? ほかになにもないのですが。」
そうヒクラーがいうと、ブロズキーはそれがなによりの好物だといって、自分でウィスキーにサイフォンのソーダ水を入れて、さも美味そうにオートケイキを食べはじめた。
ブロズキーはゆっくり物を食べる流儀らしかったが、この時はかなり食べることに気を取られているらしく、始終口をもぐもぐ動かすので、話が留守になりがちだった。自然喋ることはヒクラーにお鉢がまわるわけだが、そんなに話題があるはずはなかった。こんな場合当然ブロズキーの旅行先の地名や旅行の目的をきくべきものだろうが、ヒクラーはそれをきくきになれなかった。というのは、彼にはその二つともがよく分っているからだった。
ブロズキーは大がかりにダイアを取り扱う、かなり名をしられた商人で、主としてまだ加工しない原石を買いとるが、目がよくきくというので評判だった。彼はいつも普通より大型の、値も高い石を買いとり、そんなのが一定の量に達すると、自分でアムステルダムへ持っていって、そこの職人が磨くのを監督した。そんなことをよく知っているヒクラーは、こちらからきかなくても、彼がなんのため、どこへ行こうとしているかよく分った。どちらかというと、見すぼらしいこの男の服のどこかには、数千ポンドの高価な紙包みが隠してあるにちがいなかった。
あまりものをいわないで、ブロズキーは機械的に口を動かしながら坐っていた。彼とむきあって坐るヒクラーは、魅惑されたように相手をみながら、しょっちゅう神経質らしく喋りつづけ、時々大声をだした。彼は金物、たとえば銀食器なぞは取扱わなかった。金も金貨以外は手を触れようとしなかった。ただ靴の踵に入れて運ぶことができ、絶対安全に売却することのできる、宝石だけが彼の専門だった。だのに、いますぐ目の前に、彼の十回分の収獲を一つにしたような貴い包みを、ポケットにいれた男が坐っているのだ。その宝石の値段はおそらく――そこまで考えて、彼はわれにかえって、まとまりもないことを、急速度に喋りだした。彼の言うことにまとまりがないのは、話のあいまに、話とはまったく別のことを考えているからだった。
「晩方になると冷えるようですな?」ヒクラーはいった。
「そう、冷えますね。」ブロズキーはそれだけいうと、またゆっくりと噛みはじめ、呼吸するごとに、相手に聞えるほど鼻をならした。
「すくなくも五千ポンド。」意識の奥のほうで考えた。「ことによると六千ポンド。それとも一万ポンドかな。」椅子にすわってサイラスはもじもじした。興味のある話題に精神を集中したいとおもった。なんだか、今までとはちがったことばかり考えようとする自分が腹立たしかった。
「あなたは園芸に趣味をおもちですか?」
そう彼はきいた。ダイア、それから毎週金をたくわえること、そのつぎに彼が好きなのはフクシアを栽培することだった。
ブロズキーは苦笑して、「べつに花をつくらなくても、すぐそばにハットン・ガードンがあるので――」といいかけたが、急に話をかえて、「私、ロンドンに住んでいるんです。」といった。
話しかけてやめたことが、サイラスにぴんときた。やめた理由はよく分った。大金を身につけて旅をする人間は、むやみなことはしゃべれない。
「そうですね。ロンドンに住んでいちゃ、花なんか作っちゃいられませんね。」
サイラスは気がなさそうにそういったあとで、また心のなかで勘定しはじめた。かりに五千ポンドとすれば、一週間の収入がどのくらいだろう? 自分は貸家の最後の仕上げに、一軒二百五十ポンドを支払い、それを一週十シリング六ペンスで貸したが、その計算でいくと、五千ポンドは一週十シリング六ペンスで二十軒もつことになり――一日一ポンド八シリング――一年五百二十ポンド――それが一生。かなりの資産だ。今までのものにこれだけ加えれば、なんの不足もない。それだけ収入があれば、商売道具を川にすて、余生を安全気楽にすごせようというもの――
そっと彼はテーブルのむこうに坐る男の顔を見たが、すぐその目をそらせた。目をそらせたのは自分の心のなかに、ある衝動、まがうべくもないある衝動をかんじたからだった。こんなことを考えてはならぬと彼はおもった。人間にたいする暴力は、気違いざただと考えてきた彼だった。なるほど、ウェイブリジで警官にたいするちょっとした事件があったことは事実だが、あれは不慮の避けがたい出来事、しかも責任は警官がわにあった。それからエプソムの老女中――あれは老女中の馬鹿が悲鳴をあげたのが悪かったのだ。つまり、あれは悲しむべき不慮の災難で、それをもっとも気の毒がっているのは自分なのである。だが、暴力で人の物をうばったり、計画的に人を殺したりすること――それは気違いじみた行いでなくてなんであろう?
だが、もし自分がそんなことを問題にしない人間だったら、ここに生涯の幸運をつかめる機会があるわけだ。無限の富、空屋、付近に家がなく、人の通る大道から遠くはなれていて、時刻もおあつらえむきの薄暗い夕刻――ただ、死体の処置だけは考えなければならぬ。こいつがいつも問題なのだ。さて、死体はどうしたもんだろう? ――この時、家の裏の原っぱの、線路の彎曲したところを通過する、上りの急行の轟音がきこえた。その轟音をきいた彼は、あることを思いついた。なにもしらず、むっつり顔でウィスキーをすするブロズキーを見ながら、彼はつぎからつぎと考えた。やがて急に椅子から立ちあがると、消えかかった煖炉に両手をかざして、マントルピースの上の時計をみた。奇妙な感情のうずまきにたえかねて、家をでたくなった。寒さよりもむしろむし暑さを感じながら、ちょっと身震いして、ドアのほうに視線をむけた。
「風がはいるようですな。」いいながらサイラスはまた身震いした。「ドアはしまっているのかしら?」部屋をよこぎってドアをあけて庭をみた。むやみに彼は家の外へでたいという欲望をかんじた。家の外へとびだして、頭のなかのけがらわしい考えをふりすてたかった。
「まだ駅へ行くのは早いでしょう。」そういいながら星のない夜空をみあげた。
ブロズキーは体をおこしてマントルピースを見て、「この時計はあっているのですか?」ときいた。
サイラスはたぶんあっているだろうとこたえた。
「駅までどのくらいかかります?」ブロズキーはきいた。
「二十五分か三十分ですな。」無意識に距離を大袈裟にいった。
「まだ一時間いじょうあるんなら、駅で待つよりここで待つことにしましょう。あまり早く行ってもつまらん。」
「そうですとも。」サイラスは調子をあわせた。なかば得意、なかばむねんがるような、妙な感情が、頭のなかで渦をまいた。しばらく彼は戸口にたって、ぼんやり夜の闇をみつめていた。それから静かにドアをしめて、機械的に音のしないように鍵をかけた。
また彼はもとの椅子にかえって、だまりがちのブロズキーに話しかけたが、その言葉はしどろもどろで、とぎれがちになり、顔がほてって、頭が充血して、たえず耳のおくで、なにか鋭いものが、かすかに鳴っているようにおもわれた。彼はあらたな、恐ろしい興味でその男を見つめている自分にきがついた。むりにその男から目をはなすと、またいつのまにかいっそう恐ろしい興味で見つめていることにきがついた。そして、血もあれば腕力もあるこの目のまえの男が、どんな抵抗をするだろうと、たえずその光景を、想像で心にえがいた。そのおぞましい犯罪は、彼の想像のなかでしだいに細部がこまかく完成され、つぎからつぎと順をおって行われるその手順が、合理的に噛みあうようになった。
目はその男にそそいだまま、彼はおちつきなく椅子から立ちあがった。それは高価な宝石をかくし持っている男と、向きあって坐っているにたえられなくなったからだった。不安と驚きをともなう心のなかの衝動は、自分でも制御できないほど、一刻一刻と大きくなった。だからこのまま坐っていれば、その衝動にうちまかされ、ついには――あまりの恐ろしさに彼は身震いした。身震いしながらも、宝石をつかみたさで指先がむずむずした。つまりは、このサイラスという男が、生れつきの犯罪者だったからである。生きたものを殺して食う野獣みたいなものなのだ。彼の生活費は、額に汗してかせいだものではなかった。盗んだり暴力をもちいたりして獲得したものだった。生れつきの本能が食肉獣的なので、なんの防禦もない宝石を身近にかんずると、それに手をださずにいられないのだ。このままその宝石が、自分の手のとどかぬ、遠いところへ行ってしまうというようなことは、とても彼にはしのべないことだった。
それにもかかわらず、サイラスはもいちどそれから逃れるように、努力してみたいと思った。いよいよ出発という時刻がくるまで、ブロズキーの前から、座をはずしていたいと思った。
「ちょっと私はもっと厚い靴にはきかえてきますよ。」と彼はいった。「日でりがつづいたので、天気が変るかもしれませんし、足がぬれると気もちが悪いですから。」
「そう、ぬれちゃいかんです。」ブロズキーはいった。
サイラスはとなりの台所へはいった。そこのうす暗いランプの光で、きれいに掃除した丈夫な編上げ靴があるのがみえた。靴をはきかえるために台所の椅子に腰をおろした。だが、むろん、靴をかえる気はなかったのだ。いまはいている靴の踵にはダイアが隠してある。ただ靴をかえるまねをして、気をかえたり、時間を空費したりしたかった。大きな溜息をした。とにかく、別の部屋へきたということは、彼にとって気の休まることにちがいなかった。しばらくここにいれば、あるいは誘惑をしりぞけることができるかもしれぬ。ブロズキーは一人で出かけるかもしれぬ――彼はむしろ一人で出かけてくれることを望んだ――すると、すくなくも、心の激動だけは感じないですむ――そして機会はうしなわれる――ダイアをつかむ機会――
静かにいまはいている編上げ靴の紐をときながら、顔をおこしてとなりの部屋をみた。彼の位置から、となりの部屋のブロズキーが、こちらに背をむけて、テーブルにむかって坐っているのがよくみえた。もう食べるのはやめて、煙草の紙を巻いていた。サイラスは大息をし、編上げ靴をぬいで、しばらくじっと坐ったままその男の背をみた。それから目はその男にそそいだまま、片方の編上げ靴の紐をとき、それをぬいで、しずかに床のうえにおいた。
ゆっくりと煙草を包みおわったブロズキーは、唾をつけて紙を巻くと煙草入れをしまい、膝のうえに落ちた煙草をはらいおとし、それからポケットに手をつっこんで、マッチをさがしだした。サイラスはどうにもならぬ衝動にかられたように立ちあがり、ぬき足さし足、シティングルームのほうへ歩きだした。足に靴下をはいているだけなので、すこしも音はしなかった。口をあけたまま静かに息をして、猫のように音をたてずに歩いて、そっと部屋の入口に立った。顔は充血して黒ずみ、大きく見ひらいた目はランプの光にぎらぎらときらめき、耳に鼓動が槌でたたくように高くひびいた。
ブロズキーはマッチをすった。サイラスの見たところでは、それは蝋マッチにちがいなかった。煙草に火をつけると、マッチの炎を吹き消して、煖炉にほうりすて、そのマッチの箱をポケットにしまって煙をふかしはじめた。
しずかに、音もたてず、サイラスは猫のように一歩ずつ足をはこんで、部屋のなかにはいった。その男のまうしろまで接近したので、呼吸する息でその男の髪の毛がゆらぐのを防ぐために、顔を横にむけなければならぬほどだった。三十秒ほど彼は殺人者の立像のようにそこに立って、ぎらぎら光る恐ろしい目で、なにも知らずにいる男を見つめ、口をあけてはげしく呼吸し、怪物の触手のように指をうごめかしていた。それから、来た時とおなじように、音も立てずに後がえりして、台所へかえった。
大息をした。危ないところだった。ブロズキーの生命は一本の絲につながっているようなものだった。サイラスにとっては、それはわけなしに事を行える瞬間で、もし椅子のうしろに立っているその瞬間、彼がなにか武器――たとえば金槌、あるいは石のようなものを持っていたら――
彼は台所をみまわした。温室工事をした工夫の残した鉄棒が目についた。それは煉鉄の鉄棒の切れはしで、長さが約一フート、厚さ一インチたらずの四角な棒だった。あの時、この棒を持っていたら――
彼はその鉄棒をとって、頭のうえで振りまわしてみた。これはなによりの武器だと思った。そのうえ音もしない。すでに頭のなかで組み立てている計画とぴったり合った。くそっ! こんな物はすててしまえ!
だが、彼はすてなかった。それを持ったまま部屋の入口から覗きこむと、ブロズキーはあいかわらずこちらに背をむけて坐って、煙草をふかしながら瞑想にふけっている。
急にサイラスは決心した。顔をほてらせ、頸の血管を浮きあがらせ、額にふかいしわをよせて懐中時計をだしてみ、またそれをしまった。それから足音をしのばせて、急いで部屋にはいった。
椅子の一歩うしろまでくると、立ちどまって落着いて狙いをさだめた。静かに鉄棒をふりあげたつもりだったが、かすかな音はたてたかもしれぬ。なぜというに、その鉄棒をうちおろす瞬間、ブロズキーはふりむいたのである。そのため狙いがはずれて、鉄棒は彼にかすりきずを負わせるだけという結果になった。ブロズキーは悲鳴をあげてとびおき、死にもの狂いでサイラスの両腕にしがみついた。
それから恐ろしい格闘がはじまり、二人は抱きあったまま、押しあいへしあい、前になったり、後にしりぞいたりした。椅子が倒れて転び、テーブルから空のグラスが転び、床に落ちたブロズキーの眼鏡は誰かに踏まれてみじんにくだけた。格闘しながらブロズキーは三度ほど、世にもあわれな、死にものぐるいの叫声をあげて、夜の空気を震動させたが、そのたびにサイラスは、誰かが付近を通行して、怪しく思わねばいいがとひやひやした。彼は最後の力をふるいおこし、ブロズキーをあおむけにテーブルの上に押し倒し、また悲鳴をあげようとしたブロズキーの口のなかに、テーブルクロスの端をつっこみ、ぎゅうぎゅうそれを押しつけた。ほとんど身動きもしないで、彼らは二分間ほどそのままの姿勢でいた。恐ろしい犯罪の絵そのままの光景だった。そのうち抑えつけられた男は、筋肉をぴくつかせなくなった。サイラスが手をはなすと、ぐったりとなった体が、音も立てずに床に崩れた。
終りだった。よいことだろうが悪いことだろうが、それでおしまいだった。はげしい息づかいをしながら、サイラスは体を起して顔の汗をぬぐい、置時計をみた。針は七時に一分前を指さしていた。三分間とちょっとの時間を要したわけだった。後始末をするのに、まだ小一時間の余裕がある。彼の計画に織りこまれている貨物列車は、二十分過ぎに通過するはずだった。線路までは三百ヤード。でも時間を空費してはならぬ。いまの彼はすっかり落着いていた。ただブロズキーの悲鳴を、誰かが聞きはしなかったかというのがただひとつの気掛りだった。そのほかにはなんの心配することもなかった。
身をかがめて死人の口からテーブルクロスをとり、そのポケットをさぐった。目的の物をさぐりあてるのには時間がかからなかった。紙の包みを指でつまむと、なかにいくつかの小さい固い物が触れあうのが感じられた。それと同時に、いままでのかすかな悔恨が、まあ好かったという安心感にかわった。
時々時計に目をやりながら、彼はなにか仕事でもする時のような敏速さで後始末をはじめた。テーブルクロスのうえに数滴の血がしたたり、死人の頭のそばの敷物にかすかな血の汚れができていた。サイラスは台所から水をもってきて、ブラシやぼろを使って、テーブルクロスやその下のもみ材のテーブルの面を掃除し、床の敷物の血もきれいにふきとった。それからテーブルクロスを伸してテーブルの上に拡げ、椅子を起し、こわれた眼鏡をひろってテーブルの上におき、格闘中に踏みにじった煙草のすいがらをひろって煖炉にすてた。それから彼はガラスのこわれたのを塵取にとった。ガラスの中には酒を飲んだ時に使ったグラスの破片もあれば、眼鏡の小さい破片もあった。彼は紙をひろげてそのうえにガラスの破片をうつし、丹念に眼鏡の破片をひろいあつめて、それを別の紙に包んだ。残ったガラスはまた塵取にいれ、急いで編上げ靴をはいて、塵取のガラスを裏の埃箱にもっていってすてた。
ぼつぼつ時刻になった。彼は紐ばかりはいっている箱のなかから、一本の紐をとりだした。こんな場合、大抵の人が長ければ長いでかまわないのだが、几帳面な性分の彼は、余分の部分を急いで切りすて、それで死人の鞄と傘をゆわえて肩にかけた。それから眼鏡とその破片の包みをポケットにいれ、最後にブロズキーの死体を背負ったが、百二十ポンドをこさぬ痩せた小男の死体は、サイラスのような力の強い大男には、たいして重荷ではなかった。
夜は暗かった。裏門をでて線路につづく荒地をすかしてみたが、二十ヤード先は見えなかった。立ちどまって耳をすました。物音はどこからも聞えなかった。門を出るとすばやくドアをしめ、でこぼこの道を用心しながら歩いた。なるべく静かに歩こうとしたが、小石が多くて、いちめんに短かい草が生えていて、足音はそんなに響かなくても、肩にひっかけた傘と鞄がたえず動揺して、それが妙に不愉快な音をたてた。だから、彼の行動は、死体の重みにはばまれるよりも、その不愉快な音にはばまれるといったほうがよかった。
鉄道線路まで三百ヤードあった。いつもだったら、それが三、四分で歩けるのだが、重いものを背負っているうえに、時々立ちどまって耳をすますので、線路のそばにある、横木の三本ある垣まで達するのに六分かかった。その垣のそばまでくると、また立ちどまって耳をすましたり、闇のなかをすかしてみたりしたが、あたりはひっそりとしずまりかえって、生きたものが動いていようとは思われなかった。ただ遠くのほうから汽笛がひびいてきたので、ぐずぐずしていられないと思っただけだった。
やすやすと彼は死体をかついで垣を乗りこえ、そこから線路の曲ったところまで数ヤード歩いて、そこに死体をうつぶせに横たえ、左がわの線路に頸がのるような姿勢にした。それからナイフで傘の結びめを切り、つぎに鞄の結びめを切って、傘と鞄を死体のそばに投げすて、紐はポケットにしまったが、結びめを切った時にできた小さい紐の輪だけは、下に落ちたままにしといた。
やがてだんだん近づく貨物列車の、しゅっしゅっ喘ぐ音や、かたんかたん車輪の鳴る音が聞えだした。サイラスは急いでポケットから、ひん曲った眼鏡のふちと、ガラスの破片の包みをとりだし、眼鏡のふちは死体の顔のそばにおき、包みのなかの破片をそのぐるりにふりまいた。
待っている間はなかった。すでに汽車のあえぎはまぢかにせまっていた。そばに立って結果を見ていたかった。殺人が災難または自殺に変るところを見ていたかった。けれども見ているのは安全でなかった。誰にも発見されぬ場所に遠のくほうがよいと思った。次第に近づく汽車の音を聞きながら、急いで垣をのりこえた。
家の裏門に近づいた頃、彼は線路からくる音を聞いて、急に立ちどまった。長い汽笛の唸りにつづいて、ブレイキの音、それから貨車と貨車の触れあう大きな音が聞えたからである。汽罐は喘ぐのをやめて、しゅうと鋭く連続的に蒸気を吐きはじめた。
汽車は停った!
しばらく、サイラスは息を殺し口をあけたまま、石のように立ちすくんでいたが、気をとりなおして急いで門のドアをあけ、なかにはいって掛金をかけた。ひどくおびえていた。なぜ汽車が停ったのだ。彼らが死体を見つけたことは明らかだが、汽車をとめてどうしようというのだ? この家へくるだろうか? 彼は台所へはいった。いつ誰が訪ねてきて、ドアをノックするか分らないと思ったので、耳をすました。それからシティングルームへはいって見まわした。部屋の様子に異状はなかった。ただブロズキーを殴るために使った鉄棒が転んでいるのが目についた。それを取りあげて、ランプのそばでよくみたら、血はついていなかったが、髪の毛が一、二本ついていた。彼はテーブルクロスでそれをふきとり、裏庭にでて塀ごしに外の草むらに投げすてた。それは、なにもその鉄棒から手のつくことを心配したのではなく、ただ犯罪に使った道具を、けがらわしく思ったからだった。
もう駅へ行ってもよかろうと彼は考えた。まだ時間にはなっていなかった。七時を二十五分すぎたばかりだった。ただ、いつ誰が訪ねてくるかもしれぬと思うと、それが嫌だった。ソファの上に彼の中折帽と鞄があった。鞄には傘がむすびつけてあった。彼はその中折帽をかぶり、鞄と傘を持って、部屋を出かけて、灯がつけっぱなしであることに気がついた。それで、あとがえりして、灯を消そうと思って、ランプに手をのばしたら、ふと彼の目が部屋のすみの椅子の上にある、ブロズキーの灰色の中折帽に落ちた。それは、ブロズキーが部屋へ入った時おいたものだった。
サイラスは身動きすることもできなかった。氷のような汗が額からにじみでた。これから灯を消して、駅へかけつけようと思っていたのに――椅子のそばへよって、帽子をとりあげてみた。帽子の裏にあざやかに「オスカー・ブロズキー」と書いてあった。危ないところだった。これに気づかず出かけたら、こっちの負けになるところだった。いまにもどやどや人がこの家にはいりこんできたら、自分は絞首台にのぼらなければならぬ。
それは恐ろしいこと。考えただけで手足が震えだした。だが恐怖は感じても、そのため落着きを失いはしなかった。すぐ台所へとんでいって、火をつける時に使うための、乾いた小枝を取ってきて、火は消えているがまだ温味ののこる煖炉にいれ、それからブロズキーの頭の下に敷いていた新聞紙をしわくちゃにまるめ――それにかすかに血の汚れが残っていることに、この時初めてきがついた――それを小枝の下にいれて、蝋マッチをすって火をつけた。薪木が燃えだすと、彼は帽子をナイフで小さく切って、すこしずつ燃やしていった。
いつ発見されるかも知れぬと思うと、手は烈しく震え、胸は早鐘のように動悸をうった。帽子のフェルトは容易に燃えないで、どうかするとちぢれてかたまって、くすぶりがちだった。そのうえ人間の髪を燃やすような、やにっこい悪臭を発散するので、台所の窓を開けなければならなかった。台所の窓は開けても、表のドアまで開ける気にはなれなかった。そして、ぱちぱち音をたてながら燃える炎で、小さく切った帽子を焼きながら、いつ恐ろしい人間の足音、運命のまねきのようなドアをノックする音がするかもしれぬと思って、はらはらしながらきき耳をたてた。
容赦なく時がたった。八時に二十一分前! ぼつぼつ出かけねば汽車に乗りおくれる。出発前に台所の窓をしめる必要があったので、彼は帽子のふちを火にくべると、二階にかけあがって、窓を一つあけた。二階からおりてみたら、帽子のふちは、黒い、かさかさした塊となって、ぷすぷす音をたてて焼けながら、臭い煙を煙突に吐きだしていた。
八時に十九分前! いよいよ出かけなければならぬ。彼は火箸で灰の塊を小さくくだき、くすぶる薪木の灰といっしょに掻きまぜた。そしたら煖炉に変ったところは認められなくなった。いままで手紙や不要の物を煖炉で焼いたことは何度もあった。だから家政婦が帰ってきて怪しむ心配はなかった。おそらくかの女が帰る頃には、煖炉は完全な灰となって、くすぶらないであろう。帽子に金具のようなものがついていないことは確めておいたから、そんな物が灰のなかに残る心配はなかった。
また彼は鞄をとりあげて、部屋のなかを見まわした。それからランプの灯を消し、ドアをあけて、ちょっとそのままの姿勢で立っていた。それから外へでてドアをしめ、鍵をかけてその鍵をポケットにいれた。あとから帰ってくる家政婦は合鍵を持っているはずだった。そして急ぎ足で駅へむかった。
ちょうどいい時刻に駅へついた。切符を買うとプラットフォームへでた。まだ到着の信号はなかったが、ただならぬ気配が感ぜられた。乗客がフォームのかたすみに集まって、みな一様に線路のむこうに目をそそいでいた。不安な、気持のわるい好奇心を感じながら、彼がその方へ歩いていくと、二人の男が暗い斜面からプラットフォームへあがってきたが、その二人は防水布でおおった担架をかついでいた。担架がプラットフォームへあがると、人々は両がわにしりぞいて道をあけて、そのごわごわした防水布をみつめた。担架がランプ室にはいると、人々はそのあとから、プラットフォームへあがってきた赤帽に注意をむけた。赤帽は鞄と傘をもっていた。
ふいに群集のなかから、一人の男が前にでて、
「これ、あの人の傘なの?」ときいた。
「そうです。」赤帽は立ちどまって傘をみせた。
「そうだ!」と、その男は鋭どくつれの背の高い男をふりかえり、「これはブロズキーの傘ですよ。まちがいない。ブロズキーをあなた覚えていましょう?」息をはずませていった。せの高い男はうなずいた。その男はまた赤帽にむかい、「この傘には見覚えがある。ブロズキーという人の傘ですよ。帽子を調べてみてください、名前が書いてありますから、あの人はいつも帽子に名前をかくんです。」
「帽子はまだ出てこないんですよ。駅長さんに話してみてください。」赤帽は駅長をふりむいて、「この人は見覚えがあるといってますよ、この傘に。」
「そうですか、」と、駅長はいった。「誰の傘か知ってらっしゃるんですか。そんならランプ室へいって、誰だか見てください。」
その男はしりごみするような恰好で、
「傷は――傷は――ひどいのですか?」と、どもりがちにきいた。
「汽車が停る前に、機関車と貨車が六つも通りましたからね、首はちぎれてしまいました。」
「ひどいことをやったな! でも、私は見なくてもいいと思うんですが。」背の高いのをふりかえり、「ねえ、見る必要はないでしょう?」
「見たほうがいいです。まず第一に死人が誰かということを確かめなくちゃ。」
「じゃ、行ってみようかな。」その男はいった。
ふしょうぶしょうに、その男は駅長のあとについたが、おりから列車到着を知らせるベルが鳴りはじめた。サイラス・ヒクラーは、群集にまじって、ランプ室のしまったドアを見ていた。しばらくすると、さっきの男がまっ蒼な顔でドアからとびだし、せの高い男のそばにかけよって、興奮した声で、
「やっぱりそうでした。ブロズキーです! 可哀そうなことをした! ひどいことになった! ここで落合って、いっしょにアムステルダムへ行こうと思っていたんだが。」
「商品をもっていたんですか?」せの高いのがきいた。そばで聞いていたサイラスは耳をそばだてた。
「それは石は持っていたんでしょうが、どんな石か、そいつは分らんですな。もっとも、店の者にきけばすぐ分るでしょうが。それより、あなた、この出来事を調べてくれませんか。これがほんとの災難かどうか知りたいんです。ブロズキーと私は昔からの友だち、同じ町の人間なんです。どっちもワルソー生れなんです。だから、真相を調べてくださると都合がいいんですが」
「よろしい。」高いのがこたえた。「みかけの事実だけなのか、それともなにか秘密があるのか、よく調べて知らせてあげましょう。それでいいでしょう?」
「ありがとう。そうしていただけると大助かりなんです。あ! 汽車がきた。あなた、ここに残って調べるの、迷惑じゃないですか?」
「いやいや、私たちは明日の午後までに、ワーミントンへ着けばいいのです。それまでには必要なことだけは、調べられると思うんです。」
サイラスはその背の高い偉そうな男を、好奇心をもってながめた。おれにとっては生命をかける将棋、その将棋におれと向きあって坐るのはこの男なのか! 自信のありそうな、落着いた男の、思慮ぶかそうな鋭い顔を見つめながら、サイラスはこれは恐るべき敵だと思った。汽車に乗ってからも、彼はこの恐るべき敵をふりかえった。そしてブロズキーの帽子のことを思いだして気をもんだり、ほかに過失はなかっただろうかと考えてみたりした。