Chapter 1 of 5

一 丸岡明に

一九三三年六月二十日、K村にて こつちへ來てから、もう二十日になる。それだのに、まだ何も仕事をしないで、散歩ばかりしてゐる。この頃の散歩道としては、あのM病院の向うの、小川に沿つた一本道がそれはいい。アカシアの花がいま眞つ盛りだ。何ともかんとも云へぬ好い香りがして、その下を歩いてゐるとぞくぞくしてくるくらゐだ。そこでM博士らしいものを見かける。いつもパイプをくはへて、生墻(病院の裏)の方へ身をこごめながら、注意深さうにその枝などを調べてゐる。野薔薇が一めんに蕾をつけてゐるんだ。いまにも咲きさうだ。今朝も、そこへ行きがけに、まだ釘づけになつてゐる教會の前を通つたら、私の知らぬ間に、眞つ白な花を咲かしてゐる、大きな木が二三本あるのに始めて氣がついた。そしてその花が風もないのにぽたりぽたりと散つてゐる下で、村の子供たちがバスケットボオルをやつてゐるところは、さながら一枚の繪はがきだつた。しばらく僕は立ち止つて見とれてゐたが、そのうち男の子の一人がするするとその木に登つていつた。すると木の下から他の子供が「嗅いでみなア……いい匂がするぜ」と叫んだので、その木の上の子供は手をのばして、花をりとつて、それを鼻へもつていつたが、「ウエッ、臭え……」と言ふなり、その花を木の下の子供へ投げつけた。僕は僕の足もとに落ちてゐたその白い花を、拾はうとしかけたところだつたが、それを聞いたので止めにした。なんだか本當に臭さうな氣がしたもんだから。一體、あれは何んといふ花なのかしらん?

昨日もこんなことがあつた。夕暮、ぶらつと、ベルヴェデエルの丘の方へ行つたんだ。すると、どうだい、そんな人つ子ひとりゐない山の中を、猫が一ぴき、のそりのそり歩いてゐるぢやないか。しかし僕がもつとびつくりしたのは、ときどきその猫に向つて、何處からともなく、すうつと音もなく飛んできてほ、その背中を掠めるやうにして過ぎ去る、一羽の大きな鳥(どうも鷹らしい)がゐることだ。すぐ見えなくなつたかと思ふと、また反對の方から、すうつと飛んできては、その猫に襲ひかかつてゐる。がそれより早く、猫の方でも、きつと身構へて、その鳥に挑むやうな恰好をするんだ。ちよつとでも油斷をしたら、猫はひとたまりもなかつたんだらうね。どうなることかと僕ははらはらしてゐたが、そのうち猫は近所の空別莊の庭の中へ這入つてしまひ、それきりその鷹らしいものも姿を消してしまつたけれど、ちよつと凄かつたぜ。――おまけに、歸り途には、ひどい夕立に逢つたつけ。手近い空別莊のヴェランダに駈けこんで雨やみをしてゐたら、すつかり日が暮れてしまつた。大いに心細かつたが、なかなか面白かつた。こんな山暮らしをしてゐると、小説のやうな俗な仕事にとりかかる興味がますます無くなりさうだ。金でも來たら、氣持を換へにN湖へでも二三日行つて來ようかなと思つてゐる。「アミエルの日記」でも持つていつて讀みたいのだが、君のところに原書は無いか。無かつたらどんな版でもいいから、一部買つて送つてくれないか。この間、頼んだ「エルテル」と一緒に送つてくれると仕合はせだ。なるべく早い方がいいぜ。これから僕は晝寢だ。……

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