Chapter 1 of 14

第一章

夜十一時。近くのチャイム音が鳴りやまないうちに、ロンドンの悪名高い通り雨が五分ほどザーッと叩きつけ、あたかも涸れ果てたかのように霧雨に変わった。

風に揺れるガス灯の明かりが舗道にゆらゆら、敷石にぼーっと落ち、ほ影が強烈なアーク灯の輝きで消える、そこがコベント・ガーデンだ。

靄が立ち込めるロング・エーカーの青白い光は弱く、向かい側のラッセル・ストリートは一層暗い。

タビストック・ストリート沿いの一軒の酒屋、ド派手な正面に明かりが輝き、怪しく光るガラス窓があふれんばかりの笑顔を振りまき、あくどい客引きをしているように見える。

店の扉にたむろする物欲しげな浮浪者の群れ、そこから数メートル離れて、一人の女がたたずんでいた。近くに同性の乞食がほかにもいるが、その類じゃなく、ひどいぼろ服を身にまとっているけど、一見して仲間じゃないと分かる。

若い、おそらく二十五歳を超えていないだろう女の顔には深い悩みの影があった。

半ば不機嫌に、半ば物欲しそうに、飾り棚の窓をじっと見入る女の姿は、街灯の強烈な光に一段と浮びあがり、高貴な顔立ちは、みすぼらしい衣装と苦労の表情で痛々しいほど対照的であった。

威厳があり、貧しい身なりに、気高い雰囲気を漂わせ、心労をじっと抱え、ポケットには二ペンスしか持っていなかった。

もし目の前の貧乏人がこんなわずかな金しか持ってないと分かれば、女の状況が推し図れようというもの。一人ぼっちで、友達もなく、無一文で、人口四百万のロンドンで、まさしく惨めのどん底だ。

おそらく女もそう思い、とっさに決めたのだろう。店の扉をしっかと押し、騒々しい酒場へはいっていった。

疑われるのではないかと半ば覚悟していたが、ああ、こんな所へ集まる者どもは余りにも世過ぎの苦労をしょっているので、誰も驚かない。

女がコーディアル酒を注文するとバーテンダーは当然とばかり、女のなけなしの銅貨を二枚受け取った。もしこれが最後の金だと知れば、きっと哀憐の情が湧いたことだろう。あいにくバーテンダーにそんな想像力はないし、ちょくちょくあることだが、ここで受け取る最後のはした金というのは、ヒトと貧乏人を隔てる湾のかけ橋だったりする。

女は止まり木に腰掛け、疲れた手足を休め、酒でカラ元気をつけながら、ぼんやり思ったのは、これで運命との戦いが終わり、一切何も残らず、将来の困難からすぐ抜けられる、つまり橋から飛び降りるということだ。

ゆっくりと瞑想にふけりながら、大コップ酒をちびちび飲みつつ、ふと妙な感じがして、どうしてこんな古いコップが今まで割れなかったんだろう。

だんだん、しかし確実に酒が減っていき、遂に残り数滴となった。そして時が来た。ぐいと飲み干すと両肩に小さなショールをかけて、再びロンドンの夜に舞い戻って行った。

ほんの夜十一時半、通りは人でいっぱいだ。ウェリントン・ストリートには芝居通がライシエン劇場から出てくる。劇場の屋根付き玄関はまばゆい華麗な色彩だ。夜会服を着た紳士や淑女が豪華な馬車を待っている。

女浮浪者はさまよいながら漫然と、あんなきらびやかな人たちに不幸とか没落、不名誉、後悔、恥辱なんてあるのかと思い、当てもなくぷいとストランドへ足を向けた。

通りに沿ってセント・クレメンツ・デーンズまで人目を引くこともなく無視され、痛々しく足を引きずり、場所も分からない。引き返して見れば最終客がライシエン劇場を後にしている。

そして無意識に向かった先がウェリントン・ストリートの下手ウォータールー橋だった。この嘆きの橋のたもとで立ち止まり、もし橋の別名を少しでも知っていたとすれば、自らの運命を待った。

そこはじめっとした夜にひっそりして、あたりに歩行者はおらず、たった一人で橋壁に立ち、下のぎらつく流れを見た。目を皿にして覗くと、とうとうと流れる川面に金色の光がちらちら揺れている。サリー側の流れが泥岸にびちょびちょ当り、楽しげに混ざり、橋の下は泡立つ波がゴーゴーと渦巻いている。ストランドの辻馬車や乗合馬車の騒音は消えて静まったが、女は気付かない。

ガス灯が真昼のように輝き、重苦しい冬空は真っ青、遠くストランドの耳障りなざわめきはこずえに吹く夏風の音か。はるか群衆のさんざめきはかつて愛した訛りにやさしく溶け合い、これは無声映画か、脳によみがえる記憶は子供のころ貝殻で聞いた海鳴りのよう。

灰色の石で出来た細長い古い家、ツタやツルで覆われた緑のベランダ、生い茂る芝が小池に続き、アヤメやスイレンが金色に咲き誇っている。芝生の中央に一体のニオベ像が立ち、傍らに座るのが私、一緒に居るのは私より二~三歳若い少女、うりざね顔に金髪、天使のように純真で、眼の色は正真正銘の薄い青紫色だ。こんな風な映像が急流に映った。

女は欄干に登り、じっと覗きこんだ。川面の愛らしい顔がすぐ近くに見え、美しい幻覚像に、お話してとお願いした。すると、ああ、その刹那、あの最愛の人が声を発し、私の腰に手を回し、こう言うじゃないか。

「やめて、おねがい、やめて」

女はギクッとして、ゆっくりと橋の欄干からおりて、傍らの顔を凝視した。だが逆光で見えない。

「墓場からの声だ、夢を見ていたのかなあ」

と言いながら、額をそっと片手で触った。

「神の思し召しよ。自分のやろうとしていることが分かるの。すんでのところよ。考え直して、考え直して」

自殺願望の女がゆっくり反復した。

「墓場からの声だ。確かに良い前触れかも。あの人の、あの人の声だ」

救助天使が一瞬、かすかな記憶をたぐった。どこかで女の声を自分の胸で聞いたことがあるような。

ふいに衝撃に打たれ、二人はぐいと引き合い、近くのガス灯の方へ行き、お互いの顔をしげしげ見つめた。守護天使が驚いたのなんの。惨めな女の青白い顔が輝き、救出人の首にだきつき、胸で悲しく泣きじゃくった。

「ネリー様、ネリーお嬢様、お分かりになりますか」

「マッジ、マッジじゃないの。マッジ、なんてことを」

やがて二人は落ち着いた。ネリーと呼ばれた女が相手の腕を自分の腕にしっかと握り、憎しみの橋から静かに離れ、不幸な女も完全に正気に戻ってついてきた。二キロメートルばかり歩くも、両者ひと言もしゃべらず、ストランドを抜け、ホルボーンへ行くところで見えなくなった。

ロンドンの夜の往来は続く。大通りは庶民の悲劇や不幸にお構いなく過ぎ去る。一人の命が救われた。でも広い大都会で、たった一人が何だっていうの。実は運命がその手に握られていた。ほんの些細なことに命は支えられ、ほんの一瞬で救われ、邪悪を束ねるもつれた糸巻きの、最初の一条をほぐしてくれる。

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