第一章 王の花嫁
アストリア大使主催の園遊会が開かれ、ほとんどの招待客が居残っていた。大多数の目的は若きモンテナナ国王に拝謁するためだ。おおむね、モンテナナ国王は期待に応えた。
常に紫雲のように恋愛の香りが漂う王宮、それがいや増したのはモンテナナ国のフリッツ王が西洋で后を探すと公言したからだ。ご存知のようにモンテナナ国は小国、ロシアとトルコの間に位置する。あとは山がち、風光明媚、最貧国、時々革命の機運に晒される。
だが賢い行政官が、なんとか国家をうまく統制し、国王の専用財布に年二十五万ポンド程、補充していた。国王の自慢は陸軍が二万人、海軍が老朽巡洋艦三隻、旧式小型砲艦二隻だが、こんな厳しい時代では世の常として、かなり有望な玉の輿である。
あとは美男、ひげを剃り、少年のようで、見かけはオクスフォード出かケンブリッジ出の弁護士といった面持ちで、怪奇な国王とか、ぞっとする首狩族の末裔じゃない。
フリッツ王の訪英目的が知れた途端、多くの令嬢が心躍らせ、ほとんどの欧州大使が少し動揺した。だって結局の所、モンテナナ国とは利害関係があるし、国際会議で幾度も争いの元になったからだ。
慣例に従い、国王は一人で来ていない。監視役の伯爵、ラッツィン大将がそばにいた。歴史を習ったものなら誰も知っているのがこの著名な武人、過去にバルカン半島で重要任務を行った。
ラッツィン大将はいま貴人と立ち話中で、話題はモンテナナ国とフリッツ王のことだった。
ラッツィン大将が意味深に言った。
「閣下、重大責任ですな。確かに魅力的な若者ですが、所詮若者は若者ですよ。それに、そのう、本国は退屈ですし……」
貴人がささやいた。
「大将、国王は大変なやんちゃだとか、少なくともそう聞きましたが」
「ええ。英国の教育のせいですな。もちろんハロー校ですよ。そこで、いとこのフロリゼル公と一緒でした。たぶん歳相応の責任感はあるでしょうが、ともかく、お坊ちゃん育ちですから、何もかも子供同然ですな」
貴人が薄笑いして言った。
「立憲君主はそうでなくちゃ。たぶん甘んじてすべてを賢い総理に任すでしょう。そうすべきなのは父上が……」
大将が小さく咳払いすると、貴人がすぐ話題を変えたわけは若輩の現フリッツ王が危険人物じゃなくても、前国王の過去には触れない方がずっといいからだ。
いま老軍人の顔が険しく引きつった。白い立派な口ひげが逆立っている。正確に言えばラッツィン大将は晩年を決して穏便に過ごしてきたわけじゃない。たとえ野望があっても全部胸にしまってきた。
芝生の上に直立不動で立ち、顔が新緑の木陰で半分隠れている。貴人の目には老大将の顔が真っ青になっているように見えた。不安げに訊いた。
「大将、ご気分が悪いのでは?」
「閣下、古傷ですな。サースプルート地方で受けた頭傷が治りません。脳圧が高いのですよ。医者は脳圧迫と言っておりますが、願わくは……」
老大将が何を願っていたか分らない。というのも突然芝生に倒れ、緋色・金モールの正装で縮こまり、灰色の目がかっと見開いたからだ。
招待客が身震い動揺し、たちまち大勢が意識不明の大将を取り囲んだ。灰色の服や正装が多い中で、派手なワンピースを着た令夫人が群衆の端で顔を背け、震えていた。
「なんて恐ろしい、とても恐ろしいわ」
そばにいたフリッツ王がつぶやいた。
「なんて運がいいんだ」
令夫人が振り向き、非難するように灰色の瞳を向けて、尋ねた。
「陛下の本音でございますか」
モンテナナ国フリッツ王が耳の付け根まで真っ赤になった。恐らく王室記者がいなくて良かった。思わず口ごもった。
「侯、侯爵夫人、誤、誤解です。正直に言いますと、ラッツィン大将は大好きですがやはり、古い頑固者です。まあ、学生時代は離れていて良かったですけど。いえ、大将はたいしたことはありません。時々奇病に襲われて、しばらく人事不省になります。でも一日、二日も続きません。さあ、ご自分でご覧になってください、もう良くなっていますよ」
貴人達が離れると、ラッツィン大将は両腕を抱えられ、大使館の中によろよろ歩いて行った。老大将の顔は太陽に照らされて、ぞっとするほど真っ青。狡猾・怜悧な顔はメロン皮のようにしわだらけ。
だが国王は不安な表情を全く見せず、実際近くにいる人が見たら、喜んでいると言いかねない。そのとき大使秘書がフリッツ王の所へやってきて、ささやいた。
「陛下、大変な事態でございます。いま医師が大将を診察しておられます。何かご命令がございましたら」
モンテナナ国王が即座に言った。
「帰宅させて、ベッドに寝かせろ。必要なのは看護人と、氷枕だ。二、三日寝かせれば、元通り元気になる。以上だ」
秘書が下がると、国王は小さなテーブルへ行き、さも日常茶飯事かのよう。少年のように初々しい顔が期待に膨らんでいる。細い口ひげを嬉しそうにねじった。今や国王の面影はなく、粋で上品な若い英国紳士が、ボンド通りにある腕のいい誠実な仕立屋から出てきたかのよう。
小さなテーブルに座っていたのが友人・フロリゼル公、コーヒーを飲みエジプト煙草をふかしている。その若い男・フロリゼル公が立ち上がり恭しくお辞儀したのは国王がテーブルに来た時だ。
共和主義者やその類は王政に敬意を払わないので、国王がお供・フロリゼル公を高慢ちきに黙殺すると言いふらしかねない。
「フロリゼル、お笑いだ。老いぼれのラッツィンが気絶しおって。あれは古傷のせいだな」
フロリゼル公がつぶやいた。
「陛下、重大事です」
「陛下なんてよせ。誰も聞いてないのに、そんな敬称を言って何になる。事の意味が分らんか」
フロリゼル公が高慢ちきに笑って、言った。
「おそらく外交が止まります。例のオーステンバーグ王女との交渉……」
「二度とその名前を言ったら、ぶちのめすぞ。ラッツィンが何と言おうが構わん。あんな辺境地が何の足しになるか、しかも妻となる女はと言えば、体重八十キロ、肌色は腐ったオレンジ色とくる。いやだ、俺の結婚は俺の好きにする。自分で選べなきゃ国王なんて何のいいことがあるか。さて老体を見舞ってから、二人で楽しもう。うんざりだ、片足を引いて会釈したり、操り人形みたいに引き回されたり。俺は二十五歳だけど、学校を出てから何も経験してないし、何も世の中を知らない。俺の口癖はハロー校の時が一番幸せだったし、誓ってそう思うな」
フロリゼル公が不安げに言った。
「せいてはいけません。老大将が寝込んでいる……」
「フロリゼル、好機だよ。あの老体は二、三日何も出来ないし、これ以上いい口実はない、連中の筋立てを中止できる。しかも俺達の人気が上がるぞ。人生の楽しみをあきらめた姿を想像してみろ、モンテナナ国を操る老人の病室で座っているなんて。大々的に載る新聞記事を考えてみろ、ずっとだぞ、フロリゼル、都市の女王、ロンドンの楽しみをなめ尽くすぞ、突っ込むぞ」
フロリゼル公は若いなり世代なりに賢かったが、所詮若者だ。しかも羽目を外すのが全く嫌じゃない。でも責任感が急に出てきて、それを考えると、無邪気な童顔が曇った。
フロリゼル公が心配して言った。
「急ぎすぎていませんか」
「ほんのちょっとだ、ハハハ、いやたぶんまっしぐらかな。さあ行こう、君も口実を設けろ。あとは神のみぞ知るだ」