Chapter 1 of 4

天井の隅に、小さい四角な陽がひとつ、炎ゆるやうにキラキラと光つてゐた。湯槽の上の明りとりから射し込んだ陽が、反対の壁にかゝつてゐる鏡に当つて、其処に反映してゐるのだつた。

純吉は、先程から湯槽に仰向けに浸つて、悠々と胸を拡く延しながら、ぼんやりとその小さな陽を眺めてゐた。――快い朝だ、と彼は沁々と思つた。……帰省して以来間もなく一ト月にもなつたが、その間、何といふ懶い日ばかりが続いたことだらう。

秘かに想ひを寄せてゐた照子は、勝ち誇つたやうに嫁いてしまつたし――加けに高を括つてゐた学校は落第してしまつたし、……。

そんなことを思ふと口先だけでは勢ひの好い虚勢ばかりを張つてゐるものゝ内心は至つて臆病な彼は、折角の若い日も滅茶苦茶になつてしまつた気がして、暗然とした。これが動機となつて意固地な運命は何処まで暗い行手を拡げることだらう……転々と、底の知れぬ程深い谷底へ、足場もなく転げ落ちて行く一個のごろた石に、われと自らを例へずには居られなかつたのだ。

純吉は、湯槽の中で思ふ様四肢を延して、朝の陽を仰いだ。前の晩、卑しい妄想に病まされて到々明方までまんじりともしなかつた。夜が明けて救はれた気がした。湯をわかすことを命じてから暫くうと/\した。厭な夢ばかり見続けた。起された時は、夏の朝らしい爽々しい陽が庭に一杯満ち溢れてゐた。彼は夢中で湯槽へ飛び込んで、吻ツと胸を撫で降した気になつたのだ。

純吉は、大きな声で女中を呼んだ。

「煙草を喫ふんだから、一本つけて来て呉れ。」

純吉は、湯の中に仰向けの儘煙草を銜えて、悠々と喫し始めた。静かな朝だつた。煙りはゆらゆらと立ち昇つて、天井に延びた。

「おい/\。」廊下から宮部が騒々しく純吉を呼んだ。「何時まで湯に浸つてゐるんだい、稀に朝起きをしたと思へば! 居眠りでもしてゐるんぢやないのか?」

「あゝ煩いなア!」純吉は、さう呟くとさもさも迷惑さうに顔を顰めた。「もう浜から帰つて来たのか? チヨツ!」

「未だ寒くつて海へは入れなかつたよ。加藤と木村がこれからスケートへ行かうツてさ。」

「厭だ/\。」と純吉は首を振つた。(スケートといふのはローラー・スケートのことである。それが流行した頃だつた。)

「厭もないもんだ。昨夜はどうだい、あんなに面白がりやがつた癖に……」

そこに加藤も出て来て「昨夜は純公の評判が一等素晴しかつたなア。お百合さんは貴様に確かに秋波を送つたぜ、なア宮部?」

「昼間になると変に気分家面なんてしてゐる癖に、塚田へ行くとイヽ気なものだ。」

塚田の画室をスケート場にしてゐたのだ。百合子は塚田の従妹である。

「ほんたうか?」純吉は、からかはれたことを打忘れて仰山に湯槽から飛びあがつた。

「だが駄目だよ、これからは海が始まるんだからな、泳ぎなら俺様が大将だからね。」と加藤はふざけて胸を張り出した。「百合子さんは泳ぎの出来ない奴は嫌ひだつて云つたぜ、どうだい参つたらう、だが、それにしても彼の君が浜辺に現れたらさぞさぞ……」

「もう止して呉れ。」

純吉は、もう不気嫌になつてゐた。彼は、タヲルにくるまつて日当りの好い縁側に出た。加藤は押入からスケートの車を取り出して回転の具合を験べたり、油を注したりしてゐた。

木村は、純吉の机の前で薄ツぺらな雑誌を切りに読んでゐたが、純吉の姿を見ると、

「馬鹿だな、斯んな下らねえことを書いてゐやアがる。」と笑つた。純吉は、ハツとして其方を見ると、思つた通りそれは自分が同人の一人になつてゐる文芸同人雑誌だつた。湯に入つてゐるうちに着いたものと見える。純吉は、非常に慌てゝ木村の手から雑誌を奪ひ取ると、赤くなつて次の間へ駆け込んだ。そして胸を轟かせて頁を繰つた。それには彼が、冬のうちに書いた二度目の短篇小説が載つてゐた。空想で書いた小説だつた。(あの空想が到々本物になつてしまつた。)と彼は呟いだ。そして彼は一寸意味あり気に眼を閉ぢたりした。(運命を出し抜いてやらうと思つたら、まんまと返り打ちにされたか!)

「文科の癖に何だい、その拙さは……」など、隣りから木村が笑つた。

「純公が小説を書いたのか?」加藤の生真面目な声も聞えた。「女のことか? さうぢやないのか、小説は女のことでなければ面白くないからな、……おい岡村、俺にも読せて呉れ、貴様にそんな腕があるとは知らなかつたぞ、……太え奴だア。」

隣りの声など耳には入らず純吉は、眼を凝してゐた。(活字になると、何だか自分が書いたものぢやないやうな気がするな……何としてもこれが俺の二度目の小説なんだ、運命には敗されたが、この収穫で悦びを得たいものだ。)そんな他合もないことを念じながら純吉は自作を読み始めた。(以下岡村純吉の小説『ランプの明滅』をその儘挿入する。)

試験の前夜だつた。彼はいくら書物に眼を向けてゐても心が少しもそれにそぐはないので――で、落第だ。と思ふと慄然とした。と、同時に照子の顔が彷髴として眼蓋の裏に浮びあがつた。彼にとつては照子の存在が、その落第を怖れる唯一の原因だつたから、然も彼は非常に強く照子の存在を意識してゐたから、非常に落第を怖れた。何故なら照子は、いつも口癖のやうに、

「妾、秀才といふ文字程美しい感じのするものはないと思ふわ。妾はその感じだけにでも、妾の生命の全部を捧げて、涙を滾して恋するわ。」と云つてゐた。彼は、自分が秀才と正反対のものであるといふことを照子が侮辱して暗に嘲弄してゐるものと知つてゐた。……フン! とばかり、彼は無念のあまり、高飛車に落着を示してゐたが、内心非常に照子の言葉に圧迫され、辟易してゐた。

或る時彼は、戯談紛れに、だが胸に一縷の望みを忍ばせて、

「僕は照ちやんのやうなお転婆と結婚がしたいよ。」とからかつた。

「妾もよ。順ちやんのやうなノラクラ茶目助と結婚したいわよ。ホツホツホ。」――で一撃のもとに笑殺されて、つまり彼の言葉の反応どほり戯談の儘とほつたのだから好さゝうな筈なのに、何時までたつても照子の云つた結婚云々といふ言葉にこだわつてゐた彼だつた。それは「どうしてなのか。」と考へて見るまでもなく「片恋」と極めて簡単に解つてゐたが、よく恋の心理を現した和歌などに「何故か――」「涙ながるゝ。」などゝ、遠回しな象徴化を見せられると、反感とまでゆかず滑稽を感ずる彼だつたが、照子を思ふとどうやら自分の心持も「何故か、涙ながるゝ――」の気持らしかつた。

時間は遠慮なく過ぎて行つた。書物の第一頁すら彼の頭に入つてゐなかつた。彼は、一秒を刻んだ時計の針に落第を思ひ、さうして失恋(?)をおもつた。

彼は、深い溜息をした。――照子が、突然コロリと死んでしまへばいゝ、と思つた。

外は酷い暴風雨だつた。激しい雨がしきりに彼の窓を打つてゐた。そのうちに彼の心は、荒れ狂ふ風雨の響きのなかに溶けて行つた。「落第がなんだ。」と彼は呟いた。――「厚顔無恥の照子だ、馬鹿!」と独り言つた。

その時、明るく静かだつた電灯が突然と消えた。と同時に彼の胸を、何やらハツと冷い翼のやうなものがかすめた。「好いあんばいだ。」と彼は思つた。「灯りが消えては、当然勉強は出来ないんだ。」「本をまる覚えしたことで、彼奴の最も讚美する秀才になり得るものならば、勉強が止むを得ず出来なかつたといふ原因で落第しても……」そこまで考へて彼は馬鹿気た笑ひを洩した。――そして彼は、たゞ専念に、安心して照子の幻を描いた。

彼は暗闇の中に凝として、笑ひと悲しみの分岐点にたゞずんでゐる自分を視詰めた。――恋情といふものは極めて滑稽なる感情なり……そんな気で、そんな心をさぐりながら、彼は木像のやうに動かず、背骨を延ばして端座した。

「電灯が消えて、試験だつてのに困るわね。」といふ声がしたかと思ふと、パツと部屋が明るくなつた。ランプを持つて来た照子は、彼の眼に涙が溜つてゐるのを不思議さうに見おろした。

「勉強は出来て? あまり凝らないで少し休んだらどう?」

「煩いなア!」

彼はさう云つて、明るくなるのを待ち構へてゐたやうに、照子の方は見向きもせずに直ぐと本の上に視線を落した。

「しつかりやつてね、御褒美を上げるわよ。」

照子はランプを彼の机の隅に置いて、ちよつと指先でシンの具合を直した。

(どんな褒美なんだい?)彼は、にやりとしてさう問ひ返すところだつたが、問ひ返さるゝ程の真実味をもつて照子が云つたのではなかつたのだ、と気附いたから、やはり憤ツとした態度を保つてゐた。照子は、足音を気兼ねしながら梯子段を降りて行つた。

彼は、凝とランプの灯を視詰めた。シンのあたりが秋の虫のやうにジーツといふ音をたてゝゐた。それが気になつたので、彼はネジをつまんでシンを引ツ込めたり出したりした。何遍も繰り返した。間もなく音は止んだが、所在のない彼は指先をネジから離さなかつた。部屋は、明るくなつたり、暗くなつたりした。

明るくなつた瞬間には、試験と失恋の怖ろしさを想つた。暗くなつた瞬間には、安心して照子の美しさを想つた。――そのうちに彼は、指先の速度をそれに伴れて心の変る暇のない程だんだんに速めて行つた。非常に素速く反転させた。彼の心も同じやうに速く反転して、そして無心になつた。彼は、たゞ面白がつてランプのシンを弄んだ。

(しまつた!)と彼が気附いた時、シンは油壺の中へ落ちてゐた。

暗闇だけが残つた。困つたことか、困らぬことか? 彼は心にそんな区別をつけることを忘れた。そして深い溜息をした。――虚無、安心、悦び、涙――そんなやうなものが白い絹に包まれたまゝ胸の中へ一時に流れ込んで来る感じがした。

彼は、落第した。

照子はその翌年結婚した。彼は、照子の結婚が少しも自分の心に反応のない気がした。

「やつぱり恋といふ程のものぢやなかつたんだ。ほんの気紛れだつたんだ。」彼は、斯う自分の心に呟かせたが、少しギゴチない気がした。で彼は、自分に「悲しき勇士」といふ冠を与へて、楯と剣を持せて丘の上に立たせて眺めてみた。

また試験の夜が回つて来た。一昨年と同じ部屋で、彼は机に向つてゐた。照子は居なかつたが、やはり彼の心は本に集注しなかつた。「さうだ、俺は試験そのものが嫌ひなんだ。照子なんてには係りはないんだ。」――「だから俺は試験の時節になると屹度、ものを書きたくなつたり、恋を空想したりするんだ。」

彼は、そんなことを呟いて、何か意味あり気にひとりで点頭いた。

彼は、自分の結婚を空想した。妻を得た或る日の自分とその見知らぬ妻を描いて、二人に会話を与へた。彼はペンを取つてノートブツクに次のやうなことを書いた。

――その年に彼も結婚した。

「あなたは妾と結婚する前に恋をしたことがあるでせう。」妻はよく斯んなことを云つて彼を困らせた。

「ない/\。ほんたうに、決して――」彼は、心から妻を愛してゐたから、無気になつて答へるばかりだつた。

「嘘だ/\。」と云つて妻は泣いた。そんな事も聞いた。あんな事も聞いた。と妻は古い手紙などを持ち出して、又泣いた。

彼が或る女と家を逃げ出したこと、雛妓に惚れて親爺から勘当されたこと、などを妻は知つてゐた。

が実際、彼はこの妻程愛した者は一人もなかつたから、「嘘ぢやない」と懸命になつて云へば云ふ程、妻は反対に焦れた。さうなると彼は癪に障つて、妻以上に深く愛した恋人を持たなかつた過去を寂しく思ひ、後悔した。

「明るくつて眠れない、灯りを消せ。」

結婚して始めて彼が怒気を含んだ音声を発したので、妻は吃驚して(どうして夫がそんなに怒つたのか解らなかつたが。)おとなしく立ちあがつて灯りを消した。

その様子が可愛かつたので、彼は妻の手を握つた。妻は又泣いた。

その時彼は不意と、今迄全然忘れてゐた照子のことを思ひ出した。「嘘ぢやない。」と妻に弁解しながら、嘘でないその言葉から過去を寂しく思つてゐた矢先に、ふと照子の顔を思ひ出したら、

「やつぱり俺は、妻に嘘をついてゐるのかな。」といふ気がして、軽い会心の笑が浮んだ。同時に堪らない寂しさが湧きあがつた。

「何故俺はそれ(?)以上の愛を持つことが出来ないのだらう。」斯んなことを思ふと、彼は滅入りさうな気になつて、

「やつぱり眠られない。もう一度灯りを点けておくれ。」と云ふには云つたが、妻と一緒に、暗い部屋の中で、その儘身動きもしたくなかつたので、堅く妻の手をおさへた儘灯りを点けさせなかつた。(完)

純吉は、読み終ると同時に思はず亀の子のやうに首を縮めた。(チエツ! 厭な奴だなア。)彼は、ニキビのある青年が東京の下宿の一室で「ランプの明滅」を書いてゐる光景を回想した。

「スケートへ行かう。」

苦い顔をして縁側へ現れた純吉を見あげて宮部が云つた。

「厭だ/\。」

「小説でも書くのか?」木村が意地悪気にからかつた。

「木村はイヽ加減の了見で他人の気持を推し計らうとするから失敬だぞ。」

純吉は、憤つとしてそんなことを云つたが、それは相手に喋舌つたのか? 自分で自分を冷笑したかたちなのか、解らなかつた。

純吉は、自分の気持の何処にも力の無かつたやうな愚しさに打たれた。そして、わけもなく無しや苦しやして来て、

「君たちも、さつさと湯に入つて来ないか!」と怒つたやうな調子で云つた。

「皆なで一緒に入らう/\、狭くつたつて関ふものか。」宮部がさう云つて、先に湯殿へ駆け出すと、木村も加藤も、すつぽりと其処に着物を脱ぎ棄てゝ、おどけた格構で続いて行つた。

純吉は、折角晴れ/″\した朝の気持を忽ち奪はれた気がして、照子のことを思ひ出したり、また落第のことを思つたりして――酷く気が滅入り始めた。

(寝てしまはうかな!)彼は、そんなことを思ひながら、庭の青葉に降り灑いでゐる光りを、物憂気に眺めてゐた。

「お爺さん/\、熱くつて仕様がねえよ、水を出して呉れ、水を出してお呉れよう――」

湯殿では、そんな騒がしい声がしてゐた。間もなくガタン、ガタンと退屈気にタンクをあをる音が、のどかな朝の色に溶け込むやうに響いた。

Chapter 1 of 4