Chapter 1 of 4

彼は、飲酒があまり体質に適してゐないためか、毎朝うがひをする時に、腹の中から多量の酒臭い不快な水を吐き出した。前には、それは時々のことだつたがこの頃では、これが定めとなつてしまつた。そして、これも前には稀であつたが、この吐く水がなくなると、一層激しく、胸や腹が、空々しく、苦しく、ゲクゲクと鳴つて、それから苦く黄色い胃液を吐き出した。

大体彼は、生来健康な質だつたから、どんな医学的の知識にも欠けてゐた。だから、初めはこれに随分驚かされて、洗面の後暫くの間は何時も精神的な鬱陶しさを強ひられるのが常だつたが、それも今ではすつかり慣れてしまつて、どうかした調子に中途で収まりさうになると、故意に喉を鳴らして技巧的に吐き出すこともあつた。

左様して彼は、毎朝日課のやうに、何となく洞ろな感じに苦しい、酷く騒々しい手水を使ふやうになつてゐた。

彼の四歳になる長男は、毎朝その傍で父の異様な苦悶を見物した。そして、稍ともすればゲーゲーと喉を鳴して、その時彼がするやうに両手を糸に吊された亀の子のやうにひらひらさせて、その彼の苦悶の真似をした。――どんな種類の苦しみに出遇つても、まつたく堪え性のない彼は、その通りに毎朝、縁側の端の、洗面が終れば直ぐに取り片づけてしまふ流しにのめつて、いつも変りなくそんな格好をするのが習慣の一つになつてゐた。

「そんなに苦しいのなら止せば好いのに、お酒なんて、それほど好きでもなさゝうなのに――」

時にはそんな風に傍から哀れまれると、何時も彼は、同じ言葉で毒々しく反対するのが常だつたが、この頃では、思はず鹿爪らしい顔をして、

「さうだなア?」などゝ沁々とした嘆声を洩しながら、わけもない退屈をかこつた。――(意久地がないんだ、肉体ばかりでなく……心が。)――「何か素晴しく激しい運動をしようと思つてゐるんだ、夜になると同時に、ぐつたりとして死んだやうに眠れるほど。酒で眠るのはもう飽きた。」

「運動ツて、何?」

「…………」

水を吐き出す時は、傍で察する程苦しくはなく、たゞその勢ひに伴れて、肩を怒らせたり落したり、手首をひらひらさせたりするが、いよいよ水が枯れて、胃液がほとばしり出る時になると、まさしく格好だけは「七転八倒の苦しみ」であつた。彼は、

「ゲーーツ! ゲーーツ!」と、板のやうに胴体を平らにして、腸を絞つて喉を鳴した。

「ウツ、ウツ、ウ……あゝ、何といふ苦しいことだらう。」

思はず彼は、そんな叫びを洩して、蛙のやうにぺつたりと五指を拡げ伸した手の平でピシヤ/\と縁側を叩いた。また、

「ウーーツ! ウーーツ!」と、今にも息が絶え入りさうなうめき声を発しながら、ぐらぐらする流しの両端に噛りついて、千仞の谷底をのぞく臆病者のやうに上体を前方にのめり出した。また、

「ギヤツ、ギヤツ、ギヤツ!」といふ風な声を出して、徐ろに胸を撫で降したりするのであつた。――そして、少し落ち着くと、どつかりと其処に胡坐して勢急な呼吸が静まるのを、静かに空を見あげて待つた。

彼は、まだ飲酒が癖になつてゐるとは思はなかつた。だが彼は、己れの経験を歪んだ観察眼で、悉く卑下して一笑に附したがる程の悪癖を持つてゐた。

「晩酌と称する奴だけはやりたくないもんだね、あいつを始めたひにはもう爺いの部類に属してしまふんだからね。」などと彼は、変に若々しがつて、粗野な感傷に陥つたりしたこともあつた。

「もう始めたつて好い年輩だぜ、爺臭い親爺のくせに何時まで厭味たらしい……」

あべこべに友達から皮肉を浴せられて彼は、ハツと顔を赧くすることがあつた。実際では、まつたくだらしのない飲酒家になり、あの様に見苦しい醜態を日々演じてゐるのだ、たゞ何れの点から見ても所謂酒客の性がないばかりであつた。

「未だ?」

あまり彼が、ながく空を見あげて休息してゐると内から定つて促した。

「未だ。」と、彼は答へるのであつた。云ふまでもなく瞑想や感傷で空を見あげてゐるのではない、地におとすと折角静まつた胸が、またムカムカしてくる怖れがあるからなのだ。

だが、これは病気と呼ぶほどのものではないだけに形ばかりが飽くまでも物々しいばかりで、そして、どうしても斯んなに仰山な格好をせずには居られないので、吾知らず七転八倒の振舞ひをした揚句、後は達磨のやうに眼を凝し腕を組んで静止してゐるのであるが、この苦しみの内容には、中途に、大きな鈍い、安易の穴が、楽に筒抜けてゐるのだ。

「で、なかつたら堪るものか……」

彼は、無意味な不平でも洩すやうに独りでそんなことを呟いた。――「可笑しな苦しみだな、何といふ間の抜けた、ぼんくらな苦悶であることか! 毎日、毎日、毎日!」

Chapter 1 of 4