一
務めの帰途、村瀬は銀座へ廻つて、この間うちから目星をつけておいた濃緑地に虹色の模様で唐草風を織り出したネクタイを一本購つた。六円あまりだつた。――少々自分の分在には不相応のやうでもあり、失敗したかな? といふ軽い不安と、別に、つゝましく豪華な買物をしたやうな秘かな興奮を覚えながらいそいそとしてバスに乗つた。然し、バスに揺られながら尚もポケツトにしまつたネクタイのことを考へると、たつたそれ一本が若者らしくもなく何時も地味な暮しをしてゐる自分の傍らに突然不似合にも開いた美しい花のやうでもあり、彼はひとりでに顔のあかくなる思ひに襲はれた。
「少々、のぼせ過ぎてしまつたかな!」
彼は思はず口のうちで、そんなことを呟くと、厭に胸の先がわくわくとして来て、後悔の念に襲はれたりした。……「自分が若し斯んな派手なものを結んだら、さぞアパートの連中がひやかすことだらうな!」
左う思ふと村瀬は益々テレ臭くなつて、途方に暮れた。――村瀬が居る六階建の独身アパートは、元気一杯な朗らかな学生や若い務め人で満員だつた。まつたくネクタイ一本でも、誰それは近頃急におしやれになつたとか、恋人が出来たに違ひないとか――皆な奇妙に仲が善くて寄るとさわると、若々しい冗談を飛し合つて、恰でハイデルベルヒの学生達のやうだつた。その中で村瀬ひとりだけが、変なはにかみやで冗談はおろか、大きな声では笑ひ声ひとつたてられぬ程の内気者で、これはまた明るい花園の中のたつた一本の日蔭の蔓のやうであつた。自然彼だけは別物扱ひにされて、却つて滑稽視される傾きで彼等は彼だけを、
「村瀬さん――」
と、さんを付けて称ぶといふ風だつた。身装でも物腰でも誰に比べても自分が一番野暮であると村瀬は知つて居たが、これまでついぞそんなことを気にもかけなかつたのに、どうも近頃、やはり青年は青年らしく陽気で、酒も飲め、唄も歌へて、そして身装なども相当にパツとしてゐる方が、
「幸福に違ひない……」
と考へられてならなかつた。彼は稍ともすれば卓子の上に鏡を立てゝ、凝つと自分の顔を眺めるといふ癖が出来た。そして、
「この顔だつて、仲々凜々しいところがあるではないか!」
と眼を据ゑて呟いた。それから彼は、
「よしツ!」
と、下肚に力を容れて決心するのが癖だつた。「明日から生れ変つたやうに、快活な男となつてやるぞ!」
だが、ひとりの部屋では繰り返し/\堅固な覚悟に奮ひ立つたが、一度び部屋の外で他人の顔に接すると、絶対に抗し難い奇妙に重く鬱陶しい、別に理由とてもないのに無性に/\「気恥しい!」思ひが、全身を恰も身に合はぬ窮屈な外套と云はうか、鎧と云はうか、手枷足枷と云はうか名状し難い強さで絞めつけられて来て、それこそほんたうに「穴があれば這入りたい!」といふ諭への通りに、無暗と赤面して来るのであつた。愉快な人達の仲間に加はつたりすると、それらの思ひは恰で烈風のやうに体中を駆け廻つて、鼠のやうに小さくなつてしまつた。
「おうい、諸君……」
恰度村瀬が、いつものうつむき加減で首を傾けたテレ臭さうな格構で、こそ/\と食堂に這入つて来た時、村瀬の隣室の友である加藤が、水のコツプを取りあげたまゝ中央の食卓から、明るい微笑を浮べて立ちあがつたところだつた。加藤は村瀬と同じ大学を去年卒業した村瀬よりも二年の後輩にあたる男で、就中近頃の村瀬の羨望を代表するが如き溌溂さや物事の恬淡さを兼備して、見るからに近代的な好青年だつた。彼は著名な新聞社の社会部に活躍して隆々たる名声を博してゐたが、まことに道理だ! といつも村瀬は感心やら圧迫を強ひられてゐた。或時などは村瀬は漠然たる悶々の情に駆られた揚句、
「僕も中学の教師なんて止めて、新聞記者を志願すれば好かつたな。そしたら斯んな因循な性格などは否応なく吹き飛んで、少くとももう少しは元気な男になれると思ふんだが……」
うつかり彼は、加藤にそんなことを滾したことがあつた。すると同時に加藤は、突然堪らなさうに腹を抱へて、
「ハツハツハ……、村瀬さんが新聞、ハツハ……新聞記者になり度いツ……てハツハツハ……大した野望もあつたものだな……」と笑ひ転げるのであつた。「それは恰で、跛者がマラソン競争を望むやうなものだ!」
笑ひつゞけるばかりで、てんで加藤は村瀬の悲しみを案ずるどころではなかつた。村瀬は恥かしさと、嘆かはしさで今にも泣き出しさうになつて額を壁におしつけてしまつた。そんな村瀬の様を見れば見るほど加藤の笑ひは止まらなかつた。
「そんな煩悶が村瀬さんにあるんですかね! 然しね、村瀬さん、それあ左程心配するには当りませんよ。貴方のそれはね……」
と加藤は笑ひ顔を消して、事務的な口調で云つた。「つまりその Girl-shy といふ病気で、それが途徹もなく内攻してしまつたんだな。勿論、神経病の分野なんですが、あたり前の神経衰弱とは違つて、或る時機が来れば、必ず治る――明日にでも、いや、次の瞬間に於いてゞも……」
加藤は、苦笑を浮べた。
「或る時機とは?」
村瀬は、からかはれてゐる気がしてならなかつたが、然し何やらギヨツとするものに打たれて思はず反問した。
「結婚――」
加藤は故意とらしく厳然として、言下に唸つた。然し村瀬は、単なる結婚などゝいふことでこの頑迷な病ひが救はれるとは何うしても考へられなかつた。もつと深い因果な性癖に根ざすものとしか思はれなかつた。……「女性に出会ふと徹底的に狼狽するといふ病ひ――変態心理の一種――ガール・シヤイ。」――村瀬は、まさか自分がそんな惨めな患者とは思ひ度くなかつたのだが、云はれて見れば、それに相違なかつた。滅多にそんな機会などのある筈もなかつたのだが、誰彼の差別もなく遇々美しい女性に相対すると、わけもなく全身の血潮が頭に逆上して来て、決して当り前の口が利けなかつた。どんなに力を込めても次第に膝頭が震え出して、やがては視力が霞み、激しい鼓動に襲はれて五分間以上は其処に居たゝまれなかつた。それが嵩じると、途上に於いてさへも往来の婦人に対して同様な衝動を起し、また刺戟的な絵画や文字、或ひは他人の会話を耳にしても発作を起すに至る――といふことであつたが、村瀬の症状も正しく第三期の手前まで進んでゐる――と彼自身にはつきりと自覚出来るのであつた。この病ひは単なる青年の憂鬱病ではなくて、マゾヒズムやサデイズム等と並ぶべきれつきとした変体性慾であり、この患者は断じて幸福なる結婚生活は望めぬものである――加藤は、あんなに軽快に片づけてゐたが、果して自分がそれと決定すれば、そのやうに怖るべき運命の下にひしがれた憐れな人物でなければならない――村瀬は、加藤のやうな朗らかな立場からではなしに、その病ひのことに付いては一通りの概念を持つてゐた。
あれ以来加藤は村瀬に出遇ふと、「早く結婚のことを考へなさいよ。」とか「何うも近頃、村瀬さんの様子は可怪しい、恋人でも出来たのではなからうか、といふ専らの評判なんだが何か嬉しいことでもあるんですか?」などゝからかふので、成るべく食事なども外で済せて、人々に顔を合せない算段をしてゐたのだが、この日はネクタイのことばかりに気をとられてうつかり空腹のまゝ帰つて来てしまつたので、おそる/\食堂へ姿を現はすと、恰度加藤が立ちあがつて一席弁じ立てようとするところだつた。