Chapter 1 of 3

KATA-KOMAS

ドリアン――彼女は私達の愛馬の名前である。私達といふのは、私の『西部劇通信』なる一文中に活躍してゐるその山間での村の私の親愛なる知友達である。あのアメリカ・インヂアンの着物を常住服として勇み立つてゐる――。ドリアンは私達が、水車小屋から何時でも自由に借りることが出来る私の「ロシナンテ」である。ドリアンの他に私達は必要に応じては、馬蹄鍛冶屋のタイキ、野菜市場のワカクサ、タバン・マメイドのペガウサス、蜜柑問屋のホワイト・ローズ、村長家のマーガレツト、牧場のリリイ等と、何時でも勢ぞろひをさせることができる。私達は貧しく、そして野蛮ではあつたが、不平を持つ間がなかつたから村人の間に或種の信用を拍してゐたのである。

近郷近在の村々は祭りの季節に入つて、私の知友連は野良その他の仕事を休み私の部屋を訪れて私に依つて西洋流のダンスを習つてゐたが、あまり毎日/\麗らかな天気が打ち続く故、ひとつ、あの! ――と、私の或るアパートになつてゐる蜜柑林の中の三つのテントを指差して、

「あれらを携へて幾日間か村を遍歴して来ようではないか?」と提言した者があつたのだ。――(私は、その村のアバラ屋に移り住むまでは隣り村で、黒い扉のついた石の門のある家に住んでゐたのだが、追放され、此方の村に移つたが、私はその時、俺は斯んな狭い家には住めない、俺には単独の寝室と書斎とそして物理の実験室がなくては困るのだ――と呟き、思案したが、追はれる程の身分だから家の建増などはかなふわけがない、それでも飽くまでも我を張つて倒々愚かにも蜜柑畑の一隅に三角や四角のテントを建てたりしたのである。ところが私はそんなに勿体振つて「自分」だとか「書斎」だとか、「独りの――」だとかと呟いで六ツヶしい顔をしたにも関はらず、いつの間にか雑居のアバラ屋に慣れてしまつて、その上、バアバリスティクな共和生活に不思議な生甲斐を覚え、「ストア派だ、健やかなストア派だ」などと呟きながら、書をひもとき、ペンを執り、または野良に出て蜜柑運びの馬車を駆つたり、居酒屋に立寄つてポーカーで勝ち、胸倉をとつて小突かれたりしても驚かなかつた。黒い門があつたり、実験室があつたりした家の中で、生命の不安に戦きながら文学に没頭してゐた自分などは回想するだに憐れであつた。そんな三つの天幕などは使用するどころか、取り脱す暇もなかつた程日々が多忙であつた。「不安は事物に対する吾々の臆見がもたらすのであつて、事物それ自体に不安の伴ふ暇はない。」――こいつは真理だ。野に出でゝ、陽を浴びよ。

その提言は即坐に可決された。私達は、ドリアン以下十頭の駒をならべて――森に入つては鳥を打ち、川に降つたら魚をつかみ、夜になつたら樽を叩いて酔ツ私ひ、グウグウと鼾をあげて眠つてしまへば世話はない、明日は明日、今日は今日――そんなやうな意味で、処々に、

「ワツハツハ、グル/\回れ、上手に踊つてあの娘にもてろ!」などゝいふ合唱が繰り返されるジヤズ・ソングを歌ひながら、マメイドといふ、ちよつと美しい娘がゐる居酒屋を出発点にして賑々しく発足した。この歌は考へ方によつては、一脈のデスペレイト感を誘ふものがあるかも知れぬが、その調子が大変に爽々しく、そして実際の歌詞では、その儘此処に誌すのが何となく気が退ける位ひの抒情詞と美麗な形容詞に飾られてゐるので、唱歌者等は何んなに声高らかに歌ひ叫んでも、決して、歌意の何処かに潜んでゐる茫漠たる怖れや不安の影に気づくことなく、返つて、刹那々々の力強い享楽感に励まされて踊り出したくなるやうな面白さに打たれるといふ調子であつた。加けに、隊の中程でペガウサスに打ち跨つてゐる牧場の牛飼ひを業としてゐるRといふ若者がハーモニカの名手で、ベイスのあんばい宜しく力一杯吹き鳴してゐるので馬達までも浮れたかのやうに脚並み面白く、息を衝く間も待たずして峠の絶頂までのぼつてしまつた。ふり返るとたつた今私達が出発して来た私達の村が、遠く薄霞みの中に朝の煙りをあげてゐた。私が望遠鏡を眼にあてゝ見降すと、村境ひの橋のたもとまで私達を送つて来たマメイドの娘と、十名のうち私をも含めて三人の妻帯者だが、その三人の女房達が、私の妻が手綱をもつてゐる牛乳屋の馬車の上に立ちあがつて、切りにハンカチを打ち振つてゐた。――また行手を見渡すと、私達がこれから訪れようとする祭りの村々が彼方此方に蜃気楼でゝもあるかのやうに紫色の大山脈の麓に浮んでゐた。

私達は、空に向つて空砲を鳴してから、一気に山道を駆け降りた。

――私は今此処で、それから私達が訪れた村の情景や出来事や私達の出遇つた事々をも誌したいが、それよりも今日の目的は KATA-KOMAS なる言葉の解釈なのである。これは、村から村へ流れ渡る――といふ意味の言葉である由だ。おそらく村から村へ流れ渡る者の胸のうちには、それが何んな姿であらうとも切なる寂しさを抱かぬ者はあるまい。KATA-KOMAS は「寂しき者」とも云ひ換へられるであらう。そして、この寂しき者は、三界に家なく、たゞその日/\を村から村へ食を求めて、止め度もなく流れ渡る者――永遠のヴアガヴオンドと同意の語であるが、私は私の経験に依つてこれを説明したかつたのであるが、私は未だ事実上の放浪の験を持たない――で、斯んな遊戯的情景を持ち出し何か忸ぢたる感があるが――これでも、夕暮が迫り、ドリアンの嘶きを耳にしながら天幕を背に次の村へ赴く森かげになどさしかゝると、「村から村へ」の旅人のそこはかとなき万感が想像されぬでもなかつた。――そして私も生活の上では常に“KATA-KOMAS”に他ならぬではないか。町に生れ、都へ出て、村へ帰り、村を追はれ、村へ移り、そして都へ出て……。

それはそれとして次の「言葉」のことに移らなければならない。

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