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随筆 寄席風俗
正岡容
わが寄席随筆
大正末年の寄席
百面相
かの寺門静軒が『江戸繁昌記』の「寄席」の章をひもとくと、そこに「百まなこ」という言葉がある。「百まなこ」とは柳丸がよく用った花見の目かづらのようなものだが、これが「百面相」を生んだ母胎だろう。そうして百面相自身も天保の昔には、わずかに瞳と眉と、顔半分の変化をもって、あるいは男、あるいは女、あるいは老える、あるいは稚きと、実にデリケートにさまざまの千姿万態を、ごらんに入れた演技だったにちがいない。だがなるほど、この方がほんとうだ! 魂の問題からいってもずっとほんとうで芸術的だ!
それが春信や栄之の淡い浮世絵は、ついに時代とともに朱の卑しき五渡亭が錦絵となったがごとく、後年眉を彩り、衣装をまとい、惜しみなく顔と五体を粉飾しつくして、やれ由良之助だ! 舌切雀だ! そうしてステッセル将軍だ! と、ずいぶん、お子供衆のおなぐさみにまで、推移していったものらしい。
しかし、考えると、かえって当初のものの方が、よほどほんとうの嘘のない文明精神の発露であったような気もされる。そうして、世の常の文明なるものも、みんな、このたぐいの、実は進歩だか、退歩だか、まったくもってわからない、いや、進歩でもあり、退歩でもあるもののような気もせずにはいられない……。
――ところで、近世の百面相では、なんといっても、先代の松柳亭鶴枝だった。あのてかてかにあたまの禿げた、福々しい顔つきの鶴枝はまったく、覚えての上手だった。少し病的だと気になるくらい声がしわがれていた。――一番巧いのはなんといっても、ステッセル将軍だった。それから青い服を着た露助が、撃沈された軍艦で、手をあげて救いを求めている、その絵画的に巧みなポーズも私は今に忘れられない。桃太郎の誕生場をやると、仲見世の何とかいう、今の天勇のもう一つ向こうの通りの勧工場に、永らくかざられてあった活人形にそっくりだった。まったくあれの再来かと疑われた。それからぴか一の景物は、なんといっても蛸! である。桃色の手拭いであたまをつつんで、それから豆絞りの鉢巻きをして、すててこにあわせて踊る蛸入道は、涙ぐましき見ものであった。今の鶴枝もやるけれど、これだけは、到底、ものがちがう。段がちがう。今の鶴枝のでは、ことに、手のふるわせ具合がはなはだ幼稚でお座がさめる。――だが、あの好々爺の先の鶴枝がついには気が狂って死んだかと思うと、私は今も耳にのこる、あの一番芸の終わるたびに、なんと思いきりよくぱちんぱちんと叩いてみせた鶴枝のあたまの音さえも、そぞろ無気味にどこからか聞こえてきてならない。
鶴輔からなった今の鶴枝も、しかし、けっして愚昧でもない。第一、楽に時代と一緒に歩いているところに、先代同様の怜悧を感じる。この頃、高座中真っ暗にして紅青いろいろの花火を焚いたりすることも、ますます百まなこ精神からは邪道なわけだが、凝ってあたわざりし思案だとも思えない。この男のでは、仁丹の広告が、時代的で妙に好きだ! 兵隊さんの行軍も先代のそれとちがって、もはや新世紀のカーキ色なることが大正味感が感じられていい。近頃、さらにその行軍から想いついて、マラソン競走を同じ段どりでみせている。まだ兵隊ほどこなれないが、いだてんの合方をひかせてやるのなど、いよいよ大正風景で愉快である。なんとも奇妙千万なのは、扇面で顔をかくして、いやらしい蝸牛の顔つきを見せるのがある。あれは北斎漫画でも見ているようにものあやしい。
だが総じて百面相は下座で、旧時代な楽隊の合方なんぞを思いもかけず、ひきだしてくれたりする時が明治情調で一番私は愉悦をおぼえる。
ただ一つ、ここに特記しておきたいのは福圓遊だ。あの男の百面相ほど、まずい、智恵のない、しかし好感のものはない。瓜生岩子の銅像や、喇叭ぶし高らかに村長さんの吉原見物や、みんな今は時代とあまりにも縁なき衆生! の風物詩ばかりを、飽きずにいつもとことことやっている、身装のほどもお粗末で、だが、気をつけて見てやるがいい。世の中に福圓遊の百面相ほど、たまらなくやるせないものはない。私はいつも世の中から棄てられた人と相対しているようでひとり涙ぐまずにはいられない。
桝踊り
もう、何年になることか?
桝踊りというものが寄席に出ていた。
春風亭柳仙という小づくりな年よりの男で、かなり、大きな桝を七つ、高座の真ん中へつみあげては、多彩な着つけで現れて、ひょいと身がるにてっぺんへ飛び上がると、一本めには池の松 と、ふところから限りなき扇子をだしては、「松づくし」のひと手を踊った。
それから、もう一度、どろどろで姿をかくして、今度は写し絵の口上にあるような、大きなでこでこの福助になる。そして牡丹の花の開くように、あやしくいぶかしく踊りぬいた。
なんのただ、それだけの、いわれさえなきいろものではあったけれど、「五変化」「七変化」などという、江戸の所作事を見るように、何か、我ら、少年の日の胸ときめかせたものであった。
それにしてもあの柳仙。
この世を去ってしまってから、もう何年になることか?
いや、それよりも残されていった七つの桝は、今頃どこで、昔の主人を憶っているか?
桝踊りは、美しいいろものだった。
橘之助
この頃になってしみじみ橘之助を思い返す。もう東京では人気もあるまいが、しかしあれだけの芸人はいない。――ことに、阿蘭陀甚句の得わかぬ文句。テリガラフや築地の居留地や川蒸気などそんな時代の大津絵や。
それからこどもがいやいや三味線を引っかかえてお稽古をする、あれなんぞは、どう考えても至上である。――仄かな瓦斯灯からぬけだしてきたような、あの明治一代の女芸人。だが惜しいとまこと思う頃にはこれまた東京の人でない。
都家歌六
私の好きな音曲師に都家歌六なる人がある。あの哀しげにいろの黒い、自棄のように背の高い、それから決して美声でない美声とは、珍重するに足ると思う。前の日のまた前の日で、あやしく燃えつきた蝋燭のような、変に侘びしい歌六の高座よ!
まったく今の寄席へ行って、一番ひしひし感じることは、明日の時代に待たるべき音曲師の皆無!なことだ。やなぎ改め江戸家はじめなどという、大道で猿股くらいしか売れそうにない、くだらない手合から決して寄席音曲のよき発達のみられよう訳がない、あんな普通のいい声(ということはたびたび繰り返すところだが、寄席音曲、第一の最大条件としてよき悪声でなければならぬから)で、そのくせべら棒に名人がっていかにも巧かろうといりもしないところでそっくり返ったりしてみせて、余徳はせいぜいチクオンキの製造所を儲けさせるくらいの功績で、なんの高座の音曲師なる名称が投げてやれようか。
初代三好の卑しくも美しき高座、万橘の、あの狐憑きの気ちがい花のように狂喜哄笑するところ。「八笑人」のなかのひとりがぬけだしたかと思われる鯉かんが鶯茶の羽織。――
都家歌六もそういうなかのわずかに残った、ほんとうの寄席の音曲師だ! 春風亭楓枝のみぎりには、「宇治中納言」なる噺をしばしば私は聞かされた。中納言が落語の鼻祖で、日々、家臣をあつめて聞かせる。「あるところに山があったと思え、そこから川があったと思え、そこで白酒を売っていたと思え、これで山川白酒とはどうじゃ。おかしいか」というと一同「げにおかしき次第と存じ上げます」殿様「しからば次へ下がって、苦しゅうない一同笑え」――そこで次の間で声を揃えて、「あははのはあ」と頓驚な笑いで落になる。それから「箱根の関所」をやった。「あらとござい」という声の、今も忘れ得ぬ妙なおかしさ――。
東京の名所を知らないお方――を歌うと三代広重の開化三十六景が古びたおるごうるとともに展開され、ありがたいぞえ成田の不動――とありがた節には愚昧でそぞろ哀れの深い、そのかみの東京人の安らかな生活の挽唄がある。高い山から――を踊ると鳴り物入らずの仕方たくさんで、阿蘭陀渡来の唐人踊りはさっさ唐でもよいわいな――と安政版の時花唄を思わせる。あの時歌六の両の手が楽屋の鉦の音につれて棒のようになるのもいい。――改良剣舞源氏節で三つちがいの兄さんも――と、重い太皷の鳴り渡るのも歌六がやれば嬉しい。すててこを踊る芸人も、二代目圓左の他にはこの歌六ばかりになったろう、翫之助のではたまらないし。
それにしても、いつも白い真夏が、しずかにあやしく東京の街へ訪れてくると、いっそう私は歌六の上を思うようになる。歌六のあの姿にはどうしてもぷんと紺の香の漂う手甲姿でやってくる、青い蝮売りを思わせるにふさわしいものがあるからだ!
きょうのこの日の蝮捕り――
渡りあるきの生業の昨日の疲れ
明日の首尾
と白秋が去りにし日の「蝮捕り」を誦みつつ、都家歌六の高座を偲べば、こころ、何か、何かあやしく、坊主だましてげん俗させてこはだの鮨でも売らせたい――とこんな小唄の必ず思いだされてくるのも可笑しい。
昼席
――昼席ほど、しみじみ市井にいる心もちを、なつかしく身にしみ渡らせるものはない。
そういっても、震災前の旧東京には、まだ昼席にふさわしい、旧びた木づくりと、ちょっと小意気で古風な庭とをもったいろものの寄席があった。――新石町の立花なんぞは、そういっても、夜席より、昼間がよかった。あのだだ長く薄暗い寄席の片すみ、万惣の果物をかぞえる声が、荷揚げの唄のように何ともいえず、哀しくひびいてくるのを背にしながら、守宮のように板戸に倚りかかって聞いている時、いつも世の中は、時雨ふる日の、さびしく、つつましい曇天だった――。冬の日の独演会の四席めには、そぞろ、高座が暗くなって、故人圓蔵のうら長い顔が、みいらのように黒くなった。私は、ひとしお、ひしと火桶を身に引き寄せては「野瀬の黒札、寄席の引き札、湯やの半札」と、可笑しき「安産」のとりあげ婆が、果てしなき札づくしを、そんな時、何にも換えがたく聞き入るのだった。そういえば、研究会の創立十六年記念演芸会(その時の番組はまだ手元にある! 大正九年四月の第四日曜で、圓蔵の「百人坊主」に山帰来の実が紅かった。小圓朝がほんとの盲かと思われるほど、さびしい「心眼」を一席談じた。小さん(柳家・三代目は「小言幸兵衛」だった)をやったのも立花なら、先代助次郎の追善もまれに大阪から圓馬が来ても。――今の馬楽の独演会は決まって、第一日曜で、いつも二十人そこそこの人が、馬楽と一緒に寂しかった!。
両国の立花家は、昼席に川蒸気の笛が烈しく聞こえた。永井荷風の著作を手にした、黒襟の美しい女たちが、どうかすると桟敷に来ていた。――はばかりへ立つ通りみちに、禿げちょろけた鏡が懸かって、「一奴、紋弥、小南」などと、当時でさえもすでに古びた、金字で芸名が書かれてあった。一奴は、今、大阪にいる立花家花橘。あれも私は、忘れかねる(ついでに言うが、路地を踏んでゆく寄席の味は、まずこの両国の立花だった。それから浅草の並木だった。ことに、雨でもふると、それがよかった。――昼席の記憶は、自分にはないが、二洲の高座もあやしく美しい思い出である。拓榴口みたいにかかれた牡丹! がらんと空いていて青い瓦斯の灯、表を流しがよく通った)。
薬師の宮松には落語研究会が、しょっちゅうあった。そこの盆の十六日に、ぎっちり詰まった二階から、仰いだ広重の空の色も、私は今に忘れられない。――宮松の庭には、拓榴があった、そうして、その頃、花が開いた。――大阪から笑福亭松鶴(四代目)がきて「植木屋の娘」というのをやった。小さんが「猫久」を「お前の魂を拝んでるんだ」より、あとを続けて、しかし一向につまらなかった。いやそれよりも、圓蔵が昔噺は「夏の医者」で、麦わら大蛇の可笑しさよ!
――ほんとうに、昼席の、やるせない薄ら明かりほど、夏といわず、秋といわず、冬といわず、しみじみと都会の哀しみを知らせてくれるものはない。
震後絶えて久しき昼席を、それでも、今年辺りからまたぽつぽつと始めたらしい。つい、この間も人形町の末広で、燕路の会というのがあった。「白木屋」や「山崎屋」や物真似や、梅にも春の芸者二十四刻の踊りを、まだ若い燕路(柳亭・四代目)は器用にやった。葭町の美しい人たちが、花のようにいっぱい集まって、私は久方で昼席のしじまのよさに涙ぐんだ。――と、相次いで立花に「稽古会」なるものが起こされると、私は、あすこのあるじから耳にした。――こうして昼席が相次いで起こってゆくのは、また、一つ、都会によきものの哀れが加わるだけでも、ほんとうにいいことだと想われる。