Chapter 1 of 4

「カチューシャ」前後

木下杢太郎氏が名詩集『食後の唄』の中の「薄荷酒」と云ふ詩の序の一節を、ちよつと読んで見て呉れないか。

「その頃聴いたのは松声会でなくて、哥沢温習会の方であつた。芝とし、芝みねなどと云ふ美声の老女もまだ微かに覚えてゐる。(中略)かかる会には美しい聴衆も多くて、飛白の羽織に小倉の袴を穿つた身の風情を恥かしいと思ふこころもあつた。やや年とつた男の人々のうちには、川柳の回覧雑誌のことを話しあうてゐるのもあつた。」(下略)ヽヽは勿論私が施したものであるが、この杢太郎氏の随筆は大正五年一月に執筆されたもので、尚この文章をおしまひまで読んでゆくと、同氏が哥沢温習会へゆき、「川柳の回覧雑誌のことを話しあうてゐる」を見たのは大正元年あたりのことらしい。

爾来数年、川柳はいよ/\市井文学として一杯に開花し、結実し、「回覧雑誌」は同人雑誌と、やがてある種のものは一般雑誌の一歩手前位まで発展していつたと見ていい。

いまその大正時代の川柳句集を翻いて見ると、流石にや活動写真の連続物、オペラ・カフエー・バー・労働問題等等、さうした大正ならではの風趣風景が、じつに続々と面白可笑しく擡頭して来る。

大正期の川柳殊に久良伎翁、剣花坊翁の作品は、大正期に入つて最頂点を劃してゐると云つてよく、就中伎翁には本格の時代味感溢るる佳吟が少くない。

桃山の方へ人魂二つ飛び久良伎 云ふ迄もなく大正改元、御大葬当夜、乃木将軍夫妻の殉死である。翁が、将軍夫妻殉死の報を耳にされるや、直ちに「人魂二つ」を聯想されたところに、いかにも江戸つ子詩人ならではの詩情がある。「人魂」と云ふもの、江戸浮世絵や草双紙の挿絵への教養深からざる限り、決して親近を感じるものではないからである。

カチューシャの合唱神楽坂を行く久良伎人形の家で 媒人 度々弱り同

佐藤義亮氏の『新潮社四十年』を読むと、島村抱月が松井須磨子と芸術座を創立して、帝劇に初公演したのは大正三年だとある。そのときの費用千円は佐藤氏から提供され、戯曲「復活」は新潮社から出版された。

「帝劇の「復活」は破れるやうな喝采であつた。抱月氏も嬉しかつたらうが、私としてもこの上ない喜びであつた。やがて「芸術座」は「復活」を持つて上野の万国博覧会にも出演したり浅草で特別興行したりして、須磨子の歌つた「カチューシャの唄」カチューシャ可愛や別れのつらさ――は、一世を風靡して、我が国流行歌史上に一大エポックを劃するに至つた」

と佐藤氏は手記されてゐる。

イプセンの「人形の家」のノラが、我が国の舞台に華やかな脚光を浴びて登場したのも、此に前後してだつたとおもふ。(いま手許に適当の新劇史がないので適確の年代が云へないが)さうして新しくノラによつて目醒めさせられた日本の若い夫人たちが、幾百人か幾千人かその「人形の家」を振り棄てようとした。

浮世絵と「三田文学」で通を振り久良伎 永井荷風先生が「三田文学」を創立されたのは『現代日本文学全集――永井荷風集』年譜によると、明治四十三年四月であり、この句の生れた大正四年には先生は往昔の清元社中の秘恋を材とした戯曲「三柏樹頭夜嵐」を同誌上に発表してゐられる。その前年一月の「三田文学」には吉井勇先生の、弥太つ平馬楽を描いた「狂芸人」が発表されてゐる。新都会趣味の、新耽美派の文学満天下に謳歌されてゐた佳き時代である。

以而、句意が分らう。

軽井沢馬へ乗つたは江木夫人久良伎マダムカハカミの頬から秋が立ち同

共に、明治大正麗人伝中の登場者である。江木衷博士夫人欣々女史は老後、大本教に帰依して自殺し、晩年太だ不幸であつたが、新派劇の総帥川上音二郎夫人貞奴は戦中も尚中熱海面に安穏に晩年を養つてゐたはずである。私は十六七歳の新年であつたから大正八、九年ころとおもふ、伎翁に連れられてそのころ神田淡路町にあつた旗本屋敷のやうな古風な黒塀を巡らした江木邸へ年始にゆき、冷酒冷肉などを饗応されて何か寄席仕込の落語を一席喋つた記憶がある。今日、寄席芸人の小説を専らに書いてゐる私はそのころから狂熱的な落語好きで、小学校の同窓会には必らずや三代目小さんの「花色木綿」、故人小勝の「廿四孝」「米屋の切腹」、故人小せんの「ハイカラ」「白銅」などをうかがつてゐた。

さてそのとき私は江木邸で何を一席演つたかおぼえてゐないが、ただ明治風の紫被布を着た欣々夫人の白粉の濃い笑顔はハツキリと眼底にのこつてゐる。私のやうな少年の目には可成のお婆さん(大へん美し過ぎるお婆さんではあつたが)に見えたけれど、やつと四十位だつたのではなからうか。或はもつと若かつたのかもしれない。マダムカハカミ――貞奴については、伊藤痴遊の「痴遊随筆(それからそれ)」の「書生芝居の回顧」に、

「川上が、世間の人気を繋ぐ事に腐心したのは実に容易ならぬものがあつて、他人の真似得ざる事まで行つて退けた。妻の貞奴と、短艇航海を敢行した一条の如きは、何の必要があつて、そんな馬鹿らしい事をやつたのか、殆んど其理由は発見し得ぬが、これも人気引留めの一策として視れば(中略)」

とあり、本郷座あたり彼女は花道の出に本物の馬に打ち乗つて颯爽と舞台へ突進したこともあつたと聞いてゐる。以而、ありし日の溌溂たる活躍振りが想像できよう。

居酒屋も一刷毛ぬつてバアになり久良伎 此は、現今の三遊亭金馬君が「居酒屋」のまくらに振り、俄然、人口に膾炙した。

同じ時代空気を漂はせたものには、

花電車菊のないのは安く見え久良伎花の日の菊に弐銭も出し憎い同

花の日のの句は大正六年の作品。大正年間の祝慶日には宴会などで幹事が胸へ差すやうな造花の菊花を、よく上流婦人が街上で売り、その売上金を以て貧困者を救ふの資とした。一個二銭何程なりとも思召に応ずると云ふのであるが、そこでこの句が生れたのである。さう云へばあの掌の上に手触り重たい二銭銅貨を見なくなつて、もう何年になるだらう。

暴動が今に来るよと眼つぱりこ久良伎暴動に石塊と云ふ天の武器同勘定を踏む気暴徒が来ればよい同なるものぢやないと糠をばはたいてる同

大正七年夏の米騒動に付いては、永井荷風先生の随筆「花火」に詳しい。

「大正七年八月半、節は立秋を過ぎて四五日たつた。年中炎暑の最も烈しい時である。井上唖々君と其頃発行してゐた雑誌花月の編輯を終り同君の帰りを送りながら神楽坂まで涼みに出た。(中略)再び表通りへ出てビーヤホールに休むと書生風の男が銀座の商店や新橋辺の芸者家の打壊された話をしてゐた。わたしは始めて米価騰貴の騒動を知つたのである。然し次の日新聞の記事は差止めになつた。後になつて話を聞くと騒動はいつも夕方涼しくなつてから始まる。其の頃は毎夜月がよかつた。わたしは暴徒が夕方涼しくなつて月が出てから富豪の家を脅かすと聞いた時何となく其処に或余裕があるやうな気がしてならなかつた。騒動は五六日つづいて平定した」(下略)

第一句の「眼ッぱりこ」と云ふ江戸弁、今に分らなくなるだらう。否、已に今日も分らなくなりかけてゐるかもしれない。甲乙丙丁、異口同眼に、目と目で肯き合ふの意味。そこに多少語調的にも内容的にも諧謔の意を含んでゐる。しかもこの場合も亦かうした洒脱な江戸弁を下五に据えて、はじめてこの騒擾の巷を描いた句はいのちを得てゐる。

宝塚百人一首から生れ久良伎 そのころの宝塚少女歌劇は「雲井浪子」「篠原浅茅」「高浜喜久子」「秋田露子」「笹原いな子」「高砂松子」「高峰妙子」「有明月子」「天津乙女」と云つた風に、ことごとく芸名が百人一首によつて命名けられてゐた。大正三年四月創始と聞くが、そのころ「新演芸」「新家庭」を発行してゐた玄文社の結城礼一郎氏らが肝煎で、始めて帝劇へ上京来演し、満都の人気を煽つたのは同七年初夏とおぼえてゐる。いつぞやも古川緑波君の結婚式席上、当日の媒灼人たる小林一三大人は来客を待つ間の東京会館休憩室で緑波君を省みて私のことを「この人は文学少年時代なか/\宝塚のフアンでね」と破顔一笑されたが全く私の遠い少年の日の夢には宝塚歌劇場の白堊の建物と、土耳古風呂の湯沸りと、武庫河のせゝらぎはのこつて消えない。あのころのことをおもふと、私は佐藤春夫の『殉情詩集』に諷はれてゐる「若人のごとく」青春的なものをおぼえずにはゐられない。

久良伎翁そのころの川柳随筆の宝塚を叙された中にも、中学生としての私の姿が面羞く描かれてあつたとおもふ。

喜歌劇に取つて付けたる笑ひやう久良伎民衆化して歌劇部は飯に付き同ソプラノへ娘はそつと付けて見る同

帝劇歌劇部解散、赤坂ローヤル館公演、ローシー帰国、かうしたオペラの歴史が、どれほどの「時間」を隔てて行はれたものか、私はしらない。

が、やがて彼らは浅草日本館へ、金龍館へ、駒形劇場へ、そこに馥郁とオペラの花々はひらいた。

清水金太郎、田谷力三、高田雅夫、沢田柳吉、伊庭孝、杉寛、戸山英二郎(藤原義江)、黒田達人(黒田謙)、木村時子、原信子、神山仙子、岩間百合子、沢モリノ、安藤文子、一条久子、相良愛子、堺千代子、河合澄子――さうした男女優たちが、華やかにその人気を諷はれだした。今日それらの男優の大半は世を去り、女優の大半はいいおばあさんになつてしまつた。「恋はやさしい野辺の花よ」の「ボッカチオ」や「岩にもたれた物凄い人は」の「ディアボロ」を高唱しつつカーボーイの帽子を冠つて、セントラルカフエーにブラジル系の珈琲を飲んで拠りどころなき情熱を燃やした私たちそのかみの「ペラゴロ」(さう呼ばれてゐた)もこんな昔噺をかけるやうになつてしまつた。

おもへば三十年の昔。私は未だそのときやつと十五歳だつた。

それにしてもこの第一句、「とつて付けたる笑ひやう」がいかにも巧緻だ。アッハハッハアッハハッハこりや可笑し」と云ふオペレット特有のあのコーラスを揶揄したものなのである。そのころ――原信子をスケッチしたのに、

立唄の頬のこけたが玉に疵久良伎

プロテアは鴉猫から思ひ付き久良伎遠くなり近くトリツク腕を見せ同大写し睫毛は筆で描いたやう同活動は戸締りのない家に住み同ダグラスは軽業までの芸も見せ同ダグラスの乗地は柵を飛び越える同岡惚れもピックフォードは罪がなし同

さうして活動写真の白熱化して来たそもそもの時代だつた。「名金」「マスターキー」「拳骨」「ハートの3」「護る影」等、等、連続探偵大活劇が競映され、例の「天国と地獄」の音楽が、必らず追駈のとき演奏された。探偵映画の主役たる美男美女ではフランシスフォード、グレースキューナードの名を一ばん華やかに記憶してゐる。必らずやこの二人が戦慄す可き大犯罪の渦心として、汎ゆる運命の手に奔弄され、グレースキューナード嬢のごとき、屡々悪漢のためがんぢがらめに縛められ危機一髪と云ふところへ、苦味走つた長身の青年フランシスフォード君颯爽と現れては愛人たるキューナード嬢を救ひだし、私たちから万雷の拍手を浴びせられたからである。第四句「戸締りのない家に」云々は、かくも驚天動地の大犯罪映画許り逐次上映されたるがための江戸つ子らしい揶揄である。「プロテア」の上映も恐らく同じころだつたらう、黒い海水着のやうなものを着た明眸の女探偵(だつたらう)が、屋根から屋根を這ひ廻つた。即ち「鴉猫」云々とある所以。第二句「遠くなり近く」は今日の移動撮影の謂だらう。ダグラス、ピックフォード物の上映は、ややそれから遅れてのことだつたとおもふ。ピックフォードへ岡惚れの青少年は、そのころ日本全国に充満してゐたことだらう。彼らは活動雑誌(映画とは未だ云はなかつた、映画の二字は本山荻舟の命名だと聞く)でピックフォードの住所を査べては怪し気な英文でラヴレターを書送り誰のサインやら分つたもんぢやないスティールをおくつてもらつては家宝とした。第六句ダグラスの「乗地」とは江戸弁で「クラヰマックス」の意味。ほんたうに彼ダグラスはあらはれいづるや直ちに大いなる竹を二、三どしごき、エイヤッと許りそれへ乗つて傍への洋館の三階の窓あたり、なんの苦もなく飛び移つていつてしまつた。ほんたうにあの離れ技は、余りにも技巧のあとがかんじられなくて溜飲三斗だつた。うちの女房など、女学生時代、ダグラスの「ドンQ」のとき、ラムネや餡パンをたべては昼飯晩飯の代りにして終日活動小屋へ入つたまま繰返し/\同一映画を見物したと云ふ。

いかにそのころダグラスフェアバンクスが全日本に持て囃されたか、以而分らう。

恋人と緑の朝の土になり久良伎 松井須磨子の自殺が大正八年一月五日であり、「抱月・須磨子、芸術比翼塚」が須磨子の菩提所である牛込多聞院へ伎翁の計らひで建てられたのが同年四月三日であると聞く。そのとき久良伎翁夫人は「恋に活き芸術に活き石に活き素梅女」の一句を献じられた。翁の比翼塚建設の真情は『川柳久良伎閑談』の芸術比翼塚に於る祭文に尽きてゐるから適宜抜萃して見よう。

「悲しい哉現代は真の勢力ある時代にして、善と美の甚感化力に乏しき時代なり。「如何にして食ふ可き乎」「如何にして自己の虚栄心を満足すべき乎」の時代に当り、人情爰に亡び、趣味の道蕩焉として日に其光を失ふ。此故に善に執する者は二氏の行動を追及して社会の風紀を紊乱する者なりと云ふ。美に囚はるる者は芸術の力の偉大なる事を説き、善の社会組織を顧みず、二者共に誤れりと云ふべし、今此芸術比翼塚は一片架空の供養塔に過ぎず、実と見れば仮なり、仮と見れば実なる趣味の片影に異ならざれ共、中に万斛の涙あり、人情の暖き血を盛りたる活物也」

要は家庭を破壊した「抱月須磨子は共葬の望」は果せぬとしても、「社会の規定」は「父の厳粛」であり「趣味文芸宗教」は「母の慈愛」であらねばならぬ。「かるが故に情海の事は情を以て解決し」度いと云ふのが、翁が建立の動機だつたのである。「緑の朝」はその前年秋、抱月死後須磨子が明治座に於て上演したダヌンツィオの戯曲だつた。

同じく須磨子当り狂言の「生ける屍」の主題歌を詠んだものに、

さすらひの唄にネンネの節があり久良伎さすらひと追分一つ畠なり同

ゆこか戻ろかオーロラの下に」の哀調には、いかさま子守唄のまた、追分節の儚いメロデイがかんじられる。

いちやつくを大村兵部睨め付け久良伎忙中閑あり魚河岸の道具店同魚河岸を出ると電車も珍しい同

すべて是れ大正年代の東京。第一句は九段大村益次郎の銅像下に於る歓会風景である。この句の中からあの辺りの青葉若葉濃やかに匂ふ闇の夜に聳り立つ巨像の姿を、目に描き得た人たちは幸福とおもふ。第二句第三句は、未だ日本橋にあつたころの魚河岸である。服部伸演ずる一心太助の喧嘩場に見られるやうな大鮪引摺つて歩く久利加羅紋々の兄イたちも歩いてゐたらう。さうして丸花の料理には未だ/\なか/\に生一本の風味がのこつてゐたらう、少くとも魚河岸を出ると電車の行くのが珍しかつたほど、河岸の中は広重ゑがく河岸の景色をそのままのこしてゐたのだ。尤もそれは蒲原有明の「朝なり」と云ふ詩を見ても肯かれるが。芥川龍之介氏の「魚河岸」と云ふごく短い小説にはあの日本橋時代の魚河岸の景色に「腥い月明りの吹かれる通りを」と鋭い描写の冴えを示してゐるが、ここでも作者自ら「現代の日本橋は、到底鏡花の小説のやうに、動きつこはないとも思つてゐた」のが、俄然、最終末に至つて「鏡花の小説は死んではゐない。少くとも東京の魚河岸には、未だにあの通りの事件も起るのである」と嘆ぜしめたほど、未だ何と云つてもあの時代の日本橋には江戸伝統の「生活」ありし日本橋が呼吸いてゐたのだ。この日本橋が非衛生だとて現今の築地へ移転されたとき、故人小勝は左のやうな警句を吐いてニヤニヤ笑つたつけ。

「日本橋の人の衛生に悪くて、築地の人の衛生にやいいンでがせうか。ちよいと皮肉に訊いて見度い」云々。

阿久沢は貧乏鬮の元祖也久良伎 たしか阿久沢邸は九段一口坂辺りにあつた。当主が一代で財をなしたは、嘗て異人館のコックをしてゐてそこの主人を殺害し、獲たものであるとか、何とかそのころいろ/\の悪評が喧しく立つた。阿久沢が悪沢と聞えたほど、凡そ東京中で不徳の名の高い邸宅だつた。未だ子供の私の耳にさへさう印象づけられてゐたのである以上、大正東京文化史の上には逸していけない大悪伝的存在のやう考へられる。尚、永井先生が御旧作「地獄の花」の黒淵は、青春をこの界隈に起居されたる先生の、この阿久沢にヒントをば得られたものではなからうか。

サボタージュどうでも江戸のものでなし久良伎 又しても永井先生の「花火」を引く。

「日比谷の公園外を通る時一隊の職工が浅葱の仕事着をつけ組合の旗を先に立てて隊伍整然と練り歩くのを見た。その日は欧洲休戦記念の祝日であつたのだ。病来久しく世間を見なかつたわたしは、此の日突然東京の街頭に曾て仏蘭西で見馴れたやうな浅葱の労働服をつけた職工の行列を目にして世の中はかくまで変つたのかと云ふやうな気がした。目のさめたやうな気がした。(中略)洋装した職工の団体の静に練り歩く姿には動かしがたい時代の力と生活の悲哀が現れてゐたやうに思はれた」

「改造」と云ひ、「解放」と云ひ労働問題をさま/″\に論評する大雑誌の次々と創刊されたもこの前後であつたらう。労資一丸となつて「生」を愉しむ江戸民族の主張を現世に実践されむと多年泣血砕心してゐられる久良伎翁にサボタージュ呪咀のこの句が生れたは当然だらう。この「江戸でなし」を単なる四畳半趣味半可通趣味から罵つてゐるものとのみ解する人々よ、堕ちて地獄の薪となれ。

綾部からかへると髪が長くなり久良伎丹波では頼光以後の騒ぎなり同

第一次大本教が流行氾濫を極め、小山内薫氏までが帰依して世論いよ/\沸騰したは、大正十年ころではなかつたらうか。丹波綾部大本教本部へ参じた人たちは、多く雲右衛門系の浪花節のごとく長髪となるもの多かつた。即ちこの句ある所以である。

未来派は安鏡から思ひ付き久良伎 赤、青、自、紫、茶、黒、金、銀、藍、鶯、その他いろ/\さま/″\の色で描かれた輪、輪、輪、輪、輪の一大乱舞、或は直線が、或は曲線が、円形が、楕円形が、長方形が、三角形が、物狂ほしく入り乱れ、飛びちがつてゐる会体のしれない構図の油絵が、そのころ二科会に数多出品されて私たちの目を驚かせた、是れ即ち未来派である。構成派の出現は震災後、超現実派の出現はさらにそれ以後の昭和へ入つてからではないかとおもふ。未来派渡来期、夭折した天才漫画家小川治平は、雑誌「女の世界」の表紙に、世にも痛快なる未来派諷刺の構図をなして私たちをして喝采せしめた。それにも劣らぬ、いやそれ以上の諷刺こそこの句とおもふ。「安鏡から」とはなんと痛快ではないか。

エルマンの手は木蓮が風にゆれ久良伎 シウマンハインク 二句

世界的呂昇三十有余貫同伴奏は小結といふ姿なり同ロシヤバレー汝元来角兵衛獅子同

そのころミッシャエルマンが、最初に来朝公演した。やがてシウマンハインクが来た。ロシヤンバレーの初渡来もこのごろであつたらしい。いづれも帝劇あたり十円廿円と云ふそのころとしては莫大の入場料で公開されたものである。伎翁はその都度それらを見学しては大正川柳史の上へ、海外の第一流芸能人の姿を一つ一つ刻み遺された。努力尊しとせずばなるまい。

牡丹に唐獅子篠懸に巡査也久良伎 はじめて街路樹に篠懸(プラタナス)が採り上げられたころ。宛かも新潮社版の翻訳小説に接したときのやう、そこに私たちは近代都市の「呼吸」を感じた。

花月園へ行かうと親治酔つてゐる久良伎ブラックを一つと息子通になり同外国の物置らしい文化村同

谷崎潤一郎氏の「東京をおもふ」には、

「私の記憶に誤まりがなければ、鶴見の花月園に横浜の外人を当て込んだダンスホールが許されたのは、たしかに大正十一年頃で、彼処へはぽつぽつ西洋婦人に見紛ふやうな服装をした日本の女が来るやうになつたが、それも大概は横浜に住んで西洋人と附き合つてゐる人々であつた」

第一句はこの時代の風俗であり、第二句もやはりそのころそろ/\流行の中心となつて来た喫茶店である。ブラック珈琲の美味さなど私たちが知りそめたのは、中戸川吉二氏の「アップルパイワン」に登場するかのカフエパゥリスタのブラジル珈琲時代が一とわたりすんだ此も震災前年ころであらうとおもふ。目白文化村の建設もそのころ彼是であつたかもしれない。鹿鳴館時代にもいや増してこの時代の日本は急速に西洋文化を移入せんと大童になつてゐたのだつた、以来つひこの事変ちかくまで。

又しても小勝を引合にだすが只管達者な雑文家だつた彼のまくらの毒舌中には可成天晴れなものがあり、就中、文化村の警句などは今にしてなか/\愉快なことを云つてゐたとおもふ。即ち曰く、

「目白から先へ行くと文化村とか云つて、南京鼠の入りさうな家がある。かう云ふ家はみんな庇がないから雨宿りができない。不人情な家をこしらへたもんだ」

襟足の白きは昔

足許へ懐へ付く世となりにけり久良伎無益委記の断髪とまで気が付かず同

「襟足の白きは昔」の前書がうれしいではないか。ほんたうに近代女性の脚線美が云々されだしたのはこの時代からだらう。

断髪の風習も亦このころ、大橋房氏(現ささきふさ女史)によつて将来された。

無益委記は恋川春町が黄表紙「楠無益委記」で、凡そそのころの流行風習と正反対のことばかし列挙して今にかう云ふ時代が来ると洒落のめしたユーモア未来記なのであるが、その未来を語ること嶄新奇抜な「楠無益委記」にして尚且、婦女子の断髪とまでは気が付かなかつたらうと云ふ詠嘆。

さう云へば断髪流行のころ、木村荘八画伯もその風俗を評した何かの随筆に、「この次は坊主か」と揶揄してゐられたをおもひだす。

安来節鰌とうとう天上し久良伎安来節兄ィすつかり悦に入り同

アラエッササの安来節は、近時また浅草木馬館楼上に再興され、なか/\の人気を煽つてゐるが、震災直前は凡そその白熱化したときだつた。さてこの安来節と云ひ、博多節と云ひ、次いで鴨緑江節、ストトン節、白頭山節と云ひ、暫しこのころの花柳界は、地方民謡を以て圧倒された。即ち翁の憤慨は左の一句となつてほとばしつたのである。

出雲から博多米山酒が冷え久良伎 さらにそのころ僅にのこつてゐた旧江戸風景の、日に/\心無しに破壊されて行くものに対しては、それ心からなる慨嘆を寄せられた。

殊に、終句の江戸の昔は瓦焼く煙りに風情一ときはなりし橋場辺りへは、翁の痛嘆がかかる諧謔の様式を探つて哀しく可笑しく表現されてゐる。

冬木弁天

水溜りらしく深川江戸があり久良伎 隅田川架橋問題

橋杭にされぬ鳥居が見付もの同 水神

蓮池の哀れ工場に囲まれる同駒形も堀も肥田子桶になり同橋一つあつて千住は江戸の儘同朝煙りそれは今戸の瓦斯会社同

剣花坊翁へ移らう。

咳一つ聞えぬ中を天皇旗剣花坊 大正天皇御大典

将門に指もさゝせぬ紫宸殿同南洋に面して据える高御座同

第一の句は殊に名高い。高番とは川柳の中での王宮や神秘の世界を主題としたものの謂であるが、剣花坊高番句中の優なるものと云つてよからう。

老獣のやうに汐留駅眠る剣花坊 汽笛一声新橋を」のその新橋駅は、今日の新橋駅の筋向ふで、いま汐留駅と名乗つてゐる。明治五年創設された大正初年の東京駅(中央ステーション)開始と共に貨物専門の駅と振り替へられてしまつた。嘗て文明開化の象徴だつたこの新橋ステーションの汐留駅は、今やまことに「老獣のやう」な眠りをつづけてゐることだらう。東京駅工事真ツ最中。益田太郎冠者作詞し、佐々紅華(だつたらうとおもふ)作曲し、日本橋の朝居丸子(此はのちの市丸勝太郎――殊に市丸の先駆をなす、しかも比較にならないほど江戸前の、美貌多才の名妓だつた!)うたふところの「サアサことだよ」と云ふ諷刺小唄をおもひだしたから、書き付けて置かう。そのころ富士山印東京レコードへ吹込まれ、ちよつと愉い曲調だつたが、いまは人余り知らないだらう。

サアサ事だよことだよ、東京のまん中に立派な停車場が、何百何十万円もかかつてできた、入口出口は電車に遠い。荷物を背負つてエッサッサ/\ ヤッコラサと着いたら汽車がでた……

字の読める芸者と云ふが少女界剣花坊さくら鍋向ひの寄席は浪花節同チンタオで儲けたらしく油ぎり同何女史を訪へば大きな腹で逢ひ同

みな大正初年の市井雰囲気である。

「少女界」と云ふ雑誌、そのころ多くに読まれてゐたものとおもはれる。どうも私の記憶にはない。馬肉屋の向ふにかかつてゐる浪花節の寄席では未だ浪曲師が椅子にテーブルと云ふ演出でなく、釈台を前にお尻をクルリと捲つて坐り、曲師の姐さんと並んで、御入来なる皆さまへ……」しがない哀調を張上げてゐたらう。でもほんたうの関東節のいのちは、あのころの方のに多分にあつたこと、拙著『雲右衛門以後』に屡々説いた。チンタオは青島。第一次欧洲戦争に於る青島陥落ときの私は未だ小学校二、三年だつた。偶偶秋の運動会の日で(十月七日とおぼえてゐるが)旧彰義隊士だつた校長先生が会果ててのち、手拭を二つ折りにした慰問袋を壇上から我々に示され、かうした慰問袋をあなた方に作らせようとおもつたが、もはやその必要がない、いま青島陥落の号外が入つたからだと云はれ、暮色蒼然たる中に一同万歳を高唱したことをおぼえてゐる。おしまひの句は後述する近藤飴ン坊の青鞜派を材とした句境と似てゐる。それにしても「何々女史」と云ふ言葉も、大正初年に漸く一般語となつたものだらう。

気分劇東儀季治に魅かされる剣花坊遠くから娘に見える歌右衛門同

東儀季治は、新劇壇の闘将鉄笛。このころ気分劇と云ふもの、はじめて日本の舞台へ移し植えられたのである。芝翫から歌右衛門になつた許りのありし日の成駒屋が、未だ/\身体が自由に動け、かう云はれながらもうそにも娘役の勤まつてゐた時代。みんな遠い/\過去のゆめとはなつてしまつた。

殺される晩 縁日で菊を買ひ剣花坊 おこの殺しや池田亀太郎事件や相馬事件の血腥い明治風景、「生首正太郎」や「閻魔の彦」や「山田実玄」や徒らに血糊沢山の書生芝居、さうしたものをへんに実感的におもはせて心魅かれる作品である。嘗て故人は、この句を有名だつた芝二本榎五人殺しを材としたものと語つてゐられたが、その五人殺しは『明治編年史』によると明治四十二年十一月の出来事である。翁はそのころ同じ二本榎に住んでゐられたので、大正年代に入つてから回想され、此を詠まれたものらしい。私はこの事件のあつたとき未だ漸く六歳だつたのであるが、のちの三菱ヶ原のお艶殺し、大正初年の小石川七人殺し、柳島四人殺し、鈴ヶ森お春殺し等と共にいまもハツキリ当時の戦慄を身内に喚び起すことができるから、余程、満都を震撼させたものと見える。『編年史』は左のごとく報道してゐる。十一月廿三日の「東京朝日新聞」であるが、

「芝区二本榎町一ノ七八郵船会社上川丸船長工藤嘉三郎方の留守宅に於て、昨暁三時頃同人の妻を始めとして二男一女と外に下女を合はせて一家五人、何者にか惨殺されたる惨事あり」云々。

此はさん/″\に迷宮入りののち大正年代に入りて真犯人逮捕された。たしか単なる物盗りであつたと記憶してゐる。尚同紙によると被害者たる妻女たかは当時三十三。即ち殺されるとしらず縁日で菊の鉢植を求めたはこの薄倖の妻女であつた。

孝行もしたが不孝ももつとした剣花坊阿母といふ言葉が要らなくなり同母のきんちやくから黒い銀貨が出た同

剣花坊翁は大正七年、その母堂の死に際会してゐる。そのときの詠である。嘗て翁は「久良伎君は川柳の美を主張し自分は川柳の真を唱へる」と云はれたさうであるが、まことにかうした真そのものの主観句には何がなし大きく胸打つ作品が少くない。そののちの作品たる、

われ昔母と貧しく四畳半剣花坊 母追憶

叱つても泣いても呉れぬ石になり同

にしても亦然りである。近ごろの俳句擬ひの、文学青年訛しの、小主観的川柳と比べみるとき、流石にこの人のは人間全体心全体身体全体でぶつかつてつくつてゐる。そこに大いなる差違があるとおもふ。

昭和九年九月十三日、翁は鎌倉建長寺内で逝去されたが、そのとき読まれた久良伎翁の弔詞の一節には、

「君無産者の為に大いに気を吐き、余は貧富協調の川柳を説く」

とあるが、まことに「真」の川柳を強調された結果、翁の川柳は社会悪を呪咀するものに多く愛誦す可き作品が見出される。

山に居る時代は来ない檻の虎剣花坊死ぬ人で儲けて桶屋ウヌも死に同大馬鹿と大人物と同じ顔同慈善家に雀の餌など救けられ同窮鳥を入れず大きな門をしめ同猿曳が死んでも猿は殉死せず同殺さずに置けば百まで安田生き同無理やりに安田閻魔へ渡される同殺す程殺される程欲しい金同どの面も下げす息子の面で来る同我子へは一つもやらぬ風船屋同此世をば我世とぞ思ふ大だわけ同いにしへの奈良の都の破戒会同人格はいいが賄賂は取りました同狂犬に病院も無くうちころし同毒へびも死に黒ねこも死んでゐる同自働車を咀へど追へど自働車は同自働車を見てだん/\に赤化する同泥よけと名づけてひとに泥をかけ同

どの句にも何か止み難い強者への反抗がある、弱者への涙がある、偽善の炬火へぶツつける力一杯の怒号である、雄叫びである。長州人であり、川柳真の主唱者たる翁は、決して久良伎翁や古川柳に於るがごとき江戸前さも、美を阻害するものにたいしてのみふりそそがれる江戸つ子の啖呵もないけれども、それ丈けにこの荒削りな憤りの声は津々浦々の誰にでもよく合点され、迎へられたことであつたと云へる。此を要するに翁の川柳は、「柳樽」と云ふ江戸正調の郷土文学からは百里も二百里も隔つた地点で、フツ/\と燃え、沸つてゐたのだ。そこにこの作家の強味と弱味とがあつたのだとも亦ハッキリ云へよう。大正末年の新興東京風景を写したものには、

住宅がによき/\生える高円寺剣花坊富士山の見えるまともに又も建ち同

があり、かの大震災直後には、

火の燃える表紙が目立つ雑誌店剣花坊焼跡の銀座通ればゆであづき同東京の火宅を出でて田端道同従容としてからかみを背負つてゐる同玄米のむすび思へば豚雑煮同

がある。

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