Chapter 1 of 9

寄席の庭

町中や庭持つ寄席の畳替龍雨 かうしたいまは絶えて見られなくなつてしまつた寄席の庭のおもかげ。いしくもそれをつたへてゐる尊い文献の一つに漱石が「硝子戸の中」の日本橋伊勢本を叙するの章りがある。全体「硝子戸の中」には講釈に関する随筆が少からず、のん/\南龍や琴凌をなのつてゐた時代の先代馬琴の読み口や、作者の生家たる牛込馬場下界隈の、年中廿人位のお客を相手に南麟と云ふ講釈師許りがかゝつてゐたさうな世にも佗びしい釈場の光景や、同じく馬場下のやつちや場の娘が貞水(恐らく先々代早川貞水だらう)と「死ぬの生きるのと」云つたと云ふ話や、随分いろいろと誌されてゐるのではあるが。

さてその伊勢本の庭については、

「高座の後が縁側で、その先がまた庭になつてゐた。庭には梅の古木が斜めに井桁の上に突き出たりして、窮屈な感じのしない程の大空が、縁から仰がれる位に余分の地面を取込んでゐた。其庭を東に受けて離れ座敷のやうな建物も見えた。(中略)長閑な日には、庭の梅の樹に鶯が来て啼くやうな気持もした」

云々。

この文章の中の「高座の後が縁側で、その先がまた庭」と云ふのは、いまのひとたちにはちよつと何のことだか分るまいが、大震災以前の釈場にはところによるといまの高座の構造とは全く別な仕組みの、つまり湯屋の番台をどうにかしたやうなこしらへものがニョポッと客席のよきところに築き上げられてゐたものだつたので、従つて出演の講釈師たちはみな客席の中にわたされてゐるながいながい歩みの板をわたつて来てはこの高座へと上がつたわけで、故人神田伯山が全盛の砌りなど浅草の金車では歩みから高座へと上り切るまで拍手の絶えなかつたことがあつたと、嘗て神田伯龍は私に談つた。金車のほかでは柳原寄りにあつた神田の小柳が私がおぼえてからの、番台式の高座だつた。いま漱石の文章の塩梅から想像して恐らくこの伊勢本の高座も亦さうだつたのではないかとおもふので、この機会にいまは絶えてなくなつてしまつたかうした高座の様式をわざ/\かいておいて見た次第だが、しかし私自身の伊勢本の記憶と云へば、稚いじぶんの冬の晩、どこのかへりだらう大叔母に手をひかれてもう半分ほど大戸を下ろしてしまつた、だか山本だかで買物をすまし、おもてへでると、世にもけざやかな寒月の下江戸茶番大一座のその名前を世にも黒々と太文字で記した招き行燈の灯のいろが恋びとの眸のやうにまたゝいてゐたほかにはないのだから、果而伊勢本の高座がその番台様式のものだつたかどうか、そのへんは誰かに質して見ないと分らない。

閑話休題――それにしてもいまは殆んどどこの寄席にも庭らしい庭がなくなつてしまつたけれども私がおぼえてからの寄席の庭ではやはり本郷の若竹だらう、客席の両側に並行してだだ長い庭があつて、向つて右側には席の名に因んでか、竹の叢りいと多かつた。左側は祠で、一番太鼓のとゞろきと共にそこへお燈明がさし入れられ、ほんのりその灯が夏萩の茂みを濡らした。「本郷若竹亭」と前書して、

夏萩や小せんおぶはれ楽屋入りの句が私にあるが、盲で腰の立たなかつた先代小せんを車夫がおぶつて楽屋入りして行く哀れの姿は、ほんたうは向つて右側の庭を通つていつたのだから、おそ夏の夜更け、病小せんの襟首冷やりと濡らしたものは、じつは夏萩ではなく丈高い若竹の葉の露であつたらう。

白き蝶来るなり昼の寄席の庭

寄席の庭や煙れるごとき藤の花

葡萄棚ありし釈場の西日かな

未だ/\私には此らの拙吟があるが、前述の金車なども猫の額ほどの小庭に、盆栽の鉢五つ六つはおかれてあつた心地がしてならない。通新石町の立花にもお稲荷さまの祠があつたし、四谷の杉大門(若柳亭)の庭も哀れに趣深かつた。「葡萄棚ありし」釈場は八丁堀の聞楽で、中風にならなかつたころの若燕が「松葉屋半七」をギツチリのお客を前に続き読みしてゐた記憶がいとゞなつかしく消えない。

さりながら此らの小庭は元より庭園法に協つたものでもなければまた庭造りが砕心の製作にかゝるものでもない。むしろその大反対のチヤチな安手なやつつけなもので、寄席の小庭のかそけさ美しさこそは、木下杢太郎氏が青春詩集「食後の唄」に、

義太夫節のびら札の

藍の匹田もすゞしげに (街頭初夏)

将た又

羽目に貼つたる浅葱刷

寄席の太夫のびら札まで (五月の頌歌)

と繰返し/\歌つてゐるビラ辰つくる巧みに季節々々の意匠をば採入れた辻びらの詩趣と共通で、それらを一顧し得る人々にしてはじめて含味鑑賞し得るところのものと云へよう。藍と薄曇美しき水だしあぶりだしの包装紙、縁日の葡萄餅屋が絵行燈の朱と萌黄と薄むらさき、大経師が店先の組上燈籠三枚続きのいのちにも似ると云つたら分るか。まことに以てしる人ぞしる市井の醍醐味至上味で、狩野派円山派アカデミイ美術の礼讃者に、貞秀が横浜絵芳藤が手遊絵さては三代広重が紫ぞ卑しき開化錦絵の下魚味感は、とこしへに風馬牛であると同じ理合でもあると云へよう。

即ちくどいやうだが、寄席の庭こそは「寄席」と云ふ一つの市井風物詩篇の中の凡そ貴重な二行三行で、到底それらなきいまの寄席は季感なき自由律俳諧の無味蕪雑にも等しいとさへあへて云ひ度い私なのである。一見どうでもいいやうに見えて、じつは古歌舞伎に於る「音羽屋」「成田屋」「大番頭」など要所々々に於る大向の懸声が、ある場合ツケや拍木や本釣り以上の綜合効果を現してゐるのに例へてもいい。その廃滅を、切に哀惜して止まない所以である。

次に四隣狭隘、持つに庭なき寄席は、入口に暗い細長い路次を用意してゐた。此がまた招き行燈の仄紅い燈火がかもしだす哀愁曲を合方にその路次の溝板踏み鳴らして行く市井風流さは格別なもので、浅草の並木、両国の立花家、本郷の岩本(のちの梅本)概ねこの路次系の寄席に属した。

さらに庭なく路次なき寄席に至つてはまた二階席の風雅建築を誇つてゐた。入るとすぐ女郎屋をおもはせる大楷子があつてそこの二階三階が、高座と桟敷とに充てられてゐる。二階にゐながらじつは階下にゐるやうで、そのくせ窓外の眺めはまた正に歴然と二階で、この倒錯感がなかなかに愉しいものだつた。神田の白梅、銀座の金沢、浅草の並木、上野の鈴本(のちの鈴本キネマのところ)はじつにこの二階席系列に属し江戸末から明治へかけての殷賑街のみに見られる艶と実益とを兼ね備へた特殊建築の味感をば、十二分にと味はせて呉れた(浅草の並木に至つては路次と二階席の風流を両ながら具備してゐたと云へる)。

此を要するに寄席の庭、路次、二階席――震災後日に/\烈しくなりまさつた泰西文化の理性反省なき模倣の大波濤は此らのいづれをも容赦なく過去の彼方へ奪ひ去つてしまつた。今次の大戦後講談落語席は復活繁栄多少の見る可きものがでて来たとは申せ、もはや佳き噺愉しき張扇の音に触るる可く、寄席に庭なく路次なくまた二階席の艶冶なきをいかゞすべきぞ。まことに是れ、雑炊食堂の大混雑裡に珍味佳肴を貪り喰ふの嘆きにして、鰻屋に乙な漬物なきも亦同様。アナトールフランスが年少の日の巴里巷間の追憶を綴つた長編小説「花咲く日」全篇を通読して以来、一そう私は、ありし日の寄席の庭への郷愁を、烈しく感じだしたものであることを、おしまひに白状しておかう。

Chapter 1 of 9