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人々に答ふ
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人々に答ふ
正岡子規
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译文 Pagera AI
原文 Public Domain
Chapter 3 of 13

三

前に挙げたる十首の歌を意味はそのままにて、言葉つきを全く改めて投書したる人(下総凡調子)有之候。この人の直し方は、極めて尋常に直したる者なれば、われらが非難したる言葉つづきの無理と厭味とを免れたれど、多くは平凡に流れ申候。その二、三を挙げんに

おもしろく雲雀さひづる中空に月影見えて日は暮れにけり

言葉つづきは安らかになりたれど善き歌ともならず。

隅田川堤の桜咲き匂ふ花の下道行きかへり見む

到底厭味を脱却する能はずと相見え申候。

山里の卯の花垣の夕月夜しのび音もらす時鳥かな

平凡になりたれどかへつて原作の細工を施したるにまされりと存候。

五百重山朝霧深み旅人の小笠の雫間なくちるなり

「旅人の」の五字を加へたるは賛成に候。結末なほ飽き足らぬ心地致候。

青海原沖さけ見ればあらしほを空にいぶきて鯨浮べり

「雨とふらせて」「雲かかる」の二句を除きたるは至極賛成なるが、これも結末に今一歩と思ふ所なきにもあらず候。さはいへどこの歌一番の出来かと存候。

或人(八王子三田村玄竜子)曰く強き歌には強き調を用ゐ、弱き歌には弱き調を用うといふもさる事ながら、『古今集』の如く同一の調にて千態万状を詠みたるもまた面白しと存候。云々。

答へて曰く、御説一理なきにもあらず、されどそは『古今集』の如き文字の巧を弄したる俗調の上にはいふべからずと存候。歌にていはば万葉調、俳句にていはば曠野調、詩にていはば『詩経』とか何とかいふ、極古き調の上において始めてしか申すべきにやと存候。極めて古雅なる調を以て詠む時は、雄壮なる事もさほどに雄壮に聞えず、優美なる事もさほどに優美に聞えず候へども、その代り凡ての物を古雅化して些の俗気を帯びざる処に一種の面白みあり、故に万葉調を以て凡百の物事を詠まんとならば大体において賛成致候。さりながら古今調を以て詠まんとならば大不賛成に候。殊に『古今集』を目して千態万状を詠みある者かの如くいはるるは心得ず候。われらの目より見れば『古今集』は一態一状を詠みたる者かと怪しまるるほどに候。

或人(同)曰く蕪村派の俳句集と盛唐の詩集とを並べたるは不倫と存候。云々。

答へて曰く、この不倫とは唐詩を以て勝れりとなす者と存候。さて如何にして不倫とは言はるるやらん。もし詩と俳句とは詩形に長短あり、従つて規模に大小あり、故に比すべからずとならば異論も無之候へども、技倆の上に大差ありとの事ならば御同意難致候。李杜王孟の如き詩人を、蕪村時代の日本に生れて俳句を作らしめたりとも、彼らが蕪村より遥に立ちまさりたる技倆ありとも信じがたく、蕪村をして盛唐に生れしめなば、一屁ツ鋒詩人にて終りたらんとも信じがたく候。乍失敬俳句を十分に研究せずして、蕪村の句も月並宗匠の句も大同小異位に思はるるには無之候哉。歌よみが歌を天下第一の如く思ふと同じく、詩人が詩を天下第一の如く思ふも珍しき事にはあらず。なるべく公平の御論を願はしく候。或人自ら屑屋と名のり「屑籠の中よりふと竹の里人の歌論を見つけ出してこれを読むにイヤハヤ御高論……」などといふやうな調子にて、長々とひやかされたる処、誠にひやかしに妙を得たる人もある者かなと感服致し候ひしに、何がさて最後に歌論中のただ一箇処に対する長々しき攻撃有之、しかも屁の如き攻撃に勢も何も抜け申候。その要領をいへば「躬恒の心あてに折らばや折らむの歌を、竹の里人は誤解せり。竹の里人は知るまいが、白菊に霜置けば赤くなるものぞ。躬恒はその赤くなりていづれを白菊とも分ちかねたる所を詠めるなり。物知らぬ奴が歌など解するはかたはらいたし」などといふにあり、誠に以て驚き入りたる解釈に候。われら庭前の白菊も年々赤くなり、歌にも白菊の紫にうつろふよし詠めれば白菊は赤くなるものと兼ねて承知致しをり候処、屑屋先生の今更高慢に説明せらるるを見れば、遼東に白頭の豕を珍しがりたる如く、屑屋先生は白菊を余り御覧なされぬ者と相見え候。さてまた「置きまどはせる」といふ語が色の変つた意に取れ可申哉。またその色の変つた菊を、心あてに折らばやなどと仰山に出掛けて躬恒が苦心して折らんとしたるにや、笑止とも何とも申様がなく候。如何に理窟好の躬恒でも斯様な説を聞いたらさぞかし困り可申候。屑屋が躬恒の弁護などするは贔屓の引倒しにや候べき。(三月二十四日)

Chapter 3 of 13
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