Chapter 1 of 3

五月も末になつてゐるのに、火鉢の欲しいほどの時候外れの寒さで、雨さへ終日降りつゞいた。

午過ぎから夜具を被つて横になつて、心を落着けようと努めてゐた馬越は、默してぢつとしてゐればゐるほど、頭の中の狂暴に堪へられなくなつた。其處等にある家具を片端から打壞すか、誰れかを打つか蹴るかしたなら、いくらか頭が輕くなりはしないかと思はれた。右へ轉んだり左へ寢返つたりしてゐたが、少しも睡りは催されなくつて、電燈の點くころになつた。

電球がぱつと赤くなると同時に、彼れは跳ね起きて、帽子も冠らずに、二階を下りて外へ出たが、心の荒れてゐるのとは打つて變つて、階子段を踏む足音も、障子や格子戸を開ける音も穩やかだつた。周圍を憚つてゐるやうに擧動が靜かだつた。が、傘に重たげに肩を掛けて行く先の定めなく其邊を歩き出した彼れは、電車や自動車の行き交ふ大通へ足を入れるのが自分ながら危險に思はれるくらゐに頭が亂れてゐる。ある新聞の取次店の前には、傘や蝙輻傘が押し合つて、角力の勝負札を見てゐた。さま/″\な批評も人々の口から出てゐた。

馬越もふと足を留めて、傘と傘との間から今日の勝負を見て、二つ三つ番狂はせと思はれるものを心に留めてから通り過ぎた。世間の事を考へるどころではない彼れも、嘗て見たことのある力士の顏形や、國技館の土俵の光景を念頭に浮べた。度外れに大きな體格をしてゐる力士を空想してゐると、彼等は肉體の力ばかりで確實に生きてゐるやうに見えて、馬越自身などは靈魂ばかりでふは/\と生きてゐるやうに思はれた。しかも彼れの靈魂は汚く黝ずんでゐて、艷も光もなかつた。

青々と繁つた並木の葉末には、電燈の光が雨にきら/\してゐる。冷たい風が傘の上にぱら/\と雫を落した。それ等の音も光も色も彼れは間違ひなく見聞きし得られる五官を具へてゐながら、自分の知りたいことの些とも分らないのが齒痒かつた。……死後の世界を知らうとか宇宙の外を知りたいとかいふやうな大それた願ひを、この頃の彼れは抱いてゐるのではないが、只目の前に起つてゐる事の眞の姿を明ら樣に知りたかつた。

で、彼れは自分の家へ歸りかけた足を轉じて、浮つかり電車に乘つた。妹に會つたつて何の甲斐もないとは思ひながら、妹の嫁いでゐる櫻田町の北川の家へ向つた。電車の内でも角力の噂がされてゐたが、電車を下りてからも、彼方此方の店先で、誰れが負けたの勝つたのと、興ありげに語られてゐた。

妹のおすぎは夕餐の支度に取り掛つてゐたが、何時の間にか茶の間の入口に突立つてゐる兄の顏が目につくと吃驚した。

「默つて入つて來るんですもの……。」と、やがて、自分の吃驚した言ひ譯して、「何處か加減が惡いの?」と、兄の目顏の普通でないのを氣遣つた。

「どうもしないさ。僕は散歩した次手に一寸寄つたのだよ。まだ夕餐は食べないけどお腹は空かないから何も御馳走しなくつてもいゝよ。」と、馬越はわざと氣輕に云つて笑ひを見せて、壁に凭れて兩脚を投げ出した。

「誰れも御馳走しようなんて云やしませんよ。家では今日歸りが遲いんださうですから、お座敷の方で煙草でも吸つて待つてらつしやい。皆んな一緒に御飯を頂きませう。」

「僕はさう愚圖々々してはゐられない。北川に會ひに來たのぢやないしね。」

「ぢや、私に會ひたくつて、雨の中をわざ/\來て呉れたのですか。珍しいわね。女と話したつて詰まらないなんてよく云つてた癖に。」

妹は悦しさうに云つて、臺所のことは下女にまかせて置いて、火鉢の側に坐つて、身内の噂をし出した。顏立ちは似てゐるとは云へ、兄の弱々しさうなのとは異つて、妹は丸々と肥つて、色艷もよかつた。

「お前に話したつて仕方がないが、おれは二三日怨靈に襲はれてゐるよ。獨りでその事を考へてると根が盡きてしまふよ。……かうしちやゐられないと思ふ。」

馬越は煙草一本吸ふ間もなく座を立たうとしたが、妹は怪訝な顏して、引き留めて、「兄さんはどうかしてるわね。心配事でもあるんならはつきり云つて御覽なさいな。」

「さう輕率に云へるこつちやない。……お前なぞは明日の日も恐れずに遊び事見たいなことばかりして暮してゐるけれど、今に頭を金槌でどづかれるやうな目に會はされるぞ。」

「どづいてやらうか。」妹は雄々しい聲で口眞似して、子供の時分よく兄達の口から出たこの田舍言葉を懷しく思ひ出しながら、「何も罪のないのに金槌なんかでどづかれちや溜らないわ。」

「さう云つて笑つてられる間が仕合せさ。」

「兄さんは何時も自分一人が苦勞してるやうなこと云つてるから可笑しいわ。私にだつて云ふに云はれない苦勞があつてよ。だけど毎日泣いたり悔んだりしてたつてはじまらないから、無理にでも面白さうにしてるんだわ。……兄さんには美術家としての苦勞があるんでせうけれど、世間の俗人には分らない藝術上の煩悶があればこそ、製作に價値が増すんぢやありませんか。」

「おれなんぞの繪が藝術も糞もあつたものか。」

馬越は投げ付けるやうにさう云つて、わざと自分を貶した。妹が一かどの鑑賞家のつもりで、兄の繪について批評めいた口を利いたり、流行の藝術的用語など使つて生意氣な議論を喋々するのを、齒の軋むほど平生厭がつてゐたのだつた。

「おれは平生だつて、自分の繪のことは些とも考へてやしない。お前はおれが屈託してゐるのを見ると、藝術の夢でも見てるやうに思つてるだらうが、そりやおれを買ひ被つてるんだぜ。」

「そんなに謙遜しなくつてもいゝわ。兄さんの繪が評判になれば私達まで肩身が廣くなるのだから、心細いことなぞ云はないで確かりして下さいな。今度の日曜ごろには新しい作品を拜見に行かうと思つてるのよ。」

「拜見に來たつて、おれはこの頃何も書いてやしないよ。部屋の中は空つぽだ。空つぽの部屋の中を、おれは布團を被つてごろ/″\轉げ廻つてるんだ」

「氣樂だわね。私も一日でもさうして氣儘にごろ/″\してゐたいと思つてゝよ。この頃は正午過ぎになると、睡くつて/\仕樣がないんですもの。でも、主人がお勤めに行つてる留守に、まさか居睡りなんかしちやゐられないわね。そこは兄さんは得だわね。寢たい時には寢て、起きたい時には起きて、北川のやうな機械的に時間に縛られて齷齪しなくつてもいゝのだから。……藝術家の不規則な生活を責めるのは沒分曉漢よ。私始終さう思つてゐるの。」

これは藝術などに些しも趣味のない兄嫁に當てつけたのだとは、馬越も直ぐに感じた。が、彼れは今の場合さういふ趣味の缺乏について妻を非難する氣が更になかつたのみか、むしろさういふ氣取つた趣味を妻が持つてゐないのをいゝ事だと思つてゐた。妹にしろ妻にしろ、自分を世間に出しては取り柄のない人間と見做して、さう見做した上で、身内のよしみで、永への愛情を寄せて呉れることを望んでゐた。自分の繪などに三文の價値も置かれなくつてもいゝから、業病で鼻が缺けて身體中から膿が出るやうになつても、愛想を盡かさぬほどの親しみを求めてゐた。

「おれがごろ/″\寢ころんでる間に何を考へてるかお前にや分るまい。」

「私が毎日家の中でまご/\してゐる間に何を考へてるかも兄さんにや分らないでせう。お互ひさまだわ。兄さんの心の活動が分らないつたつて私の無智の證據にはならなくつてよ。女は女で、いくらえらい男でも持つてゐない智惠を持つてるのよ。だから、見下げるものぢやないわ。」

妹の快活な言葉を聞けば聞くほど、馬越は二人の心と心との隔りを感じながら、「おれには見上げるものも見下げるものもありやしないよ。今日もおれは自分のこのやくざな頭を打壞したいと思つてた。」

「何で急にさう失望することが出來たの? 私にまで憚つて隱す必要はないでせう。」妹は氣遣はしげに訊いたが、顏では戲談見たいに笑ひを浮べてゐた。

「おれは泥棒した譯ぢやないし、反抗を企んでるのでもないから、お前達に隱さうと思つてやしないが。……」

「ぢや、早く仰有いな。」

「好奇心がお前の目の中に現れてる間は、おれは口へ出すことは出來ない。」

「ぢや、かう?」

妹は嚴つく口を噤んで黒瞳を相手の顏へ据ゑたが、すると、馬越はそのわざとらしい浮薄な態度にむかつとして、急に起ち上つて玄關の方へ出た。

「兄さん怒つたんですか。」

呆氣に取られて見送つて出た妹に返事もしないで馬越は外へ出た。

「おすぎの奴、おれが狂人にでもなつたかと思つてやがるだらう。そして、あまり藝術に苦心するために腦が疲れたのだなんて思つてやがるだらう。」と、暫らくして、先つき妹に對して無用な口を利いたり焦々した素振を見せたりしたことを後悔した。

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