Chapter 1 of 3

此の日も周三は、畫架に向ツて、何やらボンヤリ考込むでゐた。モデルに使ツてゐる彼の所謂『平民の娘』は、小一時間も前に歸ツて行ツたといふに、周三は尚だ畫架の前を動かずに考へてゐる。何を考へてゐたかといふと、甚だ漠然としたことで、彼自身にも具體的に説明することは出來ない。難然考へてゐることは眞面目だ、少し大袈裟に謂ツたら、彼の運命の消長に關することである。

『平民の娘』お房は、單にモデルとして彼の眼に映ツてゐるのでは無い。お房は彼の眼よりも心に能く映ツた。

お房が周三のモデルになつて、彼の畫室のモデル臺に立つやうになツてから、もう五週間ばかりになる。面も製作は遲々として一向に捗取らぬ。辛面影とひなたが出來た位のところである。兀も周三は近頃恐ろしい藝術的頬悶に陥ツて、何うかすると、折角築上げて來た藝術上の信仰が根底からぐらつくのであツた、此のぐらつきは、藝術家に取りて、最も恐るべき現象で、都ての悦も満足も自負も自信も、悉く自分を去ツて了ツて、代に恐怖が來る。其所で臆病となる。そして馬鹿にえらいと思ツてゐた自分が、馬鹿にけちなつまらない者になツて了ツて、何にも爲る氣が無くなツて了ふ………爲る氣が無いのでは無い、自分の力では手も足も出ないやうに思はれるのだ。でも此様な筈では無かツたがと、躍起となツて、行る點まで行ツて見る、我慢で行ツて見る。仍且駄目だ。頭で調子が出て來ない。揚句に草臥れて了ツて、悲観の嘆息だ。此の時位藝術家の意久地の無いことはあるまい、幾らギリ/\齒を噛むだと謂ツて、また幾ら努力したと謂ツて、何のことはない、破けたゴム鞠を地べたに叩付けるやうなもので何の張合もない。たゞ心細くなツて、莎薀してゐるばかりだ。周三には此の恐怖時代が來た。

自體周三が、此の繪を描き始めた時の意氣込と謂ツたら、それはすばらしい勢で、何でもすツかり在來の藝術を放擲ツて、新しい藝術に入るのだと誇稱して、其の計畫も抱負も期待も大したものであツた。で其の準備からして頗る大仰で、モデルの詮索にも何の位苦心したか知れぬ。そうしてモデル屋の持ツて來るモデルもモデルも片ツ端から刎付けて、或る手蔓を得てやツとこさ自分で目付け出したモデルといふのが即ちお房であツた。お房は顔立なら體格なら、殆んど理想的のモデルだ。一體日本の婦の足と來たら、周三等の所謂大根で、不恰好に短いけれども、お房の足はすツと長い、從ツて背も高かツたが、と謂ツて不態な大柄ではなかツた。足の形でも腰の肉付でも、または胴なら乳なら胸なら肩なら、總べて何處でもむツちりとして、骨格でも筋肉でも姿勢でも好く整ツて發育してゐた。加之肌が眞ツ白で滑々してゐる。そして一體にふくよかに柔かに出來てゐる、而も形に緊ツたところがあツたから、誰が見ても艶麗な美しい體であツた。着物を着てゐる姿も好かツたが、裸になると一段と光を増した。それから顔だ。顔は體程周三の心を動かさなかツたが、それでも普通のモデルを見るやうなことは無かツた。第一血色の好いのと理合の濃なのとが、目に付いた。次に綺麗な首筋、形の好い鼻、ふツくりした頬、丸味のある顎、それから生際の好いのと頭髪に艶のあるのと何うかすると口元に笑靨が出來るのに目が付いた。そして一目見ると直に、少しあけツ放しの點のある代には、こせつかぬ、おツとりとした、古風な顔立であることを見て取ツた。併し一番に氣に適ツたのは、眉と眼で、眉は單温順にのんびりしてゐるといふだけのことであツたが、眼には一種他を魅する強い力があツた………とは謂へ他の胸を射すやうな烈しい光の閃くのでも何でもない。何方かと謂へば、落着ついた、始終 柔な波の漂ツてゐる内氣らしい眼だ。何か見詰めてでもゐると、黒瞳が凝如と据ツてとろけて了ひそうになツてゐる………然うかと思ふと、伏目に物など見詰めてゐて、ふと頭を擡げた時などに、甚く狼狽えたやうな、鋭敏な作用をすることがある………例へば何か待焦れてゐて、つい齒痒くなツて、ヂリ/″\してならぬと謂ツた風に騒ぎ出す。其様な場合には、瞼のはれぼツたい故か、層波目が屹度深く刻み込まれて、長い晴毛の下に濕を持つ。そして裡に燃えてゐる熱が眼に現はれて來るのでは無いかと思はせる。一體皆の長い、パツチリした眼で、表情にも富むでゐた。雖然智識のある者と智識のない者とは眼で區別することが出來る。お房のは確に智識の無い側の眼で、明かに感情の放縱なことを現はしてゐた。眼も然うだが、顏にも姿にも下町の匂があツて、語調にしろ取廻にしろ身ごなしにしろ表情にしろ、氣は利いてゐるが下卑でゐる。姿にしても其通だ、奈何にもキチンと締ツて、福袢の襟でも帯でも、または着物の裾でもひツたり體にくツついてゐるけれども、些とだツて氣品がない。別の言でいふと、奥床しい點が無いのだ。加之顏にも弛むだ點がある、何うしても平民の娘だ。これが周三に取ツて何となく物足りぬやうに思はれて、何だか紅い匂の無い花を見るやうな心地がするのであツた。併し其様なことはモデルに使ふに何んの故障も差支も無い。

周三は、此のモデルを得て、製作熱を倍加した。屹度藝術界を驚かすやうな一大傑作を描いて見せると謂ツて、恰で熱にでも罹ツたやうになツて製作に取懸ツた。そして寢床に入ツても、誰かと話してゐるうちにも、また散歩してゐる時、色を此うして出さうとか、人物の表情は此うとか、斷えず其の製作に就いてのみ考えてゐた。時には出來上ツた繪を幻のやうに眼前に泛べて見て、獨でにツこりすることもあツた。何しろ腕一杯のところを見せて、少くとも日本の洋畫界に一生面を開かうといふ野心であツたから、其の用意、其の苦心、實に慘憺たるものであツた。而も其の覗ツたところは、彼自ら神來の響と信じてゐたので、描かぬ前の彼の元氣と内心の誇と愉快と謂ツたら無かツた。彼の頭に描かれた作品は確に立派なものであツたのだ。

ところが去來取懸ツて見ると、些とも豫期した調子が出て來ない。頭の中に描かれた作品と、眼前に描出される作品とは鉛と鋼鉄ほどの相違がある。周三は自分ながら自分の腕の鈍なのに呆返ツた。で取り懸からもう熱が冷める、興が無くなる、心から嫌氣が浸して了ツた。然うなると、幾ら努力したと謂ツて、いたと謂ツて、何の役にも立ちはしない。で、たゞ狼狽する、要するに意氣鎖沈だ。自分ながら自分の藝術の貧しいのが他になる、憐に對してまた自分に對して妄と不平が起る。氣が惓ンずる、悶々する、何を聞いても見ても味氣ない。謂はゞ精神的監禁を喰ツたやうなもので、日光を仰ぐことさへ出來なくなツて了ふ。此うなツては、幾らえらい藝術家も、柳に飛付かうとする蛙にも劣る………幾ら飛付かうとして躍起になツたからと謂ツて取付くことが出來ない。それでも思切ツて其の作を放擲ツて了うことが出來ぬから、何時までも根氣好く無駄骨を折ツてゐる、そして結局情なくなるばかりだ。情なくなツても執着が強いから、何うにかしてでツち上げやうと思ふ。それで周三は、毎日畫架に向ツて歎息ばかりしてゐながら、定期の時間だけ丁と畫室に入ツて、バレツトにテレビン油に繪具を捏返してゐた。お蔭で繪は一日々々に繪になツて來る、繪に成るに從ツて其れが平凡となる、時には殆んど調子さへ出て居らぬ劣惡な作のやうに思はれることもあツた。畫題は『自然の心』と謂ツて、ちらし髪の素裸の若い婦が、新緑の雑木林に圍はれた泉の傍に立ツて、自分の影の水面に映ツてゐるのを瞶ツてゐるところだ。其の着想が既に舊いロマンチツクの芳を帶びてゐる、何も新しいといふほどの物でもない。加之色なら圖柄なら、ただ暖く見せる側の繪といふことが解るだけで、何處に新機軸を出したといふ點が無い。周三の覗ツた的はすツかり外れた。外が外れたばかりでない、自分の技能が自分の思ツてゐた半分も出來て居らぬことを證據立てられた。此の場合に於ける藝術家は、敗殘困憊の將軍である。失望と煩悶とがごツちやになツて耐へず胸頭に押掛ける………其の苦惱、其の怨、誰に訴へやうと思ツても訴へる對手がない。喧嘩は、獨だ。悪腕を」]すれば、狂人だと謂はれる。爲方がないから、ギリ/\齒噛をしながらも、強い心でおツ耐へてゐる。其れがまた辛い。其の辛いのを耐へて、無理に製作を續ける。軈がて眼が血走ツて來、心が惑亂する。其の惑亂した心が繪に映るから何うしたツて思ふ壺に嵌ツて來ない。加之單に此の藝術上の煩悶ばかりではない。周三には、他にも種々の煩悶があつて、彼を惱ましている。これがまた彼の心を他へ誘かして、幾分其の製作を妨げてゐる。無論藝術家が製作に熱中してゐる場合に、些としたひつかゝり氣懸があつても他から想像されぬ位の打撃となる。況して周三のは、些としたひつかゝりや輕い意味のそれでは無い。彼に取ツては熟慮深考せなければならぬ大問題がある。

ひつかゝりの一つは、現に彼の眼前に裸体になつてモデル臺に立つているお房だ。お房は、幾らかの賃銭で肉體の全てを示せてゐるやうな賤しい女だ。周三とても其れをすら職業は神聖と謂ふほどの理想家ではなかつた。賤しい女であるといふことは知り拔いてゐる………だから蔭では平民の娘と謂つてゐる。雖然顏の寄麗なのと、體格の完全してゐるのと、おつとりした姿と、美しい肌とに心を魅せられて、賤しいといふ考を忘れて了ふ。そしてモデルとして周三の氣に適つたお房は、肉體美の最も完全なものとして周三の心の空乏を充すやうになつた。所詮周三がお房を懌ぶ意味が違つて、一個の物體が一人の婦となり、單純は、併し價値ある製作の資料が、意味の深い心の糧となつて了つた。そして冷靜な藝術的鑑賞は、熱烈な生理的憧憬となつて、人形には魂が入つた。何も不思議はないことだらう。周三だつて人間である。決して超凡の人では無い………としたら、北側のスリガラスの天井から射込む柔かな光線………何方かと謂へばノンドリした薄柔い光で、若い女の裸體を見てゐて、それで何等の衝動が無いといふことはあるまい。成程美術家には若い女を裸體にして熟視するといふ特權があるから、何も其の裸體が珍らしいといふので無い。雖然お房は、周三が是迄使つたモデルのうちで優れて美しい………全て肉體美の整つてゐる女である。それで魔あつて誘かすやうに、其の柔な肉付に、艶のある頭髪に、むつちりした乳に、形の好い手足に心を引き付けられた。そして其の肌の色==と謂つても、ホンノリ血の色が透いて處女の生氣が微動してゐるかと思はれる、また其の微動している生氣を柔にひツくるめて生々しく清な肌の色==花で謂つたら、丁度淡紅色の櫻草の花に髣髴てゐる、其の朋の色が眼に付いてならぬ。加之女の匂……しつこい油の匂とごツちやになツたやうな一種動物性の匂が、何かの機に輕く鼻を刺戟する。其にもまた心が動く。何しろ畫室は、約束通りに出來てあるから、四方密閉したやうになつてゐる。暖爐を焚く頃ならば、其の熱で嚇々とする、春になれば春の暖氣で蒸すやうにむつとする。加之空氣も沈靜なら光もしんめりしてゐて、自分の鼓動、自分の呼吸さへ微に耳に響く………だから、眼前に据ゑて置く生暖い女の氣もヤンワリ周三の胸に通ふ。そして氣になる位心悸が亢進して、腕のあたりに汗がジメ/\することもあツた。然うなると周三は遉がに内を顧みて心に慚づる、何だか藝術の神聖を穢がすやうにも思はれ、またお房に藝術的良心を腐蝕させられるやうにも感ずる。同時に「自我」といふものが少しづゝ侵略されて行くやうに思はれた。これは最初の間で、少時經つとまた別に他の煩悶が起つた。始め何の爲に悶々するのか解らなかツたが、軈がて其の因がハツキリ頭に映ツて來る。周三は、お房の其の美しい肌が處女の清淨を保ツてゐるか何うかといふこと、設また其の肌が清淨を保ツてゐるにしても、其の心は何者かに汚されてゐはせぬかといふことが氣に懸つて來たのであつた。そして此の氣懸が際限も無く彼を惱す。で何うかすると呆返つたやうに、

『何だつて其様なことを氣にする………清淨であつたツて無いたツて、何でもありやしない。モデルにするに些とも差支はありやしない!』と打消して見る。雖然駄目だ。仍且氣に懸ツてならぬ。そして惱む。幾ら美術家でも、女の心まで裸體にして見る權能がないから爲方が無い。

併し其の氣懸は、少時すると打消されて了ツた。打消されたのではない、忘れたのだ。段々と馴れて來るに從ツて、お房は周三に種々な話を仕掛けるやうになツた。而ると其の聲がまた、周三の心に淡い靄をかけた。少し甘ツたるいやうな點はあツたけれども、調子に響があツて、好く徹ほる、そして優しい聲であツた「恰で小鳥が囀ツてゐるやうだ。」と思ツて、周三は、お房の饒舌ツてゐるのを聞いてゐると、何時も惚々として了ふ。處へもツて來て、一日々々に嬌態を見せられるやうになツて行くのだから耐らぬ。周三がお房を詮議する眼は一日々々に寛くなツた。そして放心其の事を忘れて了ツた。

而るとまた次の氣懸が起ツて來た。其は假りにお房に手を握る資格のあるものとして、果してお房が手を握らせて呉れるかどうかといふ氣懸だ。無論臆病な氣懸である。雖然彼は永い間此の氣懸に惱まされてゐた。で、何のことは無い、ガラス越に花を見るやうな心地で、毎日お房を眼前に据えて置きながら悶々してゐた。彼は此の齒痒いやうな惱のために何程惱まされたか知れぬ。併し案じるよりも生むが易い。其の後お房は些とした機會に雑作なく手を握らせて呉れた。雖然、其の製作は相変らず捗取らぬ。そして少し逆上せ氣味となツた彼は、今度は「手を握りたお房を何うする?」といふことに就いて考へた。固より一時の出來心や、不圖した氣紛では無かツたのであるから、さて是れが容易に解決される問題で無い。第一妻として迎へ取るには餘りに身分の懸隔がある。家庭は斷じて此の結婚を峻拒する。假に家庭の事情を打破ツて、結婚したとしてからが、お房が美術家の妻として、また子爵家の夫人として品位を保ツて行かれるかどうかといふことが疑問である。いや、恐らく其は不可能のことゝ謂はなければならぬ。と謂つて周三は、人權を蹂躪して、お房を日蔭者にして圍ツて置くだけの勇氣も無かツた。これがまた新しい煩悶となツて、彼を惱ませる。

「一體俺はお房を何うする積なんだ。」

解らない。何うしても解決が付かぬ。

處で周三が家庭に於ける立場である。自體彼は子爵勝見家に生まれたのでは無い。成程父子爵は、彼の父には違ないが、母夫人は違ツた間だ。彼は父子爵の妄の]腹に出來た子で、所謂庶子である。別な言でいふと零れ種だ。だから母夫人の腹に、腹の違ツた兄か弟が出来てゐたならば勝見家に取ツて彼は無用の長物であツたのだ。また父子爵にしても彼を引上げて、子爵家の繼嗣とする必要が無かツたのであツた。雖然子爵夫人に子の無いといふ一ツの事件が、偶々周三を子爵家の相續人とすることにした。此の相續人になツた資格の裏には、種馬といふ義務が擔はせられてゐた。それで彼が甘三四と]なると、もう其の候補者まで作へて、結婚を迫まられた。無論周三は、此の要求を峻拒した。そこで父と衝突だ。父はもう期限が來たからと謂ツて嚴しく義務の實行を督促する、周三は其様な義務を擔はせられた覺は無いと頭を振通す。一方で家の爲といふのを楯にすれば、一方では個人主義を振廻す。軈がては親は子に對つて、不孝なるやくざ者と罵る、子は親に對つて、無慈悲な驅だと毒吐く。而も争論は何時も要領を得ずに終つて、何時までも底止なく同じことを繰返されてゐるのであツた。そしてグヅグヅの間に一年二年と經過して今日となツた。今日となツては、父子爵は最早猶豫して居られぬと謂ツて、猛烈な勢で最後の決心を促してゐる。で是等の事情がごツちやになツて、彼の頭にひツかゝり、絡ツて激しい腦神經衰弱を惹起した。それで唯氣が悶々して、何等の踏切が付かぬ。そして斷えず何か不安に襲はれて、自分でも苦しみ、他からは凋むだ花のやうに見られてゐるのであツた。

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