Chapter 1 of 6

晋の宗懍の『荊楚歳時記』註に魏の董の『問礼俗』に曰く、正月一日を鶏と為し、二日を狗と為し、三日を羊、四日を猪、五日を牛、六日を馬、七日を人と為す。正旦鶏を門に画き、七日人を帳に帖す、今一日鶏を殺さず、二日狗を殺さず、三日は羊、四日は猪、五日は牛、六日は馬を殺さず、七日刑を行わず(人を殺さず)またこの義なり云々。旧く正旦より七日に至る間鶏を食うを忌む。故に歳首ただ新菜を食い、二日人鶏に福施すとありて、正月二日の御祝儀として特に人と鶏に御馳走をしたのだ。『淵鑑類函』一七に『宋書』に曰く、歳朔、常に葦莢、桃梗を設け、鶏を宮および百司の門に磔し以て悪気を禳う。『襄元新語』に曰く、正朝に、県官、羊を殺してその頭を門に懸け、また鶏を磔してこれに副う。俗説以て気を厭すと為す。元以て河南の伏君に問う、伏君曰く、これ土気上升し、草木萌動す。羊、百草を齧み、鶏五穀を啄む。故にこれを殺して以て生気を助くと。元旦から草木が生え出すを羊と鶏が食い荒すから、これを殺して植物の発芽を助くというのだ。『琅邪代酔編』二に拠れば、董の元日を鶏、二日を猪などとなす説は、漢の東方朔の『占年書』に基づいたので、その日晴れればその物育ち、陰れば災いありとした。例せば元日晴れれば鶏がよく育ち、二日曇れば豚が育たぬなどだ。さて正月八日は穀の日で、この日の晴曇でその年の豊凶が知れるという説もあったそうだ。宋の元英の『談藪』には道家言う、鶏犬を先にして人を後にするは、賤者は生じやすく貴者は育しがたければなりとある。漢の応劭の『風俗通』八を見ると〈平説、臘は刑を迎え徳を送る所以なり、大寒至れば、常に陰勝つを恐る、故に戌日を以て臘す、戌は温気なり、その気の日を用いて鶏を殺し以て刑徳を謝す、雄は門に著け雌は戸に著け、以て陰陽を和し、寒を調え水に配し、風雨を節するなり、青史子の書説、鶏は東方の牲なり、歳終り更始し、東作を弁秩す、万物戸に触れて出づ、故に鶏を以て祀祭するなり〉と載せ、〈また俗説、鶏鳴まさに旦せんとす、人の起居を為す、門もまた昏に閉じ晨に開き、難を扞ぎ固を守る、礼は功に報るを貴ぶ、故に門戸に鶏を用うるなり〉。これは鶏は朝早く鳴いて人を起し門戸を守る大功あれば、その報酬として鶏を殺し門戸に懸くるというので、鶏に取っては誠に迷惑な俗説じゃ。蔡の『独断』に、臘は歳終の大祭、吏民を縦って宴飲せしむ。正月歳首また臘の儀のごとしとある。件の『風俗通』に出た諸説を攷えると、どうも最初十二月の臘の祭りの節、鶏を殺して門戸に懸けたのが後に元日の式となった事、ちょうど欧州諸国で新年の旧式が多くクリスマスへ繰り上げられたごとし。しかるに〈古はすなわち鶏を磔す、今はすなわち殺さず、また、正月一日、鶏鳴きて起き、まず庭前において爆竹し、以て山悪鬼を辟く云々。画鶏を戸上に帖し、葦索をその上に懸け、桃符をその傍に挿む、百鬼これを畏る〉と『荊楚歳時記』に載せ、註に董いわく、今正臘の旦、門前、烟火桃神を作し、松柏を絞索し、鶏を殺して門戸に著け、疫を追うは礼なり。『括地図』にいわく、桃都山に大桃樹あり、盤屈三千里、上に金鶏あり、日照らせばすなわち鳴く。下に二神あり、一を鬱、一を塁と名づく、並びに葦の索を執って不祥の鬼を伺い、得ればすなわちこれを殺すと。『風俗通』八に黄帝書を引いていわく、上古の時、荼と鬱てふ昆弟二人、能く鬼を執らう。度朔山上の章桃樹下に百鬼を簡閲し、道理なく妄りに人の禍害を為す鬼を、荼と鬱と、葦縄で縛りて虎に食わす。故に県官常に臘除夕を以て桃人を飾り、葦索を垂れ、虎を門に画くとあり。桃人は『戦国策』に見える桃梗で、〈梗は更なり、歳終更始す、介祉を受くるなり〉とあれば、年末ごとに改めて新しいのを門に懸けた桃木製の人形らしく、後には単に人形を画いて桃符といったらしい。和漢その他に桃を鬼が怖るるてふ俗信については『日本及日本人』七七七号九一頁に述べ置いた。

そこに書き洩らしたが加藤雀庵の『囀り草』の虫の夢の巻に、千住の飛鳥の社頭で毎年四月八日に疫癘を禳う符というを出すに、桃の木で作れり、支那に倣うたのだろうとある。『本草図譜』五九に田村氏(元雄か)説とて、日本で桃で戸守り符を作る事なき由を言えるも例外はあったのだ。さて桃木製の人形が人を画いた桃符に代ったと斉しく、鶏を磔に懸けたのが戸上に画鶏を貼り付けるに変わったのじゃ。何のために鶏を殺したかは、後に論ずるとして、鶏に縁厚い酉歳の書き始めに昔の支那人は元日に鶏を磔にしたという事を述べ置く。

それから『荊楚歳時記』から引いた元旦の式を述べた上文、〈以て山悪鬼を辟く〉の次に、〈長幼ことごとく衣冠を正し、次を以て拝賀し、椒柏酒を進め、桃湯を飲み屠蘇を進む云々、各一鶏子を進む〉とあって、註に『周処風土記』に曰く、正旦まさに生ながら鶏子一枚を呑むべし、これを錬形というとある。鶏卵を呑んで新年の身体を固めたのだ。それから『煉化篇』を案ずるにいわく、正旦鶏子赤豆七枚を呑み瘟気を辟くとあるが、鶏卵七つも呑んでは礼廻りの途上で立ちすくみになり、二日のひめ始めが極めて待ち遠だろうから直ちに改造と出掛けたものか、『肘後方』には元旦および七日に、麻子、小豆、各十四枚を呑めば疾疫を消すとあって、卵は抜きとされおり、梁の武帝、厳に動物食を制してより、元旦に鶏卵を食うは全廃となったとある。

鶏卵をめでたい物とする事西洋にも多い。グベルナチス伯の『動物譚原』二巻二九一頁にいわく、鶏卵天にありては太陽を表わす。白い牝鶏は金の雛を産むとて特に尊ばる。イタリアのモンフェラトではキリスト昇天日に新しい巣で生まれた卵は胃と頭と耳の痛みを治し、麦畑に持ち往けば麦奴の侵害を予防し、葡萄園に持ち往けばその葡萄が霰に損ぜずと信ぜらる。復活祭の節、キリスト教徒が鶏卵を食い相贈遺するに付いて、諸他の習俗、歌唄、諺話、欧州に多いが、要するに天の卵より雛の生まれ出るにキリストの復活を比べ、兼ねて春日の優に到ると作物の豊饒を祝うたのだ。古ギリシアやインドの創世紀は金の卵に始まり、世界は金の卵より動き始め、動くは善の原則たり、光明あり労働し利世する日は金の卵に生ず、故に一日の始めに卵を食うは吉相で、ラテン語の諺にアブ・オヴォ・アド・マルム(善より悪へ)というはもと卵より林檎への義だ。古ラテン人は食事の初めに煮固めた卵、さてしまいに林檎を食ったので、今もイタリアにその通り行う家族多し、また古ギリシアの諺にエキス・オウ・エキセルテン、卵より生まるというは絶世の美人を指したので、その由来は、大神ゼウスがスパルタ王ツンダレオスの妻レーダに懸想し、天鵞に化けてこれを孕ませ二卵を産んだ。その一つから艶色無類でトロイ戦争の基因たるヘレネー女、今一つから、カストルとポルクスてふ双生児が生まれたからだとあるが、天鵞形の神に孕まされて生んだ卵は天鵞卵で鶏卵でなかろう。何に致せグベルナチス伯の言のごとく、世界は金の卵から動き始める理窟だから、金の卵の噺から書き始めようとしても、幾久しく聞き馴れた月並の御伽噺にありふれた事では面白からず、因って絶体絶命、金の卵の代りにキンダマ譚からやり始める。

けだし金の卵とキンダマ、国音相近きを以てなるのみならず、梵語でもアンダなる一語は卵をも睾丸をも意味するからだ。支那でも明の劉若愚の『四朝宮史酌中志』一九に内臣が好んで不腆の物を食うを序して、〈また羊白腰とはすなわち外腎卵なり、白牡馬の卵に至りてもっとも珍奇と為す、竜卵という〉。『笑林広記』に孕んだ子の男女いずれと卜者に問うに、〈卜し訖りて手を拱いて曰く、恭喜すこれ個の卵を夾むもの、その人甚だ喜び、いわく男子たること疑いなし、産するに及びてかえってこれ一女なり、因って往きてこれを咎む、卜者曰く、これ男に卵あり、これ女これを夾む、卵を夾む物あるは女子にあらずして何ぞ〉。睾丸を卵と呼んだのだ。グベルナチス伯曰く、古ローマ人の迷信に牝鶏が卵を伏せ居る最中に雷鳴すれば、その卵敗れて孵らずと、プリニウス説にこれを防ぐには卵の下草の下に鉄釘一本、または犁のサキで済い揚げた土を置けば敗れずと、コルメラは月桂の小枝とニンニクの根と鉄釘を置けと言った。これ電を鉄製の武器とし、また落雷の際、硫黄の臭あるより、似た物は似た物で防ぐてふ考えから、釘と硫黄に似た臭ある枝や根で防ぎ得としたのだ。今もシシリーでは牝鶏が卵を伏せ居る巣の底へ釘一本置きて、未生の雛に害あるすべての騒々しい音を、釘が呼び集め吸収すると信ず。さて珍な事はインドの『委陀』に雷神帝釈を祈る偈あり「帝釈よ、我輩を害するなかれ、我輩を壊るなかれ、我輩の愛好する歓楽を取り去るなかれ、ああ大神よ、ああ強き神よ、我輩のアンダ(睾丸または卵)を潰すなかれ、我輩腹中の果を破るなかれ」と。これは帝釈は自分去勢されたが(帝釈雄鶏に化けて瞿曇仙人の不在に乗じ、その妻アハリアに通じ、仙人詛うてその勢を去った譚は前(別項猴の話)に出した)、雷、震して人を去勢し能うとインド人は信じたのだと。わが邦でも落雷などで極めて驚くと睾丸釣り上がると言うが、インドでは釣り上がるどころか天上して失せおわるとしたのだ。件の偈は牝鶏が卵を雷に破らるるを惧れて唱うるようにも、男子が雷に睾丸を天まで釣り上げらるるを憂いてのようにも聞える。実に人間に取ってこれほど大事の物なく、一七〇七年にオランダで出版したシャール・アンションの『閹人論』はジュール・ゲイの大著『恋愛婦女婚姻書籍目録』巻三に出るが、余が大英博物館で読んだアンションの『閹人顕正論』は一七一八年ロンドン刊行で、よほど稀覯の物と見え、右の目録にも見えぬ。因って全部二百六十四頁を手ずから写し只今眼前にある。これはオランダ板の英訳かまたまるで別書か目下英仏の博識連へ問い合せ中だ。十八世紀の始め頃欧州で虚栄に満ちた若い婦女が力なき老衰人に嫁する事荐りなりしを慨し、閹人の種類をことごとく挙げて、陽精涸渇した男に嫁するは閹人の妻たるに等しく何の楽しみもなければ、それより生ずる道徳の頽敗寒心すべきもの多しとて、広く娶入り盛りの女や、その両親に諭した親切至れる訓誡の書だ。著者アンションは宗教上の意地より生国フランスからドイツへ脱走し、プロシャで重用され教育上の功大いに、また碩儒ライブニツと協力してベルリン学士会院を創立した偉人で、その玄孫ヨハン・アンションも史家兼政治家として人物だった。その『閹人顕正論』の四二頁已下にいわく、十一世紀にギリシア人、イタリアのベネヴェント公と戦い、甚くこれを苦しめた後、スポレト侯チッバルドこれを援けてギリシア軍を破り、数人を捕えこれを宮してギリシアの将軍に送り、ギリシア帝は特に閹人を愛するからこれだけ閹人を拵えて進ずる、なおまた勝軍して一層多く拵えて進ぜようと言いやった。その後また多くギリシア人を虜して一日ことごとくこれを宮せんとす。爾時その捕虜の一妻大忙ぎで走り込み、侯と話さんと乞うた。侯その女に何故さように泣き叫ぶかと問うと、女対えて「わが君よ、君ほどの勇将がギリシアの男子が君に抵抗し能わざるに乗じ、か弱き女人と戦うて娯しまんとするを妾は怪しむ」といった。侯昔女人国が他国の男子と戦うた以来かつて男子が女子と戦うたと聞かぬというと、ギリシア婦人いわく「わが君よ、妾らの夫にある物あって妾輩に健康と快楽と子女を与う。その大事の物を夫の身より奪い去るとは、世にこれほど女人と戦い苦しむる悪業またあるべきや、これ夫を宮するならず実に妾輩を去勢するに当る。過ぐる数日間わが蔵品家畜を君の軍勢に多く掠められたが苦情を述べず」と言いさして侯の面を見詰め、「心安い多くの婦人から奪われた大事の物の紛失は癒すに術なきを見てやむをえず、勝者の愍憐を乞いに来ました」と、この質直な陳述を聴いていかでか感ぜざらん、大いに同情してその女に夫ばかりか掠奪物一切を還しやったとあれば、他の捕虜どもは皆去勢されたので「高縄の花屋へ来るも来るも後家」、「痛むべし四十余人の後家が出来」とある。亭主に死に別れたは諦めも付こうが、これはまた生きながら死んだも同然の亭主の顔を見るたびに想い出す、事実上の後家が大勢出来たのだ。さて彼女が夫を伴れ去らんとするに臨み、侯呼び還して、今後また汝の夫が干戈を執ってわが軍に向わばどう処分すべきやと尋ねると、女大いにせき込んで「眼も鼻も手足もわが夫の物なれば罪相応に取り去られよ、夫の身にありながら妾の専有たる大事の物は必ず残してくだされ」と、少しの笑顔も悪からず、あぶないぞえと手を採って導き帰るぞ哀れなるとある。

昔趙人藺相如が手に鶏を縛るの力なくして、秦廷に強勢の昭王をやりこめ天下に二つとない和氏連城の玉を全うして還ったは、大枚の国費で若い女や料理人まで伴れ行き猫の欠ほどの発言も為し得なんだ人物と霄壌だが、このギリシア婦人が揚威せる敵軍に直入して二つしかないその夫の大事の玉を助命して帰ったは、勇気貞操兼ね備わり、真に見揚げたとまで言い掛けたが、女を見揚ぐるはどこぞに野心あるからと仏が戒めたから中止として、谷本博士が言われた通り、婦女に喉を切る嗜みなどを仕込むよりは、睾丸の命乞いは別として、勇胆弁才能く敵将を説伏するほどの心掛けを持たせたい事である。

俗に陰嚢の垂れたるは落ち着いた徴で、昔武士が戦場で自分の剛臆を試むるに陰嚢を探って垂れ居るか縮み上ったかを検したというが、パッチ股引ジャあるまいし甲冑を著て容易く探り得ただろうか。したがって陰嚢の垂れた人は気が長いという。これは本当で、かく申す熊楠のは何時も糸瓜のごとし。それ故か何事をも糸瓜とも思わず、ブラブラと日を送るから昨年の「猴に関する民俗と伝説」も麁稿は完成しながら容易に清書せず忘れてしまい、歳迫ってようやく気が付き清書に掛かったが間に合わず、ついに民俗までで打ち切って伝説の部は出し得なんだに由って今この篇は先例を逆さまに伝説から書き始めた。こんな気の長い人が西洋にもあったものか、チャムバースの『ブック・オヴ・デイス』に珍譚あり。昔話に物言わずに生まれ付いた人が騎馬して橋を過ぐる内、顧みてその家来に汝は鶏卵を好くかと問うとハイ好きますと答えた。何事もなしに一年経って一日同じ橋を騎馬で過ぐる内、同じ家来に去年の問いを続けるつもりでどんなのをと問うと、家来も抜からず焼いたのであります。これよりも豪いのはグラスゴウ附近カムプシーちゅう所の牧師アーチブルド・デンニストンで、一六五五年その職を免ぜられ、王政恢復(一六六〇年)の後復職した。免職前に講演第一条を終った続きの第二条を復職後述ぶる発端に、時節は変ったが聖教はいつも変らぬと口を切ったそうだ。ところがこの牧師も瞠若と尻餅を搗かにゃならぬ珍報が一八六二年の諸新聞紙に出た。紀元七十九年ヴェスヴィウス山大噴火のみぎり、ポンペイ市全滅に際しその大戯場で演劇を催しいた実跡あるに乗じ、今度ランギニてふ山師がポンペイの廃趾に戯場を建て、初演の広告に当戯場は千八百年目にいよいよまた「行儀の娘」の外題で開演するに付き、前の座主マルクス・キンツス・マルチウスの経営中に劣らず出精致しますれば、貴顕紳士は相替らず御贔屓御入来を願うと張り出した。熊楠いう、東洋にはずっと豪いのがあって、玄奘三蔵の『大唐西域記』巻十二烏※国の条に、その都の西二百余里の大山頂に卒都婆あり、土俗曰く、数百年前この山の崖崩れた中に比丘瞑目して坐し、躯量偉大、形容枯槁し、鬚髪下垂して肩に被り面に蒙る。王も都人も見物に出懸け香花を供う、この巨人は誰だろうと王が言うと、一僧これは袈裟を掛け居るから滅心定に入った阿羅漢だろう、この定に入るに期限あり、稚(わが邦の寺で敲き鳴らす雲板、チョウハンの類)の音を聞けば起るとも、日光に触れば起るともいう、さもない間は動かず、定の力で身体壊れず、かく久しく断食した人が定を出たら酥油を注いで全身を潤し、さて稚を鳴らして寤ますがよいと答えた。その通りして音を立てる事わずかにして羅漢眼を開き、久しく見廻して汝ら何人で形容卑劣なくせに尊い袈裟を被るぞと問うた。かの僧我は比丘だと答うると、しからば我師迦葉波如来は今何処にありやと問う。かの如来は大涅槃に入りて既に久しと聞いて目を閉じ残念な顔付しまた釈迦如来は世に出たかと問うから、昔生まれて世を導きすでに寂滅されたと答う。久しく頭を俯した後虚空に昇り、自分で火を出し身を焚いて遺骸地に堕ちたのを、王が収めてこの塔を立てたと見ゆ。

誰も知る通り婆羅門教に今の時代を悪劫とするに反し、仏教には賢劫と称す。この賢劫に四仏既に出た。人寿五万歳の時拘留孫仏、人寿四万歳の時倶那含牟尼仏、人寿二万歳の時迦葉波仏、人寿百歳の時釈迦牟尼仏が出て今の仏法を説いた。それより段々減じて人寿十歳、身の長一尺、女人生まれて五月にして嫁す。人気至って悪く悪行する者は人に敬せられ、草木瓦石を執るも皆刀剣とあり、横死無数なり。その時山に蔵るる者ただ一万人残る。他の人種相殺し尽した後出で来り相見て慈心を起し共に善法を行う。その功徳で百年ごとに一年ずつ命が増す、人寿八万四千歳に上りそれより八万歳を減ずる時賢劫の第五仏弥勒仏が出る。減じたというものの、人の命が八万年でそれより一年も若くて死ぬ者なく、女人は五百歳で方に嫁す。日に妙楽を受け、禅定に遊ぶ事三禅の天人のごとく常に慈心ありて恭敬和順し一切殺生せず。ただ飲食便利衰老の煩を免るる能わず。香美の稲ありて一度種うれば七度収穫され、百味具足し口に入ればたちまち消化す。大小便の時地裂け赤蓮花を生じて穢気を蔽うとあるから、そんな結構な時代の人もやはり臭い糞は垂れるのだ。人民老ゆれば自然に樹下に往き、念仏して静かに往生し、大梵天や諸仏の前に生まる。その時の聖王に子千人と四大宝蔵あって中に珍宝満つ。衆人これを見て貪著せず、釈迦仏の時昔の衆生この宝のために相偸劫して罪を造ったと各呆れる。その時弥勒仏生まれて成道し、件の聖王その悴九百九十九人と弟子となって出家し一子のみ出家せずに王位を嗣ぐ。弥勒世尊、翅頭末城外の金剛荘厳道場竜華菩提樹下で成道する。この樹は枝が宝竜のごとく百の宝華を吐く故この名あり。初めに金剛座上で説法し九十六億人阿羅漢を得、二会と三会に城外の華林園で説法し、九十四億と九十二億の人が阿羅漢となる。これを竜華の三会といって馬琴の『八犬伝』の文句にも出れば、弥陀の念仏流行して西方浄土往きの切符大投げ売りとなるまでは、キリスト教の多くの聖人大士が極楽へ直通りせず最終裁判の日を待ち合すごとく、弘法大師その他の名僧信徒、殊に畏れ多いが至尊で落飾された方々もこの弥勒の出世をあるいは入定したり、あるいは天上霊域で待ち合され居るはずとさる高僧から承った。とにかく昔の仏徒が弥勒の出世を竢つ事、古いキリスト教徒がミルレニウムを竢ったごとく、したがって、中国や朝鮮で弥勒と僭号して乱を作した者もありと記憶し、本邦でも弥勒十年辰の年など万歳が唱え祝い、余幼時「大和国がら女の呼いおとこ弥勒の世じゃわいな」てふ俚謡を聞いた。およそ仏教の諸経に、弥勒の世界と鬱単越洲を記せる、その人間全く無差別で平等で、これが西洋で説かれていたら遠くの昔に弥勒社会主義とかようのものが大いに起ったはずだが、東洋には上述の僅々小人がこれを冒して、小暴動を起したくらいに止まり、わが邦では古く帝皇以下ことごとくその経文を篤信して静かにその出世を竢たれたので、どんな結構な文も読む者の心得一つで危険思想も生ずれば、どんな異常な考えを述べた者も穏やかにこれを味わえば人心を和らげ文化を進めるに大益ありと判る。ただし『仏説観弥勒菩薩下生経』に、この閻浮提洲、弥勒の世となって、危険な物や穢い物ことごとく消え失せ、人心均平、言辞一類となり、地は自然に香米を生じ、衣食一切の患苦なしとあるに、無数の宝を蔵めた四大倉庫自然に現出すると、守蔵人、王に白す。ただ願わくば大王この宝蔵の物を以てことごとく貧窮に施せと、爾時大王この宝を得已ってまた省録せず、ついに財物の想なしと言えるは辻褄が合わず、どんな暮しやすい世になっても、否暮しやすければやすいほど貧乏人は絶えぬ物と見える。さて、弥勒世尊無量の人と耆闍崛山頂に登り、手ずから山峯を擘く。その時梵王天の香油を以て大迦葉尊者の身に灌ぎ、大稚を鳴らし大法螺を吹く音を聞いて、大迦葉すなわち滅尽定より覚め、衣服を斉整して長跪合掌し、釈迦如来涅槃に臨んで大迦葉に付嘱した法衣を持って弥勒仏に授け奉る。釈迦の身長は一丈八尺とか、その法衣が弥勒仏の両指をわずかに掩うはずと土宜法竜僧正から承った。さればこの時諸大衆今日この山頂に人頭の小虫醜陋なるが僧服を著て世尊を礼拝するは珍なものだと嘲ると、弥勒世尊一同に向い、孔雀好色あれど鷹、鶻鷂に食われ、白象無量の力あるを、獅子獣小さしといえども撮り食らう事塵土のごとし、大竜身無量にして金翅鳥に搏たる、人身長大にして、肥白端正に好しといえども、七宝の瓶に糞を盛り、汚穢堪うべからず、この人短小といえども、智慧錬金のごとく、煩悩の習久しく尽き、生死苦余すなし、護法の故にここに住み、常に頭陀事を行う。天人中最も勝れ、苦行与等なし、牟尼両足尊、遣わし来って我所に至る。汝らまさに一心に、合掌して恭しく敬礼すべしと偈を説き、釈迦牟尼世尊五濁の悪世に衆生を教化した時、千二百五十弟子の中で頭陀第一、身体金色で、金色の美婦を捨て、出家学道昼夜精進して貧苦下賤の衆生を慈愍し、恒にこれを福度し、法のために世に住する摩訶迦葉とはこの人これなりと呵するので一同睾丸縮み上って恐れ入る。一丈八尺の法衣が二指を掩い兼ねるほどの巨人の睾丸だから、一個の直径一間は確かにある。そこで大迦葉尊者前述烏※国の出定阿羅漢同様の芸当を演じ、自ら火化する骨を弥勒が拾うて塔婆を立つるという未来記だが、五十六億七千万年後のこと故信ずるにも足らねば疑うも気が利かぬ。ただ熊楠がここに一言するは、壮歳諸国を歴遊した頃は、逢う南中米のスペイン人ごとに余を軽視する事甚だしく、チノ・エス・エル・シウダッド・デル・ハボン(支那は日本の都)といって、日本とは支那の領地の片田舎と心得た者のみだった。かく肩身の狭い日本に生まれながら、その頃の若者はそれぞれ一癖も二癖もあり、吾輩自身も自分がかつてこれほどの事がよく出来たと驚くほどの働きをした。しかるに日本の肩味が広くなればなるほど、これが何で五大国の一かと重ね重ね怪しまるるほど日本人の実価が下ったように思う。孔雀好色あれど鷹に食われ、獅子小といえども大象を撮り食う事塵土のごとしという。弥勒、如来の詞は分り切った事ながら各の身に当て省みるべきじゃ。『西域記』九には大迦葉が釈迦の法衣を守って入定し居る地を鶏足山とす。三つの峯聳えて鶏の足に似たから名づけたらしい(ビール英訳、二巻一四二頁註)、これは耆闍崛山と別だ。「迦葉尊者は鶏足に袈裟を守って閉じ籠る」という和讃あれば、本邦では普通鶏足山に入定すとしたのだ。支那にも『史記』六に〈始皇隴西北地を巡り、鶏頭山に出で、回中を過ぐ〉とある。鶏頭の形した山と見える。

(大正十年一月、『太陽』二七ノ一)

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