一の二
昨日は荷物を部屋に運び終ると、直ぐに御影に住む友達、田原の家によばれて行つた。酒倉のうちつゞく濱端の一地點に建てられた二階家の欄干に近々と浪が寄せて、潮の香の鼻をつく座敷で、夜の更ける迄酒を飮んだ。大阪に歸つたのは十二時過ぎで、引越して來た最初の晩に、宿のおもての戸を叩かなければならなかつた。
それにも拘らず今朝は早く起きた。雨戸の無い家はあけ安く、縁側の玻璃戸の内側に引いてある白いカアテンは、川水に光り躍る朝日を反映して、まぼしかつた。深酒の翌朝の早起は、自分自身に對しても負嫌で押通す三田のならはしだつた。
梯子段をづしんづしん踏鳴らしながら降りて行くと、
「お早う御座います。」
「お早うさん。」
二三人女の聲が、臺所と帳場から、いちどきに挨拶した。新來の客を珍しがる視線を避けるやうに、彼は地下室へ急いだ。
暗い湯殿に續く洗面場には、ひゞの入つた姿見がかゝつて居た。三田はその前に立つて、これが一生の面倒に思はれる無類の濃い髯を剃つてゐた。安全かみそりの齒の音が、心地惡く響いた。
「旦さん、えら早よおまんなあ。」
湯殿の洗場をごしごし洗つて居たぢいさんが、後から聲をかけた。
「お早う。」
半分は石鹸のあぶくだらけの顏で振向いて返事をしたが、
「おゝ。」
平べつたい顏を見ると、おもはず驚きの聲が出てしまつた。
「何やら見覺えのあるお方のやうに思ふてましたが、旦さんでしたか。先夜はえらいひつれいしました。」
しまりの無い口のきゝ方に特徴のあるぢいさんは、此間天神橋の蛸安で、安くて居心地のいゝ旅館醉月を、教へて呉れた醉拂ひだつた。
「なあんだい、君は此のうちの人なのか。」
「へえ、時折手傳ふてゐまんのや。」
ぢいさんはにたにた笑を浮べて、寧ろ得意さうに答へた。
顏を洗つて二階へ戻ると、きれいに寢床はかたづいてゐて、縁側のカアテンをしぼり、玻璃戸をあけ放したところに、籐椅子が据ゑてあつた。それに腰かけて、朝日のさす對岸の家や、川の流や、上り下りの船を見て居たのである。
しばらく辛抱してゐた天滿橋を南へ上る、御城の近所の下宿に比べて、月に十圓違ひではあるが、その差は十圓以上に思はれた。最初にあつたおかみさんのからりと晴れた態度と、因業貪欲吝嗇の内心を、ねちねちした御世辭で包んだ先の下宿の人間に比べて、いかに心地よく思はれたか。あの下宿では、女中に給金を拂ふのを惜んで、何時も手不足で困つてゐたが、此の宿には女手も相當にあるらしい。獨身者のならひとして、その女中がきれいであつてくれゝばいゝがと、虫のいい事も願つて居た。
斯ういふ明るい部屋ならば、屹度物を書くのにもいゝに違ひ無い。かねて腹案は熟し切つて居る長編小説を、いつそ今日から書始めようかしら。會社から貰ふ月給だけでは、宿料を拂つて餘裕が無いのだから、小説を完成させるのは、財政上からも必要に迫られて居るのであつた。彼は、自分自身を鞭撻するやうに、初夏の青空に向つて深呼吸をした。