Chapter 1 of 8

彼は波止場の方へふら/\歩いて行つた。此の土地が最早いつまでも長くは自分を止まらせまいとしてゐるやうで、それが自分のにぶりがちな日頃の決心よりも寧ろ早く、此の土地を去らねばならぬ時機が迫つて来はせぬかといふ、妙に心細い受け身の動揺の日がやつて来たのだ。勿論それは彼の思ひ過ぎでもあつた。これまでも屡々あつたことだ。こんな気持の時は足がおのづからステーションや波止場の方へ向くのであつた。ステーションへ行つて思ふ都会の駅名を恋人の名でも読むやうになつかしく眺めるのも一種の心遣りだつた。波止場へ行つて汽船賃をしらべて旅費の都合を考へたりすることもにえきらぬ自分の心に対する一種の示威運動であつた。そこには人足達の肩を煩はしたいろ/\の貨物の山、起重機で捲き揚げられた鉄材、思ひ/\に旅装をして汽船に乗り込む客、艀から上陸する人、そこには常に放浪病者を魅惑するやうな遠い国々の幻影が漂うてゐた。然し此の土地が全く面白くなくなつた彼のやうな気持とは恐らく正反対の心持でわざ/\此の小都会に望みを抱いてやつて来る者もそこにはある。或は夫婦づれの、或は独身者らしい脛一本の労働者が、青服の着流しで、手荷物を振分に背負つて、ぼつ/\桟橋から上陸して来るのを見ると、彼はちよつとまた妙な気がして考へをにぶらせるのであつた。現在の自分の心の迷ひを今一度圧し鎮めてよく反省して見ないわけには行かなんだ。

「彼等は此の土地より外にもつとよい所へ行けないのだらうか。此の土地だつて仕事にあり附くまでは容易ぢやない。工場へ入つて愈々働くことになるまでには随分めんだうな手数を喰はされるのだ。二月や三月は居喰ひで過さねばなるまい。其の揚句、まづく行つたら身体検査ではねられて、果ては身一つの捨て場に迷ふ者さへある。」と彼は半ば同職者としてのさうした思ひ遣りを持つて、それらを眺めるのであつた。殊に妻子を曳いた渡り者を見ると一層その思ひを深うした。そして、次には直ぐ自分の無分別を顧慮しなければならなかつた。此の土地を今離れることは全く軽卒であると気が附くのであつた。どんなに厭な思ひをしても、工場の方で解雇しない限りはおとなしく此所へかじりついてゐるに越した事はないといふ心持になるのだつた。毎日工場へ出て働きさへすれば定つた賃銀が得られる現在の境遇が忽ちに何ものにも替へがたくなるのだつた。そして、自分ながら意気地なく、明日からまた気をとり直して、みつしり働かうといふ料簡になるのであつた。此の料簡は今から二年前、彼が此波止場へ着いた時の心持と稍々同じ者である。其の時は二月の末で、港の山々にはまだ雪が消え残つてゐたが波はもう春らしい丸みを見せて鷹揚に揺ぎ、商船や軍艦の間を白い鴎が飛び交うてゐた。威勢よく空一面に漲つてゐる焦茶色の煤煙、その下に鉄とエンヂンとのどよめき渡る工場の彼方を汽船の甲板から眺めた時、彼は云ひやうのない心強さと讃美の気持でいつぱいだつた。此の土地が自分を定住させてくれたらば、どのやうに幸福であらうと思うた。若し思ひ通りに行かぬ時の第二の目的地を予想することは此の場合に於てどれほど心細く且つ不幸であつたらう。その不安は彼を心から運命に対する従順な敬虔な人間に立ち戻らせずにゐなかつた。

「今度こそは、今度こそは仕事に取り附いたらば一生涯此所が自分の身の定め場所だ。どんなことがあつても今度こそは腰を据ゑて稼がずになるものか……。」と彼は此の港で一番高い山に向つて合掌せんばかりの心持で、堅い言質をかけて誓つたではないか。万一にも他日此の土地に飽きが来た時、自分をひどくたしなめてくれる対象として役立つものが彼には必要であつたのだ。それほど彼は自分の心の奥底に隠れてゐる飽きつぽい迷ひ易い性情を怖れてゐたのであつた。それは曾て唯の一度だつて其の頑固な性情の抑制に成功したためしがなかつたからである。

ともあれ其の時だけは真実此の土地に安住を誓つたのであつた。三年間の軍隊生活の堪へがたい忍苦、実戦に参加しそこねて命拾ひをして、やつと我が身一つが自分の物になつたといふ悦びは、世の中の一切を無批判に肯定させた。かうした凱旋兵の眼には如何なる苦惨な人生にも意義と幸福と悦楽とが見出された。それは特殊な苦しみを経てへと/\に疲れきつた者にのみ一時甦つて来る愚かな病的な錯覚であつた。然し今彼の目前に横はつてゐる此の港、此の小都会の全景は其の時の錯覚の冷たい殻に過ぎなかつた。

彼は暫く波止場に立ちつくしてゐた。秋の陽は島山に落ちた。うそ寒い潮風が吹き渡つて来た。それは曾て遠い過去に於て失職の果てに知らぬ旅路の海岸をさまようた時分にも出逢つた風であつた。若し彼が誤つて一歩此の土地を離れた後の失職の憂目を予感させるやうな夕風であつた。

もう荷揚人足等の或る組は仕事を終つて其の日の労銀を受取つて、そこらの寄りつけの酒場へてんでに押しかける頃だつた。彼方の造船場からは五時半の喉太い汽笛が鳴り響いて来た。自分勝手に工場を怠け休んで此の一日を無為に遊惰に過ごした者はその汽笛の声を喜ぶ資格はなかつた。汽笛は勤勉ならざる者には堪へがたい威嚇であつた。一日でも骨折を惜んで血税を怠る者を忽ち憂欝にした。

彼の顔面には此の一瞬間弱い心の悶えと怖れとがあり/\と現はれて見えた。それは其の汽笛の威嚇に打ち克たうとする反抗の色であつた。然し其の汽笛の声は彼等労働者が永遠に背くことの出来ぬものだつた。それを思ふと彼は強ひても自分の意志を消極的にし、そして一生涯此の土地に身を縛り附ける為めには妻子といふ重荷が必要であること、それが結局得策であることなどを考へ到らねばならなかつた。それは一面の要求として夙くから急がれたことでもあつたのだ。

今しも彼が佇んでゐる波止場の石段の下には近海通ひの曳船が着いたところだつた。田舎風の男女の客が二十人ばかり上つた。其のおしまひに二十五六の赤い手柄を見せた色白の小肥りな丸髷の若いかみさんが上つた。彼は何気なく見てゐる間に其のかみさんに目を留めた。田舎の女には珍らしくみづ/\して其のお納戸色の型附半襟の裡から柔らかな白い首筋の線がのび/\と弧を描いて耳柔の裏の生際の奥に静かに消え上つてゐるのなどを彼は見た。四つばかりの丸々と肥つた男の子が此の母親の手から船頭の手に差し渡されると見る間に宙へ浮いて子供は嬉しさうに陸へ上げられた。其所には幾台ものがた馬車が客を待ち構へてゐた。御者は彼女の手荷物と其の子供とを貰ひ物でもしたやうに気おひながら積み込んだ。彼女もそれに打ち乗つた。馬車は駈り出した。彼はそれをなほも見送つてゐた。自分の現在の生活の最も不足してゐるものをそこに見たのであつた。

Chapter 1 of 8