Chapter 1 of 1

Chapter 1

宮本百合子

或、若い女が、真心をこめて一人の男を愛した。そして、結婚し、三年経った。けれども、或日その若い女は、

「ああ苦しい、苦しい! 可愛い人。私は貴方が可愛いのよ、だけれども苦しくて、息がつけない」

と、泣き乍ら、男の傍から逃出して仕舞った。

逃げはしたが、女は他に恋した男があったのではない。彼女は、生れた親の家へ戻った。そして、黙って、二粒の涙をこぼし、頭を振り、やがて寂しく微笑んで縁側に坐った。

朝眼を覚すと、一日中、月の出る夜になっても、女は、いつも同じ縁の柱によって居る。

母親は不思議に思い、娘に

「お前、どうしていつも其処に居るの? 内へお入りな」

と云った。

娘は、微笑した。然し、翌日も、その柱からは離れなかった。

柱には、縦に深く一本割れ目がついて居た。女は、きっとその割け目に耳をおしつけて居た。(それを、母親は知らない。)彼女は、そうやって耳をつけ、柱の奥から、嘗て自分の恋をした、今も可愛い男の声を聴いて居たのだ。自分を抱いて名を呼ぶ声、向い合って坐り、朝や夜、種々の物語をした、その懐しい声を聞いて居たのだ。

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