亀井勝一郎
亀井勝一郎 · Japanese
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亀井勝一郎 · Japanese
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Original (Japanese)
私は北海道の南端の海辺に育ったので、若いときから山国というものが大へんめずらしかった。
北海道も石狩平野から奥へすすむと山国同様だが私はその地方は殆んど知らない。朝夕に津軽海峡を眺めて暮してきたので、周囲の全部が山また山という風景に接すると異様な感じを与えられる。初夏のみどりで全山が蔽われ、眼にうつるもの悉くみどりといった中で、私は目まいしそうな状態になることがある。濃厚な葉緑素が身体にしみいって、酔ったような気持になる。
はじめてそういう経験をしたのは高校時代で山形であった。最上川の上流、馬見※崎川のほとりに盃山という丘があるが、そこへ登ると、はるかに朝日岳、湯殿山、羽黒山、月山などがのぞまれた。私は高校時代に一度だけ蔵王山に登ったことがある。新緑に蔽われたこの山の中腹から、はるか遠くに白雲を頂いた鳥海山を眺めたときの印象は、いまもなお残っている。
学校を出て、東京に住むようになってから、私は山など殆んど忘れていた。私の住む武蔵野からは、遠く秩父連山がみえ、場所によっては富士山もみえるが、それは単にみえるというだけで、私の関心をそそることはなかった。ところで戦後はかなり旅行する機会が多く、その中でも長野県へは一年に七、八回も旅行することがあった。中央線で松本の方へ、或は塩尻から木曽路へ、春夏秋と、いくたびか出かけるようになった。
八※岳は、したがって早くから私の眼に映っていた。形の複雑な、どこか奇怪で神秘的なところもある一風変わった山だなと思っていた。自然の巧みな造型力を、この山などは典型的に示しているのではないかと思ったりした。仮に「美術品」という言葉を使うなら、八※岳などは山の中での「美術品」と言っていいかもしれない。
「美術品」となった山の代表は言うまでもなく富士山で、絵画はむろん、床の間の置物やみやげものにまでなって、それだけ俗化したとも言える。広重の富士、北斎の富士、鉄斎の富士、大観の富士、梅原龍三郎の富士と、それぞれの時代を代表する絵画上の名品があるが、富士山はつねに改めて発見されなければ、存在しないということをそれは語っているようだ。俗化すればするほど新しい発見を画家は強いられるだろう。将来どんな形の富士山が絵画の上にあらわれるか、たのしみである。
ところで八※岳の方は、未だかつて俗化したことはない。日本アルプスの諸山は有名だが、それに比べて八※岳は有名な割合にはもてはやされない。いや、知る人はその名山であることをほめるが、どういうわけか他の諸山に比べると普及はしない。夏になると、誰もがきまったように富士山へ、アルプスへと急ぐ。八※岳はどこか気むずかしいところがあって、親しみにくいのかもしれない。或は八※岳というとおり、多面的なので、一挙にとらえにくいところがあるのかもしれない。
昨年の八月はじめて八※岳へ登った。私は大体登山など考えたこともない人間で、さきに書いたように高校時代に蔵王山へ一度登ったきりである。十七歳のときであったから、昨年の八※岳登山は実に三十三年ぶりである。なぜそんな気になったかというと、私の娘や息子達が長野県の先生に誘われて登るという相談を耳にしたので、若いものばかりでの登山は危険だから、私は監督のつもりで行くと言い出したからである。
監督や看護されるのは実は私の方だとは知らなかった。無知とはおそろしいものであり、大胆なものであって、私は登山の苦労など知らなかった。八※岳へ登る、あっそうか、では登りましょうぐらいの簡単な考えで、ついて行ったわけである。
案内してくれたのは伊那の中学校の黒田良夫君という若い絵の先生である。あとで聞いたのだが、私が行くというので、あわてたそうである。気軽に登るつもりらしいが、体力は一体どうか。殆んど無経験なのに、一体途中でへたばったらどうしようかと、大変心配してくれたそうである。その結果はよかった。私は一番楽な方法で、登山することになったのである。
八月七日、上諏訪に一泊し、翌朝、茅野から泉野というところまでバスで行った。そこには黒田君の友人で、農業に従事している堀内君という人がいて、この人は八※岳に大へん詳しいので案内してくれることになった。その上、泉野の農業協同組合がオート三輪車を出してくれたので、行けるところまではこの車で行くことになった。私と、娘と、息子と、黒田君と、堀内君と、総勢五人である。
八※岳のふもとは、のびのびとひろがっている。登山口も、様々ある。私たちは泉野から上槻の木、そこから長者小屋を経て赤岳へのコースを選んだ。八月のお花畑は、実に美しかった。山百合、キキョウ、ナデシコ等、高原全体に咲きみだれた中を、道路こそ悪かったが晴れた空の光りの中を、赤岳の方へ向った。
これ以上車が通らないというところまで行って、そこから赤岳のふもとの行者小屋まで歩いた。疲れたら、その夜はここに泊る筈であった。長い道のりを車で来たのだから、それだけでも、私は大へんぜいたくだったわけだ。
私はへたばって皆に迷惑をかけるといけないので、自分の体力と初めての経験である点を考えて、ひとつの提案をした。それは小学生がこの山へ登るに要する時間を、私のためにくれということだ。小学生なみの速度で、大人の二倍乃至三倍の時間をかけて、休み休み、ゆるゆると登るという案がある。
元気な堀内君や息子たちは、先頭に立ってどんどん登ってゆく。私と娘は小学生なみに歩いて、その後に黒田君がついてくるという順で、行者小屋から赤岳をめざして登りはじめた。
樹木のあるあいだは、どんなに急坂でもまだよかった。いよいよ頂上が近くなるにつれ、山肌はむき出しとなり、そそり立った巌石が眼の上と眼の下につづいている。そこまで来ると、恐ろしいやら、心細いやらで足がふるえてきた。
私はこんな凄いところへいきなり連れてこられるとは思っていなかった。およそ二百メートルぐらいの間は、わずかに這い松があるだけで、あとは断崖絶壁である。見上げると赤岳の頂上が巨大な巌石のようにそそり立っている。絶えず霧につつまれたが、その晴れ間には、巨大なこぶしのような阿弥陀岳があらわれる。その奇怪な姿は登っている私をおびやかすようである。周囲を見おろすと、脚下は数百メートル(?)とも思われる深い谷だ。しかも私は岩と岩のあいだを這いのぼってゆくのである。その岩が直立しているので、私の体は、半分宙に浮いているようなものだ。地球からはみ出したような感じだ。足を踏みすべらしたら、忽ち数百メートルの谷間へ落ちてしまう。
実は、こんな風に私が感じたのであって、それほどの難所ではないのかもしれない。第一はじめての私さえ、どうやら登れるのだから、自分ひとりで恐ろしがったのかもしれない。それに絶えず霧に襲われるので、それがすこしでも晴れかかってくると、脚下の谷は一層深くみえる。そのための恐怖もあったと思う。
堀内君や息子はとうに頂上に達して、上の方から私たちを呼んでいる。私と娘と黒田君が、のそのそと這い上ってゆく。ともあれ頂上は近いのだし、そこへ達したら、やれやれと草の上にでも寝ころんでと思って、勇をこして、遂に頂上に達したのは午後二時頃であったろうか。山頂に立ったと云っても赤岳のてっぺんではなく、石室に近いその一部の尾根の上である。
ところがその山頂なるものに驚いた。いかにそそり立った山とは言え、頂上は相当ひろびろしていると思った。ところが巌石の一角に手をかけて、空を走る白雲を眺めながら、いきなり顔を出したとたんに、反対側は忽ち断崖絶壁で向う側へひっくりかえって落ちそうな感じであった。そして、眼下にいきなりひらけたのは松原湖から小諸の方へのつらなる平原であった。二千数百メートルの高さから、脚下に信州の東西両側の風景がみられた。山上に立つと、さすがにほっとして、疲れさえ感じない。時々霧におそわれたが、それが晴れると今登ってきた側のはるか彼方に、日本アルプスの連山、正面に木曽の御嶽山の威容がのぞまれた。全体の風景は、薄みどりの天然色映画のようである。淡い霧がかかっているので、平原も山林も、大湖底に沈んでいる薬草の群れのようにみえる。
午後になると霧は一層深くなって、八※岳全体を見渡すことが出来なかったのは残念である。巌をとりまいて疾風のようにからみつく霧の中を、赤岳から横岳を経て、硫黄岳の方へ、山の尾根を縦走した。その夜は、硫黄岳の石室に泊ることになった。暗く狭い石室には三十人ほどの人がつまって、ストーブをたきながら談笑していた。興奮したせいか、食欲はあまりない。夜も熟睡は出来なかったが、早朝四時頃、御来迎がみられるというので皆起き出した。
曇りがちなので朝日の美しさはみられなかったが、雲の幾重にもかさなりあったあいだから、朝日の光りの山頂をくれないに染めるわずかの瞬間を楽しんだ。眼下はるかに松原湖が、白く光ってみえる。夜明けの薄いみどりがもやにつつまれて、全体にヴェールがかかっているような風景である。
八月といっても山頂はさすがに寒い。シャツ一枚でいるとふるえあがるようであった。この日は硫黄岳から天狗岳を経て下山する予定をたてた。午前六時頃に出発したように思う。ただ石室の主人が歓待して早朝からウイスキーを御馳走してくれたので、硫黄岳から天狗岳の方へさしかかる頃は、相当ふらふらしていた。こんな高山を酔いながら歩くのに自分ながら驚いたが、酔眼に映る高山の風景はこの世のものとは思われないほど美しかった。先登に立った堀内君も大いに酩酊して、すこし先へ行くと所かまわず仰向けにひっくりかえって、雲の走る大空を楽しんでいるようであった。
天狗山のあたりには高山植物も多い。とくに、駒草というのは実に可憐な植物だ。岩間の陰に、薄くれないの小さな花を咲かせているのが好ましかった。そのすこし前、私は木曽の上松小学校の校歌をつくったが、そこの徽章が駒草であった。わたしは写真だけでみて駒草のことを歌ったが、実物を見るのはこのときがはじめてである。それと天狗岳から夏沢峠まで下る間の巌石と這い松のつづいているところが面白かった。自然の一大庭園といった感がある。
登山も苦しいが下山も苦しいものだ。天狗岳から黒百合平、夏沢峠を通り、渋温泉まで辿りつく道は、先の赤岳への道のように、険しいというわけではないが、石ころの道はすべりがちであったし、膝ががくがくして、ここでも私は十メートルぐらい歩いては休みながら、一番おくれて渋温泉に辿りついた。先着の堀内君や息子たちは、すでに温泉からあがって涼んでいた。
八※岳へ登ってみると、実に変化にとんだ複雑な山だということが改めてわかる。私は親しみにくい、気むずかしそうな山だと言ったが、その理由のひとつは、変化のもたらす神秘感であるらしい。その神秘感をもたらすのは絶えず襲ってくる霧のためであるらしい。油断していると忽ち霧にまかれて、どこへ連れて行かれるかわからぬ。そういう恐怖感をこの山はいつもひそめているようだ。霧は甚だ暗示的なものだ。暗示的であることによって人を迷わせる。
どの山と山を八※岳というか、これは地域によってちがうらしいが、西岳、編笠岳、権現岳、阿弥陀岳、赤岳、横岳、硫黄岳、天狗岳等を普通指すらしい。私は八※岳の中の半分を縦走したわけである。その中のひとつに登るだけでも大変だ。一つ一つ変化にとんでいる。そしてこれらの山と山とのあいだはすべて深い谷であり、霧が絶えず湧き上っている。
ふしぎなことに、むしろ当然のことと言っていいだろうが、自分の登った山は今度はその近くを通るとき、今までとはちがった親しみをもって眺めるものだ。自分の肉体がその山肌にじかにふれたという実感、つまり山と私との関係がひとつのものとして感ぜられるのである。ただ眺めていたときとはちがうその山の山肌の匂いといったものが、自分の体内に吸収されたという親しみである。
しかし私はくりかえし、あちこちの山へ登りたいとは思わない。登山は私の肉体にとっては相当の苦痛である。やはり遠近から眺めていた方が無事のようにも思われる。ただ八※岳の頂上で日本晴れに会わなかったことは残念だ。雲ひとつない時の山上は、おそらく想像を絶した壮観を呈するだろう。八※岳の頂上が太陽の光りをうけて輝いたその状景を想像する。とくに夕日をうけた姿はもの凄いだろう。その頂上のひとつに立って、冷い空気を通して、パノラマのような眼下の大風景をみわたしたら、すべての疲れも煩しさも忘れられるだろう。
高山の頂上に立ちたいというのは、人間の本能かもしれない。なんのために登山するのかと問われてもほんとうに好きな人は答えることは出来まい。頂上に立ったときの気持などうまく説明は出来ないだろう。大自然によって、おのずから迫られた無心の状態と言っていいかもしれない。ここちよい疲労の中で、ふと夢でもみている気分と言っていいかもしれない。一歩あやまると忽ち死の深淵に転落するわけだから、死とすれすれに味う最上の快楽とも言える。
人間の快楽の原型と言ったものを私は時々考えるのだが、結局それは登山と水泳であろう。自然の肌に、自分の肌をじかに接触させる一番原始的な喜びがここにある。スポーツという言葉もあてはまらないように思う。自然の一部としての人間という、その原始性を直接的に味うことの出来るいわば生の一番なまなましい実感がここにあるのではなかろうか。そしてどちらの場合も死とすれすれのところで、生ははじめて生であることを深く感じているにちがいないのだ。だから昔の登山や渡海は信仰とむすびついていた。八※岳も昔は信仰の対象であり、行者の修行の場であった。
●図書カード
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