北原白秋
北原白秋 · Japanese
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北原白秋 · Japanese
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Original (Japanese)
書斎と星
北原白秋
『東京にはお星さんがないよ。』
と、うちの子はよく言ふ。
『ああ、ああ、俺には書斎がない。』
これはその父であるわたくし自身の嘆息である。
まつたく小田原の天神山はあらゆる星座の下に恵まれてゐた。山景風光ともにすぐれて明るかつたが、階上のバルコンや寝室から仰ぐ夜空の美しさも格別であつた。これが東京へ来てほとんど見失つて了つた。それでもまだこの谷中の墓地はいい。時とすると晴れわたつた満月の夜などに水水しい木星の瞬きも光る。だが、うちの庭からは菩提樹や椎の木立に遮られて、坊やの瞳には映らない。
それから、ここの家である。庭は広く、木も立ちこんで、廂の深い、それは古風な幽雅な趣きもあり、豊かな気持もあるが、どの室にも日光が直接には当らない。湿けもする。全然開放的であつた小田原の家とはあまりに違ひ過ぎる。あちらでは震災で半壊はしても、それは子供があるいても揺れてゐた階上の生活ではあつたが、極めて気安く季節の風と光とを受け入れてゐた。さうしてまるで草木や昆虫の世界に間借でもしてゐるやうに楽しまれた。書斎にしてからが居間にもなり、寝室にもなり、客間にもなり、食堂にもなり、子供の遊戯室でもあつたが、それにまた工場見たやうではあつたが、その雑然とした中にほんたうのいい統一があつた。来客は稀だし、物音はせず、常住読書と思索と創作とに自分を遊ばせてゐられた。ここへ来るとそれらのすべてが失はれた。
五月からこの方、わたくしはまだこの家にしつくりとは住みつかないのだ。どの室にも統一はありキチンとはしてゐるが、それだけ却つて圧迫されるやうな気がする。どの室に机を据ゑても落ちつけないで、あつちへ坐つて見たり、こつちへ腰かけて見たりしてゐる。雑然と何もかも放りつぱなしにして置く室が無いのである。寂びがあつていい家だとは思ふが、それだけまたうつかりとできないのである。
それに面会人の多いことは多い日には三十人もある。初めの頃は金せびりまでが随分と来た。面会日は木曜ときめて門の扉に木の札は掛けたが、ほんたうにこちらの仕事の為に考へてくれさうな人はさして有りさうにないのでしみじみ困つて了ふ。そしてかんじんの面会日にはわざわざ時間をあけて待つてゐるのにほんの一人か二人しか来はしない。さうして面会日の札まで誰かが盗んで行つて了つた。
わたくしはここへ越して来てから一晩と落ちついた自分の時間を持つたことはない。
こんな事が続いたら、わたくしは滅びるほかはないのだ。仕事ができないくらゐ苦しいことはない。病気になりさうだ。
つくづく小田原の壊はれた木兎の家に帰りたくなつてゐる。
北原白秋
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