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華やかな海辺の市を去って、山間の中学校へ帰ろうと決心した私は、もう別のイリュウジョンによって鼓吹されていた。それは力強い雄健の世界、苦痛とたたかって何ものかを獲得し、建設しようとする精神のイデアであった。
私は、考えて見れば、年少時代から今日まで、何らかの理想――夢を最高度に描いて、それによって鼓吹されることなしには生きる力の出ない性格であるらしい。そしてその夢を夢み初めると、それに対して最高度の忠実と努力とをささげようとする型の人間であるらしい。まさしくこれはイデアリストの型であろう。そして考え方では、これは単純な、一癖も二た癖もない、含蓄のない生活法式であるでもあろう。しかしこれが私の本質である。うわべはともかくも、どんな権謀や、知略のありそうなポーズをとって、玄人らしい顔をして見ても、私の本質はそうした単純な型の生活者であり、したがってもし底の知れない、複雑味のあるのがえらい人間の資格であるのなら、私などは自分自らの本質を裏切ることなしにはえらくなる事が出来ない。
しかし私はそれではどうも腑に落ちない故に、普通にはそうした資格を不可欠と考えられている政治の領野に於てさえも、新しい純真な理想主義の政治と、政治家との型がつくられねばならぬことを要請しているのだ。私がイギリス風の外交の型を旧い、間違ったものとして非難し、憎むのもそのためだ。私は私自身を複雑化し、一すじ縄で行かぬ人間に鋳直することで外界と順応することをせずに、外界を純一無雑につくり直すことで、私と一致せしめようと試みているものだ。
これが私の最後の負けじ魂の発露である。
さて十八歳の中学三年生の私は、やはり一種の負けじ魂から都会と少女とをあこがれて、一年落第したわけであるが、再び学校へ帰ろうと決心して、三次へ発足する時にはやはり同じたましいから、もう私を健脚たらしめようとして、十八里の道を徒歩で行こうと志した。それも一日行程で踏破しようと言うのだ。そのため尾道を私は未明に出発する事にした。普通に歩いたのでは一日十八里は歩けるものでない。私は車夫のように「駆け足」をまじえて、上り坂は歩くが平らな道は走って、夜まで三次に着こうという計画なのだ。
来た時のように、車に乗って帰るのだろうと思ってた姉は、私の計画を聞いておどろいた。
「お止しよ、そんな無理なこと。あんたは脚気を治すために尾道に来たんじゃないの」
「脚気はもう直りましたよ。僕はこれからの山の中の中学に帰ってうんと体を鍛えるんです」
姉は私の顔を見ていたが、
「でもあんたがそんなに元気になってくれたのは嬉しいわ。庄原のお父さんも、お母さんもお喜びでしょう……尾道に来ていてよかったわね」
「ありがとう。姉さん。僕とても感謝していますよ。……一寸言えない位です」
と私は心から言った。子供のように可愛がってくれた伯父、伯母。人のいい寛大な従兄。――むつみ合った少女たち、仁田さん、福井さん、子供たち……とても忘れられないと私は心の内で思った。
姉は明日出発する私を送る意味で、牛肉のすき焼きをして、皆で晩飯の時色々とこの一年間のことを話し合った。
「今度奥へ帰って御覧、何てきれいな、垢ぬけした子になったかとおどろかれるから」
伯母がこう言ったのはお世辞では無かったらしい。つまり私の目的は達したわけだ。だが私は苦笑した。私の志はもう別にあったからだ。
翌る朝まだ暗いうちに私は出発した。父の店の前髪の末吉という私より二つ年上の少年が、いいと言うのを聞かずに市村という三里ある村まで送って来てくれた。
いよいよお別れという時、末吉は涙をこぼしていた。私の事を尾道の方言で、「坊さん、坊さん」と言って、少年同士一年間色々と親しみ合ったのだ。私も悲しくなった。橋のところで別れたが、幾度振り向いてもまだ立って見送っていた。いよいよ曲り角で、私はステッキを振って合図して別れた。
いよいよ尾道を離れたのだという気が急にした。
私は足を速めてスタスタと歩き出した。道路の傍の電柱を数えながら、一里をどの位早く歩けるかを測りながら歩いた。人力車も幾つも追い越した。旧道があれば、喜んで山道の坂を越えて距離を短縮した。歩くことが目的であった。その心の底には高見山で安子にからかわれたことの屈辱感があったのだ。
がそのようにしても、宇津土、甲山を経て、吉舎に着いた時にはもう暮れ近くなって、足は棒のように疲れた。それでも豆の出来た足を引きずって歩くと、馬洗川の堤に出た。
「馬洗川だ。もう母校の歌をささやいてるような気がする」
なつかしさがこみ上げて私は岸伝いの道路を急いだ。が三次を三里はなれた三良坂という村まで来ると、日はとっぷりと暮れてしまって道も見えなくなった。
「もう三里だ」
と心は焦って、いやでも漕ぎ付けようとしたが、ぐったりと疲れて、どうしても足が動かなくなった。私は川堤の草の上に身を投げ出してしばらく凝っとして、動かなくなった。馬洗川の川瀬の音が高く聞えた。
しばらくして身を起した私は、もうどうしても足が動かぬので村はずれの粗末な宿にやっとたどり着いた。つまり十五里歩いたわけだ。これが私の一生涯での一日の徒歩行程のレコードである。
宿のランプの下で私は尾道の人々に手紙を書いた。
私は純情というものの生活法の上での価値を幾度でも繰り返して言って置きたい。生活の思い出をつくるものは純情だ。純情こそどんなハンブルな、平凡な生活材料でも心に沁みつき烙きつき、尊い宝とするものだ。純情なかりせば、どんな絢爛たる生活材料も追憶に残らず、糧にもならない。
市村の橋の袂で別れた前髪末吉の姿だけでも今となってはどんなに尊いものであろう。篠竹の杖、五銭位のハンカチ。それでも今日の私たちが歓楽のきぬぎぬに幾十の女人と別れても、その十分の一ほどの感激も生み得ないのである。
一泊五十銭ほどの三良坂の宿の蒲団の中で、私はどれ程の高い、熱い、美しい感情の波を体験していたのであろう。未来に描く雄健の美的精神の夢。ロマンチックな港町への追憶と感謝、一日の奮闘の第一歩の挫折への嘆き、明日の努力への決意――それらは詩にも、音楽にも相応しい第一流の生活体験ではあるまいか。
今日でも自分と、周囲とに純情だにあるならば、いかに物質的に貧しくとも、そうした精神と、感情との尊き波の中に生きられないことは無い筈なのである。
人生のがらくたを引っくり返して立ち現れて来る呪うべき壮年期の乾燥と、汚濁よ! 私たちはもう一度貧しき純情をとり戻して、日々を新しい感激の中に生きねばならないのだ!
三良坂の宿での思いがけぬ仮泊の夢がさめると、若々しい精力はもう完全に恢復していた。私は篠竹のステッキで路ばたの藪をたたきつつ、口笛まじりに、朝霧のこめた馬洗川伝いに一時間も歩くと母校の柵や、いらかがもう見え出した。
もう三年間私のいのちをあの学校に置くのだ。あの学校を中心にして、私の年少の夢も、努力も向上もあるのだ。
そう思いつつ、私は三次町に着いて、三年間渡りなれた長い巴橋を渡って、宗藤についたのであった。
宗藤の家庭の空気は、前にも書いたように、※とはまるで違って暗い、自由のないものであった。専制的な、せせこましい叔父一人のために、家の中の幸福が毀れてしまっていた。叔母は賢い信心深い女であり、その養女重子は私の実妹で美しく、怜悧な少女であった。叔父さえその不幸な、一種の変質的な、頑迷な性格を持っていなかったら、家の中は裕福ではないながらも、明るく、楽しく暮らせたのは確かであった。もっとも叔父の養父、叔母のためには舅にあたる老人があったが、これも頑固な人であった。股引を穿いて家付きの小さな畑を耕しに行った。夜はきまって肩衣をかけて仏壇に向かって読経し、それが終ると、寝る前にかんびんに一合ほどせんべいを肴に酒を飲んだ。外には何の趣味も無かった。毎日同じ事を繰り返していた。まったく消極そのもので、見るからに味気ない生活ぶりであった。私は仏間の隣りの八畳にこの「祖父さん」と寝るのであった。叔母はこの舅にもよく仕えた。店は古衣商で、乏しい品物が並べられ、屋根看板もなく、店頭には古衣の半纏股引とがぶら下っていた。どう見ても美とローマンスとに無縁であった。叔母は美と趣味との解らない女ではなかった。芝居も好きだったし、着物なども数無いのを美しく、品よく大事に着ていた。商業ももっと手を拡げたく、又それだけの才能もあったのだが、叔父がどうしても許さなかった。
「あなたも少し仕入れをしましょうよ。大丈夫さばけないことはないんですから。私だって商売は嫌いじゃないんですし」
叔母が叔父の機嫌のいい時を見てこう言うと、叔父はたちまち機嫌を損じて、
「資本が無いから手は拡げられないよ。わしは派手な真似をするのはいやだ」
とにべもなく答えるのであった。
妹の重子が側から、口を出して、
「でも屋根看板だけはあげましょうよ。近所で家だけあがってないんですもの、私きまりが悪いわ」
と言うと叔父は怒り出して、
「そんならお前たち勝手にしろ。お前たちは味方だからな」
と言うのだ。重子と叔母と私とは倉田家の血つづきなのでそうしたひがみが叔父にはあった。それだけでなく、軒燈はあっても夜火を点さないのだ。昼間は近所なみだが、夜になると目立つので、重子はそれを苦しがった。私は四つまで私と遊んだ彼女が宗藤家へ養女にやられて結婚するまで、娘ざかりを、そうした心苦しさにどれ程心をなやましたかいとしさに堪えぬ。彼女には倉田の氏の伝統である美とロマンチックの花やかな本能があり、又その天成の美貌と才能とはそれに相応しいものがあった。彼女はいつでも首席であった。
「私の一番の苦しみは父を尊敬する事が出来ない事です」
と彼女は言っていた。勝気なところのある彼女は、叔母をかばうために、叔父と争う事などあった。すると叔父は大人気もなく、真赤になって、
「わしを馬鹿にする。そんなに言うなら勝手に出て行け」
と怒鳴るのであった。行く所がないというよりも、父の憤怒のポーズに恐れをなして、重子は泣いてあやまっていた。
叔母と重子とは忍従の日々を送っていた。
私は五年間同じ屋根の下で食を共にした恩のある叔父を悪しざまに言いたいのではない。叔父は実に浄土真宗の正機の凡夫であり、親鸞のいわゆる邪見驕慢の衆生であった。というのは叔父はその行持にもかかわらず、確実な他力念仏の救いを得ていた。その信心が叔母に伝わり、それが私に伝わったのだ。私は「出家とその弟子」をこの信心深い叔母にささげたが、正しくはこの叔父にささぐべきであったのだ。しかしそうした宗教的の目はずっと後にひらけたので、中学時代には私はこの叔父を敬愛することはどうしても出来なかった。私は学芸への愛と、学校での光栄がなかったら、私は到底五年間宗藤家に辛抱することは出来なかったであろう。
尾道から帰って来た私は又以前の屋根裏の見苦しい書斎に入れられた。しかし私は今は花やかなものにあこがれているのではなく、克己と雄健とに身心を鍛えることに引かれているのであった。
私は柔道を初めた。テニスの倶楽部をつくった。そして自転車の稽古をやり出した。
私は前のクラスでも首席だったのに、今度は一年下級のクラスと一緒になったのだから、席次の競争などする気は起らなかった。学芸ではクラスの仲間から特別扱いされていた。しかし武芸ではそうは行かなかった。柔道もまるで新米であった。テニスもうまくはなく、自転車も初めたばかりだ。しかし私は熱心に柔道を稽古した。そしてその冬の寒稽古には、未明に起きて雪の積んだ二十丁の道を毎朝道場に通った。精勤の結果技も進んで私は級で六位に進んだ。角力では柔道で一位の堀田という少年も私にかなわなくなった。
しかし私の重んじたのは技よりも体と精神とを練ることであった。私は反動的になって、校友会誌に「星と菫とを呪う」という文章を書いた。新聞を見ると「大学白粉」という広告がある。これは都会の大学生には白粉をつけるものがいるのだ、青年がそんな柔弱なことでどうすると慨いた。これは一年前尾道に行くころには、自分の頬に紅を塗ったりした自分の事を思えば皮肉であった。私は七日市河原で自転車に乗ることを稽古し、やっと乗れるようになると、授業を休んで自転車に乗って走った。W倶楽部というテニスのグループを作って、毎日々々テニスをやった。技はどうも上達しなかったが、他所目には私が牛耳をとってるように見えて、よく私の所に試合を申込まれた。私はエレファンというあだ名を付けられた。それは下脚部が太くて、柔道の時胴締めが強く効くのと、平和なようで案外獰猛だという意味合いであった。
私は卒業するまでずっとこのニックネームで通った。
この頃私はこの獰猛という言葉を合言葉にしていた。これは一高の気風の地方学生への影響でもあった。私はこの頃から一高を憧憬していた。その寮歌集を読めば惹き付けられないわけには行かなかった。
しかし私の獰猛主義は一方学芸への尊重と、はなれないものであった。私は学芸を愛しない運動家を軽蔑した。学校の授業は別にして、残りの時間を勉強と運動とに出来るだけ精励しなければならないというのが私の主義であった。私は考えているだけでは満足せず、それを主張した。
その頃学校に正気会という武芸のための会が出来た。これは校長や、生徒監の肝煎りで出来たもので、今から考えると勢力のある運動家を通して生徒を馴致しようとする一種のポリシイをも含んだものであったらしい。発会式の時運動家の連中が幅を利かして演説した。私は何となしにこの会の、その半官半民的の気風が気に入らなかった。
そこで私は立って演説を初めた。
「我輩は優等生である」
というのがその冒頭であった。趣意は学芸を愛する者のみ運動家たる資格がある。ただの暴力的な運動家が幅を効かせたりするのは学問の府として排斥すべきであるというのであった。生徒監や、運動家たちは苦い顔をした。が後で徳永先生という私を愛してくれる数学の先生が、
「痛快だった。しかし君は才気をつつしみ給え」
と注意して下さった。
年少の客気があふれていたのであろう。今から思えば冷汗の流れるようなことの数々がある。だがそれもなつかしい追憶だ。「学問の府として」といったのは校長さんが、「北備の最高学府」であるとよく言うからであった。中学校でもそのつもりであった。
こうした事があってから私はいわゆる運動家の連中と、私のように一種のギリシャ的精神から身心を鍛えようと志している者との間のギャップを感じて来だした。彼等は私党を組んで下級生を撲ったり、クラスの中で幅を効かした。そして試験の時にはカンニングをやった。そしてロマンチックを伴わぬ男色を漁った。そして私が最も不快だったのは、割合いにずるくて、共同の悪事を見付けられた時に自分達は逃げ、しかも先生にとり入る傾向のあることであった。
野球部の連中にそれがひどかった。私はだんだんとそうした運動家と自分とを区別するために、正義と美的精神から運動というものを見ることを力調するようになった。しかし正義は野暮臭く、美は柔弱に見えるのを嫌うために、少しく変態的に「意気地」というような形をもってそれは表われた。
すなわちただの級長的方正ではないぞと言うところから、学校当局への反抗的なポーズとなり、又美の要求を柔弱性と見られないために、ひとつの男らしさの一属性として、つまりギャランテリーとして追うて行こうとするようになった。
修業式の賞品授与式の時に、大てい品行方正、学業優等、勤勉超衆とくっついてるのだが、私のだけはいきなり学業優等きりで何も無いので、賞品を受けに出ると皆どっと吹き出した。しかし私は顔も赤くせず内心得意であった。
私のクラスに堀野伴市という運動家があった。これは正気会の幹事でクラスが一番勢力があった。この男は確かに私に牽制されて、悪風に堕ちることからすくわれていた。私は彼を美的精神に導こうと私かに工夫していた。私の考え付いたのはまず「百人一首」であった。私はやはり同じクラスの堀江太郎という「気はやさしくて力持ち」の少年と、も一人池上正夫という非常に優美なことの好きなクラスメートを語らって、柔道場の畳の上に「歌がるた」を並べて堀野を誘ってやりだした。池上君は女性のような少年で、美しい読み方をした。堀野はまるで拙かった。私はさんざん荒してやった。そこで負けず嫌いの彼は歌を暗誦しだした。そして「かるた」が非常に好きになり、技も見る見る上達した。そこで今度は池上君にすすめて、旧館内という屋敷町で娘たちを集めさして「かるた会」を開いて、堀野を誘った。堀野は娘たちの前では意気地がなかった。尾道での私の訓練がものを言った。私は会をリードした。堀野は私たちにいわば文化的に圧迫を感じて、自分の野蛮性を美化しようと志すようになった。彼は優美への趣味を目ざました。「かるた会」が好きになった。
或る日堀野が私にちょっと来いと言うので、博物教室に行って見ると、彼は誰れも居ない教室のボールドに、チョークをとって、
Let me open your flour-gate with my keet と書いて、ニコニコしながら、
「どうだ。いい文句だろう」
と言った。
「いい文句だね」
と私も合槌を打って、ニッコリした。
私は彼の中に優美なものが目ざめつつあるのを知って喜んだ。彼一人がそうなることはクラスの平和のため、気風のために大変好かった。
Won't you go to play card? と彼の二階の部屋の窓の下で声をかけると、
Yes, I'll. と、返事して、一寸顔を出して、すぐ下りて来るのであった。
私たちはグレスフリーという語を使った。「最高学府の生徒はレディに対してはグレースフリーでなくてはならぬ」
かるた会の席で娘たちに失礼なことを言うものがあると、堀野が一番に顔をしかめるようになった。
しかし私たちはそうして「かるた」を夜明しでとりながら、すぐその足で二十丁ある学校へ寒稽古に通ったのであった。そして授業の初まるまでには汗びっしょりになって、それで優等生でなくてはならないのだ。
私はその頃の「かるた会」の事が忘れられない。
私たちはギリシャ的精神の中で武と文とを追っていたのだ。
旧館内というのは元の士族町のことでひっそりとしていた。かわるがわる読み役になる者は優美な読み方を工夫せねばならなかった。初めに空札一枚読むのに用いる歌をめいめい工夫して来たものだ。鈴木秀一という郡長の令嬢の秋子さんというのも常連の中にいた。この郡長は学校の式の時の最高官吏で、来賓総代で祝辞を述べるとき、いつでも「臣秀一」といった。その厳めしい郡長の令嬢は私たちの「かるた」仲間で脱線的な、活々した娘であることが私たちにはおかしく楽しかった。
かるた会がはねて興奮した顔を、夜気に冷して、郷の川に長く渡した巴橋に来ると、雪が真白に積んでいる。
白きを見れば夜ぞふけにける と誰れかが言うと、急に寒さを催して、外套の襟を立てながら私たちは家に帰るのだ。
宗藤では勿論叔父の機嫌が悪い。こんな時には叔母がそっと起きて、戸をあけてくれたものだ。
妹の重子は叔父がやかましいのでかるた会へは殆んど出ず、たまに出ても技も拙く、そして着物が羽織だけ他所行きでちぐはぐだったりして、私は裏悲しかった。何故なら彼女は桃の華のように美しく、性質も勝気で、頭もよかったから、家さえ自由であるなら、当然この小さな社交界の花形となるに相違なかったからだ。
私がこの陰鬱な、しみったれた環境にいつつ、常に三次で文化的な明るい、第一線に立ってることが出来たのはどうしても私の内なる生命力によったものだと思わずにはいられない。
その頃校内で、私のそうした、美と正義とに伴われた雄健趣味を満足させるような出来事が起った。
それは上級生の運動家で、男色家で、校内で一番幅を利かせていた野蛮な、横田という寮生を、吉本という通学生の硬骨漢が発頭になって、同級生一同とはかって校庭でリンチした事件であった。この横田という男は横暴の極同級生さえ撲っていたのであった。そして寄宿寮では美少年たちを脅やかしては弄んでいた。
リンチは私の目の前で行われた。
初め昼食後の休み中吉本君は校庭に横田君を呼んで、
「皆が君をストライキするというがどうする?」
と言った。彼は木刀を懐にしていた。
「止むを得ん」
と横田は答えたが顔色は青かった。
吉本君はいきなり木刀で横田君の頭を打つと、
「みんな来い来い」
と招いた。たちまちにして方々から同級生たちの姿があらわれ、横田君は仆されて、頭を抱えて地上に横たわり、皆がとり囲んで足蹴にした。その中にはいつも柔和な人たちの顔も見えた。
横田君の仲間の数名の寮生も同時にリンチされ、これはほうほうの体で寄宿寮に逃げ込んでしまった。
生徒監たちは駈けつけたが手が付けられなかった。
リンチが終ると、その級の人たちは、「皆講堂に集まれ集まれ」
と呼び廻った。そして全校生徒は校当局からのふれの如くに、講堂に集まった。
吉本君はどもりであったが、壇上に立って、今日横田をリンチした理由を述べて、反対の者は言えと言った。
反対を申し立てるものは無かった。
生徒監や、日頃叱咤する体操教師たちは講堂に侍立してるだけで、この非合法の集会を解散させることは出来なかった。
全校生の賛成でリンチした事になってしまった。
それから校当局の処分になったが、横田、吉本両君共二週間の停学という事になり、以下それぞれ一週間位の停学で結末となった。
その後は横田君は運動も止め、全然気勢あがらず、冬は火鉢にもあたれず、クラスメートから絶交されたまま、ともかく学校を卒業することだけはさせてもらった。
この出来事は非常な、強い印象を私に与えた。
私の感情はこの出来事を支持した。横田君のような型の運動家は私の憎む所であったし、それに彼は私に無礼なことを言った事があったからだ。私がまだ一年の頃彼は野球選手であったが校庭で私を穴のあく程見つめていたが、その態度がオフエンシヴなので私はひどく不快であった。後でN君に聞くと彼は、
「あいつはなる程シャンだ。寮にいるのならきっとやってやるんだが」
と言ったそうだ。
私はむらむらと敵愾心が起った。それに私の前に同級生のSという美少年が、この男の寵を得て居るのを笠に着て、級中で威張るのが不潔で、不快でならなかった。
そうしたわけで私はこの事件を感情的には支持したが、考えて見れば、色々な疑問が群起するのであった。
それは正義と力というものとの関係に就いてであった。
第一に吉本君が立たなければ、横田君の二週間の停学に価する罪は咎められずに済んだのだという奇怪な事実である。撲られたという被害によって、罰が生ずるわけはない。しかるに事実は撲った吉本君等を罰しなければならないところから、その釣り合い上横田君らの罪悪がとりあげられたのだ。横田君たちを処罰しないで、吉本君らのみを罰するなら全級が同盟休校すると主張したからだ。その結果双方が、喧嘩でなくして、リンチであるから、横田君らは撲られただけであるにかかわらず、同じ二週間の停学というのも私には正しい裁きとは受けとれなかった。それなら校当局は何故二週間の停学に価する横田君らの行為をこれまで見逃して来たのであろうか。私の正義感は満足しなかった。
そこにはどうしても力が正義を左右するという事実を見ないわけに行かなかった。横田君らの如く正義をくらますためにも、吉本君らの如く正義を貫くためにも力が必要であったのだ。そして私たちに倫理を教えるところの校長はじめ先生達もその力に左右されたのだ。
この事件が私の一生涯に与えた影響は実に深刻なものであった。
というのは私の求道の出発というものは、後に詳しく書くが、善とは何か? という問いであったのだ。一体何が正善であるのか。私は正善の実行者であり、味方でありたい。だが何が正しく、善いかが解らなくては去就に迷わざるを得ぬ。しかし吉本君のリンチ事件が示すようになかなかその判断は容易ではない。世相を見れば見るほどその疑いは深い。
私のこうした疑いの種はこのリンチ事件の時に深くまかれた。その裏には邪悪が正善に勝ってはならぬという私の、恐らくすべての人間性の、先験的な要請があったのだ。そして私のこの要請は人並み以上に強く、鋭く、それは父から受けついだ臆病な心臓にともなうた肉体的とも言うべき感覚であった。すなわち善いものが悪いものに虐げられているのを見ると、胸がドキドキして感覚的苦痛になるという遺伝であった。
校庭でリンチの光景を見た時私の胸が慄えていたのは言う迄もない。ただこの時は私にとっては善いものが悪いものを懲らしめているという満足感があった。それが宗教的の至聖なものでないにしても、ともかくも私には正義的な喜びを与えたのだ。寧ろ私を不満にさせたものは校当局の、先生達の、――裁くものの公正への疑いであった。これは一体世界に裁きというものがあるのか、神の審判はあるのかという宗教的の恐しい問いにまで発展するものであった。
実に正しき裁きを求める心は人間性の至深の要素である。キリストも、日蓮も、天理教祖も、カントもこれを求め、そして信じずにはいられなかった。たといカントに於ては、これは「単なる理性の領域に於いての宗教」に限ろうと自ら努めはしたけれども。
仙台萩の忠臣片岡外記はこの正しき裁きをもとめて、仁木弾正と合拷問にしてくれと公儀に要求した。自分は老いぼれの身の、壮齢の仁木に勝つべくもないのに、この悲壮な訴えをせずにいられなかったのだ。
私は年少の頃からこの要請を強く持ちつつ今日に至って、なおその人間性に於ける不滅の尊さを感じる。この要請あることが人間の高貴性の証なのである。あるいは国際正義に対し、国法と文化との問題に対し、目前には支那事変に対し、この正しき裁きの要請なく発言し、行動することは私たちには出来ない事だ。
真理の護持、その傷害に対する公けの憤りもこの正しき裁きを求める心の強いだけ、熱情を帯びるのだ。それは詩人的な激情のあらわれも、哲学者らしい冷徹なあらわれもあるが。
私はこのリンチ事件が、こうした意味で、種々の深刻な問題を含んでいたのだという事が今にして解る。
それは暴力の問題、校則という律法の問題、刑罰の問題、教育者の責任の問題、公法に対する自治的制裁の問題、そして少年の純潔と貞操の問題など厳粛な意味を多分に持っており、それがいちいち鋭敏にまじりなき年少の私の良心を刺戟したのであった。この事件は私に批判と、権威への反叛との精神を目ざめさした。
私は校当局に対し、師長に対して、或る意味で生意気な、不遜な生徒となりつつあった。従順な、素直な、坊ちゃんらしい少年だった私は、批判的な、多少拗ねものの、反抗的な、少年になりだした。演壇に立てば校当局や、先生達を公然と批判し、ややもすれば同盟休業をも煽動しかねまじき少年にかわった。学業は優等でありつつも、品行は丙を付けられ、勿論級長は辞めさせられ、生徒監の体操教師は私を憎んだ。この生徒監の冷やかな憎みは私が卒業する日までつづき、卒業生の首席は校旗を手にし送別の写真の中央にうつり、総代として告別謝恩の辞を述べる前例を破って、私はそれを許されず、隅っこに腕を拱いてすね者のようにうつっており、校旗は次席の級長が持ち、挨拶も彼がした。私は冷笑しつつも心中不平であった。五年の功を積んだ晴れの日の名誉感が傷ついただけでなく、不公正への憤懣があった。
しかし操行点は丙なのだろうと思ってたが、どうしたわけか卒業の時だけ甲になってたのは皮肉であった。