帰宅
俊夫君と豊さんが自動車で送られてくると知って、私たちはどんなに待ったことか、それは皆さんにも想像ができることと思います。ことに富田さんは、最愛の一人息子が、とにもかくにも、無事で悪漢の手から帰されたときいて、限りなく喜ばれました。私も俊夫君と会えるのですから、じっとしてはおれず、室の中を歩きまわりました。小田刑事も私たち二人の喜ぶ姿を見てにこにこしておられました。
やがて、待ちどおしい時間もついに過ぎて、表に自動車の止まる音が聞こえました。私たち三人は言い合わせたように走りだしました。
それから!
富田さんは豊さんを抱きあげ、私は俊夫君の手をとりました。
「兄さん、豊さんは賢いよ。ちっとも泣かなかったから」
俊夫君はこう言って取り乱した様子もせず富田さんにお辞儀をし、さらに言葉を続けました。
「兄さん、本当に心配かけたねえ。Pのおじさん、どうも色々ありがとう」
「いや、びっくりしたよ」
と私たちがあまりの嬉しさに物の言えないことを察して小田さんが言いました。
「でもよく悪漢たちは、君ら二人を無事で帰したねえ?」
「彼らは金さえ取ればそれで目的を達したわけですから、僕ら二人には用がなくなったのです。けれど」
と言って俊夫君はさらに語気を強めて言いました。
「悪漢たちは、もう僕に用がなくなったかもしれぬが、僕はこれから彼らに用があるのです!」
「え?」
と私はびっくりして言いました。
「では、君は悪漢を逮捕するつもりか」
「もちろんさ、だからぐずぐずしてはいられない。さあ、皆さん、とにかく、事務室へ来てください」
こう言って俊夫君が真っ先に家の中に入りましたので、私たち三人と、俊夫君たちを送ってきた小田さんの部下の警官二人とは続いて事務室の中へ入りました。
私が中へ入るなり、俊夫君は言いました。
「兄さん、さっそく顕微鏡の用意をしてくれ。むこうで取ってきた塵埃を検査したいから」
私は大急ぎで用意しました。
「皆さんと話しながら、検査したいから、この机の上へ持ってきて、電球を取りかえて、検査のできるようにしてくれないか」
やがて用意ができると、俊夫君はポケットから皺になった紙包みを取りだし、その中の塵埃を、耳かきですくって、対物ガラスの上にのせ、顕微鏡でのぞきました。
「色々なものがある」
こう言ってしばらくの間、俊夫君は熱心に検査しておりましたが、程なく顔をあげると、その顔には満足の色が浮かんでおりました。
「さて皆さん、これから僕が今晩どんな目にあったかをお話ししましょう」
と別に疲れた様子も見せず俊夫君は語りだしました。そのとき豊さんは、お父さんの膝にだかれて、大きい眼をぱっちりとあいておとなしくしておりました。
「僕が富田さんからのお迎えだという自動車にとび乗るなり、自動車が動きだしたのではっと思った途端、中に乗っていた男が、僕に猿轡をかけ、眼かくしをしました。
僕はその時、これはたぶん悪漢たちが、僕の邪魔するのを恐れて彼らの住家に連れてゆくにちがいないと思ったので、よし、それならば、必ず彼らの住家を見つけ、彼らを一網打尽にしてやろうと決心しました。
しかし彼らもなかなか狡猾で、僕にその住家の位置を見つけられないようにと思ったのか、用もない道をぐるぐるまわったらしく、およそ一時間も過ぎたと思う頃、自動車が止まりました。眼かくしされているので、もとよりどこをどう通ったか分かりません。また、自動車の到着したところがどんな風な場所か分かりませんでした。
僕は彼らの一人に背負われて、その住家に連れこまれ、やがて二階の一室に入れられてはじめて、猿轡と眼かくしとをはずされました。見ると、その室の隅に一人の小児がうずくまっておりました。僕はそれが豊さんにちがいないと思ったので、『豊ちゃん』と呼ぶと、その子は軽くうなずきました。
僕はそのかわいそうな姿を見て思わず、『豊ちゃん、もう心配しないでもよいよ。僕がついているから大丈夫だよ』と言いました。すると、僕を連れてきた男は、『おいおい子供の癖に生意気を言うな』と申しました。見るとそれは四十ばかりの赤ら顔の男で、口髭を生やしておりました。
僕は黙ってにやにや笑っていました。するとその男は、『金さえ手に入れば貴様たちは帰してやるけれど、もし金が手に入らなければいつまでも擒にしておくから、そう思え』と申しました。
僕はしかし黙って、どうしたならば彼らの裏をかいてやることができるかとしきりに考えました。するとその男は、『じたばたすると承知しないぞ』と言い置いて階下へ行き、他の男と何やら語っておりました。
そこで僕は、まず室の中を見まわしました。室は六畳敷で床の間がついておりましたけれど畳は薄黒く古びて、塵埃がいっぱいたまり、汚い電灯がさびしくともっておりました。
僕はそこで、そっと雨戸に近よって節穴から戸外を見ると、はるか向こうに寺の屋根が見え、眼のまん前に寺の門が見えました。その他には何も見えなかったので、再び室の中に座ると、とつぜん近くに汽車の通る音が聞こえました。で、僕はその家が鉄道の付近にあることを知りました。
しかし、それだけでは市中か郊外か分かりませんでした。そこで僕はじっと考え、ふと、いいことを思いつきました。それはもし畳の上の塵埃を集めてその中に何があるかを検べたなら付近にどんな工場があるか分かるだろうと思ったのです。
東京の家の塵埃はたいてい付近の工場から来るものです。僕は手早く手帳の紙を破り、畳の上の塵埃をできるだけたくさん手で集めて包みました。
それからおよそ何時間たったかよく分かりませんでしたが、一人の客がその悪漢たちの住家に入ってきました。話し声を聞くとどうやらそれは女らしく、しばらくすると、その声の持ち主が梯子段を登ってきました。そうしてその人が襖を開くなり、豊さんは、『あッお母さん』と言って、そばに駆け寄ろうとしました」
この俊夫君の言葉を聞くなり、富田さんは思わず立ちあがろうとしました。
「え? それでは、あの妻の常子が? 豊、本当か?」
と言って、膝の上の豊さんに尋ねました。
豊さんは、ただ黙って頷くだけでした。
「そうです、まさしく豊さんのお母さんでした。そうして今度のことは、お母さんと僕を背負って連れてきた男とが主になって、あなたから三万円の金を奪って神戸まで高飛びし、それから支那へでも渡る計画らしかったのです」
「そうとはちっとも気がつかなかった。豊、堪忍してくれ、お父さんが二度目のお母さんを家へ入れたのが悪かった」
こう言って富田さんは、
「それからどうしました?」
と俊夫君に尋ねました。
「それからお母さんは豊さんに向かって、『お前がいつもお母さんを嫌うから、こういう目にあうのだよ。お母さんはこれからよそのおじさんと一緒にいい所へ行くよ。ここにお父さんのお馬鹿さんからたんまり取ってきたお金があるからね』と言いながら懐をたたきました。
僕はあまりに癪にさわったから、いきなり豊さんのそばへかけより、豊さんを抱きあげてお母さんに押しつけ、『抱いておあげなさい』と言いました。すると、お母さんはいよいよ怒って僕らをはねのけながら、『おいおいもう、こんな子供たちに用はないから、S橋までつれていって捨ててきてくれ』と階下の男に申しました。
やがて僕らは猿轡をかまされ、眼かくしをされて再び自動車に乗せられ、S橋で下ろされました。そうして松の木にしばられ、幸いに皆さんに見つけられたわけです」
ここまで語って俊夫君は一息つきました。みんな固唾をのんで聞いていましたが、そのとき小田さんが言いました。
「それじゃもう今頃は、悪漢たちは逃げてしまっただろう」
「いいえ大丈夫逃げはしません。これから皆さんと一緒に逮捕にゆきたいと思うんです」
「どうして逃げないと分かるね?」
俊夫君はだまって内ポケットから、風呂敷包みを出し、富田さんの方へ差しだし、
「中を見てください」
と言いました。富田さんは豊さんを下へおろして、包みを開きましたが、それと同時に、
「あッ、妻が持っていった三万円だ!」
と叫びました。
「そうです。それからこれを見てください」
と言って汽車の二等切符を四枚ポケットから出して小田さんに渡しました。
「神戸行か、なるほど。だがどうして、君は三万円を取り返した?」
と小田さんは尋ねました。
「豊さんを抱きあげ、お母さんに押しつけて怒らせたとき、僕は僕のもっていった新聞紙を包んだ風呂敷包みとすりかえたのです。僕はこれでもすりの研究をしたことがあります。今まで一度も応用したことはなかったですが、暴にむくゆるには暴をもってすべきだと思い、今夜はじめて役に立たせました」
「で、君はどうして彼らの住家を知るつもりか」
と小田さんは俊夫君の機敏を褒めてから尋ねました。俊夫君は、再び顕微鏡をのぞいて言いました。
「むこうの家の塵埃の中に、小麦の粉とカルシウムと粘土(すなわちセメント)の粉とがまじっているのです。ですから製粉会社とセメント会社が近くにあって、しかも鉄道が通っているところです。多分それだけで、あなたたちには分かるはずです」
すると小田さんの部下の一人は、
「それなら日暮里です」
と言下に答えました。
「では日暮里のお寺を捜せばよい」
と俊夫君は得意げに言いました。
それからどんなことが行われたかは、皆さんにもほぼ想像がつくと思いますから、詳しくは申しません。豊さんのお母さんはじめ、三人の悪漢は、小田さんたちの手で難なく捕らえられてしまいました。
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