35 老いた孤独なギター弾きと 帰郷した女王にとって いったいそれに どんな意味があるというのか
〈デイドリーム・ビリーヴァー〉
ジョン・ステュワート
(キングストン・トリオ)
弦の張り替えは、通常、だれにでもできる作業といってよい。
だが、ギターによっては、やっかいな場合がある。このJ-160Eはそのひとつで、アクースティックに不慣れな慶一は、悪戦苦闘を強いられ、おかげで、雑念は吹き飛んでしまった。
ブリッジ側で弦を押さえているのは、ただの象牙の棒で、これを穴に差しこんで弦を押さえこめば、十中八九、おとなしく収まってくれることになっている。
だが、押しこみ方が悪いと、弦の張力が増すにつれて、徐々に頭をもたげてきて、それに気づかずに巻きあげていくと、最悪の場合、ためこまれた張力で、象牙のピンは、ミサイルとなって発射されてしまう。
慶一は、ヴェランダにしゃがんで、あちこちを見まわしていた。
どうして、象牙なんてものを使うんだ。象牙のピンがまた手に入る保証はない。コンクリートに当たった音がしたから、まだこの周囲にあるはずだ。
「なにやってんの」
その声におどろいて、慶一は顔をあげた。ワラが、テーブルの下の慶一をのぞきこんでいる。
「落としもんだよ」
「コンタクト・レンズかなんか?」
「もっと、どエライもんだ」
「令子ちゃん、慶一はいそがしいみたい」
おどろいて、慶一は急いで起きあがった。テーブルに頭をぶつける、なんてドジを踏まないようにと注意したまでは上出来だったが、ギターを立てかけてあったのを忘れていた。
「あー!」
ネックとヴェランダの床が、三〇度ほどの角度をつくったところで、かろうじて慶一の右手が五フレットのあたりをつかんだ。
ペグから解き放たれていた数本の弦が、ピアノのなかで猫がヒステリーを起こしたような音をたてた。
「命拾いしたぜ」
「なに、大騒ぎしてんのさ」
慶一はひたいに汗をかいていた。
「人間の命は地球より重いとしたら、人間より価値があるギターは、どうなるのかな」
「きょうはみんな、頭がおかしくて、疲れますよ。なにいってるのか、全然わからないもの」
ワラが令子を見かえって、ボヤいた。
ワラも、高志とおなじく、今晩はヴォランティアのボーイをやっているらしい。令子を送りとどけると、すぐに去った。飲み物もおいていってくれたが、高志の指示で、アルコール類はない。
じぶんが、はじめてデイトした中学生のような話し方をしているのを、慶一は意識していた。そういう気分になる環境がととのっているのだから、それもしかたない。
「むかしはさ、夜はなんにも見えなかったけど、昼間は、ここからの眺めは最高だった」
「ええ、そうだろうと思っていたわ。こんなふうになるまえに、見ておきたかった」
音楽室から、レセプション、バーベキュー、余興のヴィデオまで、なんのわだかまりもなく、二十四年の空白もなく、ごく自然に話していたのに、いまは、うまくことばが出てこない。
「高志は、ほしいものはかならず手に入れた。この部屋もそうだ」
あまり確信がなさそうに、令子は口のなかで、そうね、とつぶやいた。
サロンの方向から、厚みのある笑い声がまわりこんでくる。みんなも、これからがほんとうのパーティーだ。朝まで大騒ぎだろう。近所から苦情がこないといいが。むかしとちがって、いまはご近所サマが、至近距離でひしめきあっている。
「高志が六月に、きょうのパーティーのことで電話してきてさ、それから、へんなんだ」
「なにが?」
「不思議の国に落ちこんだ気分」
「八年ぶりの日本も、そうとうにワンダーランドよ」
「そうだろうね。でも、もっとずっと昔のことを考えていたんだ。二十五年まえのね」
「兄さんのこと?」
「それもそうだけど、令子ちゃんのことだよ。六六年の夏休みに、みんなで馬車道に、ビートルズの二本立てを見にいったの、憶えてる?」
「もちろんよ。もう映画じゃなくて、スティルみたいにしか思いだせないけれど」
「おれもそうだよ。五、六枚のスティルが見えるんだけど、その一枚は、令子ちゃんが目を泣きはらしているんだ。それに、〈ルーズ・ザット・ガール〉が聴こえる」
令子は記憶をたどっているような顔で、なにもいわない。
「高志に電話もらってから、『ア・ハード・デイズ・ナイト』のヴィデオをまた見たんだ。全然そういう映画じゃないのに、あのステージのシーンで、中学生ぐらいの女の子が泣いているのを見てたら、いきなり涙が出てきた」
「思いだしたわ。あのシーン……」
「おれとしてはさ、ああいう女の子たちの大騒ぎは、あんまり好きじゃなかった。彼らがスタジオにこもったのは、ひとつにはあれが原因だし。でも、あの子を見て、納得がいったよ」
「納得なんかしないで。理屈じゃないんだから」
「そうだけどさ。でも、あれは、ある意味で、当時のおれでもあるんだ。女なら、ああしていただろう。聴くまえに、まず感じることができたのは、あの時代に生きた子どもだけだ」
「ええ。いまは感じるんじゃなくて、聴くんでしょうね。音楽だもの。それでよかったのよ。あの来日なんて、大人たちにまでマイナスの感応が起こって、日本が大嫌いになったわ」
考えてみると、あのころの子どもたちの大部分は、最低の国に生まれたと思って生きていたような気がする。
いまでは、国というのは、すべて最低なのがわかっているが、それで、日本国が好きになるわけではない。あの大人たちの悪鬼の表情、知性のかすかな徴候すらない醜悪な振舞いは、けっして忘れないだろう。
「たしかに、ただの音楽として聴けばいいのかもしれない。彼らが精魂をこめたのはレコードだからね。針をのせれば、いつでもそこにジョンの声がある」
「ええ、あの哀れな大人たちが死んだあとも、ジョン自身が死んだあとでさえも、ジョンの声を聴けるの。それで充分よ」
「でも、愚か者のことはどうでもいいんだ。おれがいおうとしたのは、令子ちゃんが泣いてから二十五年後に、おれも泣いたっていうことなんだ。……まあ、年とると涙腺がゆるむんだろうけど」
慶一は、あの静かに泣いていた少女をとおして、二十五年の時を飛び越え、令子のなかに入ったような気がしていた。
「ねえ、ワラさんにいわれたの。十一時になるまえに、部屋に入っているようにって」
令子は立ちあがり、慶一の肩に手をかけた。どういう意味だろう。
部屋には、応接セットがなかった。いくつか、折り畳みイスが壁に立てかけてあるだけだ。
令子はごく自然に、三つあるベッドのひとつに慶一をいざなう。
慶一は、こんなことをスムースにやる、じぶんたちの年齢を思わずにはいられなかった。
あとでギターを片づけなくては。あれは、まだギブスンがギブスンだった時代につくられた、正真正銘、徹頭徹尾ほんもののギブスンだ。もう、ヴィンティジ・ギターといえる。
ふたりが腰をおろすと、それを待っていたかのように、スピーカーから音楽が流れだした。
マンフレッド・マンの〈ドゥ・ワ・ディディ・ディディ〉だ。ヴァースに入るやいなや、ヴォリュームがしぼられる。
「グディーヴニン、ディス・イズ・ザ・リインカーネイション・オヴ・KWTS。予定にないことですが、これから、特別プログラム、KWTSファッキン・ラスト・ナイトをお送りします。プログラムに入るまえに、KWTSのレジェンダリー・ファウンダー、一期の浅井高志から、お話があります」
伝説の創設者がおかしかったのだろう、オフマイクの笑い声がきこえる。
「これは、わが局創設以来、最初にして最後の深夜放送です。われわれの手もとには、百枚近いCDがあります。今夜は、まあ、オールナイトとはいかないですが、二時ぐらいまでは、あのころのヒット曲を、このクソッたれな最終回を呪って、どんどんかけるつもりです。インターフォンは生きていますから、リクエストを受けつけます。ワラ、ちょっと、そこのCDを紹介してくれ」
「えー、基本的には、六〇年代中期のものです。ビートルズは『ラバー・ソウル』まではそろっています。『ザ・ブリティシュ・インヴェイジョン』なんていう四巻ものとか、ずばり『ビルボード・トップ40』なんてオムニバスもあります。ビーチボーイズは『ペット・サウンズ』『トゥデイ』『エンドレス・サマー』の三枚、ストーンズは『ホット・ロックス』があります。もちろん、シルヴィー・ヴァルタンも、ナンシー・シナトラもあります! そんな感じで、あのころの雰囲気がでるよう、いってみましょう。じゃ、部長、いってよろしいですか。お許しがでましたので、レッツ・キック・イット・オフ・ウィズ……ザ・キンクス! 〈ユー……リアリー……ガット・ミー〉!」
過負荷で歪んだギターコードが、ワラの紹介のうしろで荒々しい音をたてる。正確なタイミングで、ワラに入れ替わって、レイ・デイヴィーズのヴォーカルが入ってきた。
「あいつら、これをやるつもりだったんだ……」
無意識のうちに、慶一はかたわらの令子の背に腕をまわし、抱きよせる。
「この曲が、メランコリックに聴こえる日がくるとはね……」
慶一は、突然、おそろしいことに気づいた。
「たいへんだ!」
「どうしたの」
立ちあがった慶一の腕から、令子の手がすべり落ちた。
足早にスピーカーのほうに歩みより、慶一はインターフォンのボタンを押す。
天井のスピーカーから、咳払いがひとつ。
「帳場です。もうおしまいですか。五分でも、二時間でも、おんなじ――」
「バカヤロ。まだ、はじまってない」
「ちょっといそがしいけど、介添がいるなら、いってやるぞ。どうぞ」
「このヒヒじじい。おまえ、覗きをやってないだろうな。どうぞ」
「きみもよく知っているように、局にいないかぎり、こうして話す方法はない。どうぞ」
「だから、危ねえの。これが生きてるってことは、おまえ、好きなように、この部屋のようすをきけるってことじゃないか! 変態! どうぞ!」
「それは、きみの被害妄想です。そんなことを気にしていると、インポになるぞ。どうぞ」
「――失礼、トムです。あのさ、慶一。ぼくがここにいるから大丈夫。それに、いそがしくて、それどころじゃないよ。じゃあ、ほかの部屋から呼出しがあるから、チャネルをあけてもらうよ。グドラック! ハヴ・サム・ファン」
あきらめて、令子のところにもどりかけると、また一小節で思いだせるイントロが流れだした。十二弦のリードに、これまた十二弦のサイドが、重いアクセントをつける。
「ディス・ソング・イズ・デディケイティド・トゥ・ザ・レイト・グレイト・ジーン・クラーク。ザ・バーズ、〈(トゥ・エヴリシング・ゼア・イズ・ア・シーズン・)ターン! ターン! ターン!〉」
なにいってんだ。故ジーン・クラークに捧ぐだと?
ちょっと迷ったが、慶一はまた呼出しボタンを押した。
「しつこい奴だな。二回目が終わったからって――」
「うるさい。いまのはどういうことだ。ザ・レイト・グレイト・ジーン・クラークってのは?」
「おれも、さっきワラにきいたところだ。まえの晩に自宅でレコーディングをして、バックトラックだけのこして死んでいたんだとよ。五月ごろの話らしい」
「死因は?」
「発表は心臓発作ってことだけど、例によって、くわしいことはわからない」
「もしあったら、〈フルサークル〉か〈ユー・ウォント・ハフ・トゥ・クライ〉をかけてくれないか。そのほうが、ジーンにふさわしい」
「わかった。『タンブリン・マン』はあるから、あとで〈クライ〉をかける」
慶一はあの曲を思いだし、「でも、そんなことは、以前にもなんどもあったこと」だから、「泣かなくてもいいんだ」と考えた。
「みんな死ぬ」
と、令子のいるベッドにもどりながら、つぶやく。
そんなことは、あまり考えたことがなかったが、これが歳月というものらしい。
慶一を微笑で迎えながら、令子がサイドテーブルのスタンドをつけた。このランプとテーブルにしても、外のデッキチェアにしても、どこからあらわれたのだろう。
「なにを考えこんでいるの?」
「『あらゆるものに、ふさわしいときがある』か。いまがそのときだと思う?」
「二十四年まえでしょう。でも、いまだって、わるくないわ。永遠にこないよりは、ずっといい」
十二弦のアルペジオのなかに浮かんで、慶一は令子におおいかぶさり、その唇にふれる。それは、慶一の予想に反して、長く、深い口づけになっていった。
「つづきがあるなんて、思わなかった」
令子はなにもいわずに起きあがり、複雑に交叉するサンダルのストラップをはずした。
まずいな、と思いながら、慶一は小さく笑ってしまった。
「なにがおかしいの。笑ってないで、あなたも靴を脱ぎなさい」
「だってさ、考えてみると、おれ、こういうのって、はじめてだ」
「なにがはじめてなの」
そういいながら、令子は慶一の足をもちあげ、スニーカーを脱がしていく。
「ベッドに転がりこんでから、靴を脱ぐってパターンだよ。むかし、映画で見たけど」
「安いホテルばかり使っているんでしょう。ちゃんとしたホテルなら、こうなるはずよ」
「まさか。その手の場所って、一回しかいったことないよ」
慶一は寝ころがったまま、令子の横顔をながめる。
この令子と、あの令子は、ほんとうに連続しているのだろうか。あまりにも深い空白のせいで、現実感がない。
いったい、おれたちはなんなんだ。恋人たちか。だとしたら、ずいぶん妙な話だ。
でも、高志と令子が共謀して、そういう芝居をしろというのなら、しばらくはつきあってみよう。むかしだって、みごとにだましてくれたじゃないか。
背中の下で、肩胛骨を突いているものの正体をたしかめようと、慶一は肩をもちあげ、右手でさぐった。
「どうしたの、ノミでもいるの?」
もっとずっと大きい。J-160Eのピンだ。助かった。
「コンクリートでバウンドしたからって、ここまで飛ぶかな」
「なあに。ノミの話?」
ピンをコットンパンツのポケットの奥に押しこみ、慶一は態勢をたてなおした。
「いいんだ。それより、あれから、どうしてたのか知りたいな」
「さあ……。あなたは?」
「べつに。大学入って、出たら石油ショックで、ちょっと髪を短くして、なんとなくそこらの会社にもぐりこんで、ほかの五三年生まれと同じく、景気がよくなったところで、もっと髪を短くして、もうすこし給料のいい会社に移って、結婚して、子どもが生まれて、離婚した」
「履歴書なら、年月日を書きこまなければダメよ。お子さんは何人?」
「ひとり。女。おれを憎んでる。あのうちじゃ、大悪人なんだ」
「なにか、悪いことをしたの?」
「ああ。会社に寝泊まりしてた」
「それは重罪ね。賞罰は終わったから、あとは趣味と特技」
「趣味は読書と音楽鑑賞。ただし、むかしのロックンロールにかぎる」
あれからさきの話もききたいが、とりあえず、外堀から攻めることにしよう。
「きみたちのことを話してくれないか。子どものころのことを」
「さあ……つまらないことばかり」
「それは、きかないとわからない。なんなら、二十の扉でやるかい。それは動物ですか?」
令子はクスクス笑っただけだ。この手に引っかかった人間はいない。
「小学校にあがった年だったわ、浅井のうちにいったのは――」
笑いながら、令子はそういい、慶一のほうに躰を回転させる。
スピーカーから、ブライアンのファルセットが流れてきたのを、慶一は意識の片隅で聴いていた。めずらしい曲をかけている。〈アイ・ドゥ〉だ。
「あいつは、いい兄貴だったんだろう」
「いい兄貴ねえ……。慶一さん、浅井のうちって、すこしはご存じ?」
「いや。それほどくわしくは……」
「高志兄さんのお母さんが、浅井の父の二番目の奥さんだってことは、知っているでしょう」
慶一は、なにもいわずにうなずく。
「上の兄たちは、絵に描いたような意地悪なんかじゃなかったわ。でも、年も離れているし、まったくの他人で、高志兄さんは “あいつら” って呼んでいたわ」
「姉さんがいたよね、たしか」
「ええ。佐和子姉さん。あの人だけは、高志兄さんをかわいがって、兄さんも、あの人にだけは、憎まれ口をいったりしなかった」
「てことはさ、厄介払いに、ここに押しこまれたわけか、あいつは」
「そうじゃないわ。浅井の父は、よくわからない、へんな人だけど、冷酷じゃなかったわ。子どもにあまり関心がないだけだと思うの。兄さんが、じぶんでここを選んだのよ」
「でも、あいつ、追い出されたような口ぶりだった」
「知ってるでしょう、兄さんの話に飾りが多いのは」
「たしかにね。飾りが多すぎて、いつも本体が見えなくなる」
「姉さんがオリンピックの年に結婚して……わたしが四年生のとき。兄さん、がっかりしてた。わたし、兄さんにいじめられたことなんて、あまりないけど、あのころだけは、よく泣かされた。知ってるでしょう、あの口の悪さ」
慶一は笑った。ひょっとしたら、令子よりよく知っているくらいだ。
「でも、しばらくすると、こんどは猫っかわいがりに、わたしのことを甘やかしはじめたのよ。映画にもよくつれていってくれたし、いろいろなものを買ってくれたり、写真を撮ってくれたり、ものすごかったわ」
「高志がそういうふつうの反応を示したってきくと、安心するな。精神分析でいう、補償ってやつだ」
「だとしても、ふつうじゃなかったわ、あれは」
「それについても、あいつらがいってる。補償ってやつは、過剰になるんだ」
「でも、大きくなったら、結婚しようっていうのよ」
「へえ。それで、そのプロポーズはどうなったの?」
令子は笑いだした。
「あのころのわたしたちを知らないから、へんに思うでしょうけど、わたし、兄さんと結婚するつもりだったのよ。それも、高校を卒業したらすぐにって、決めていたわ」
慶一は、相づちに困って黙りこんだ。
とにかく、失われたパズルの断片がひとつ見つかった。そして、それは想像したとおりの形で、きちんと絵のなかにおさまったことになる。
「ねえ、慶一さん。ハガキを送ったのに、どうして返事をくれなかったの?」
あの年の八月に絵はがき、十二月にクリスマスカード、それからたしか翌年と、令子は慶一に三枚のハガキを送ってきた。
「だって、それは……冗談だろ。わかってたんじゃないのかさ」
「いいえ。きっと慶一さんは怒ってるんだろう、ぐらいしか考えられなくて」
慶一はベッドの上に起きあがり、令子を見つめた。
「そんなものか……口にだしていわなくちゃあ、わからないよな」
いぶかしげな視線を向けながら、令子も上半身を起こし、ヘッドボードにもたれかかる。
令子がとなりに坐っていることと、あのときの喪失感が正面衝突し、どちらも道をゆずらないため、すべてが非現実的に見え、慶一は脈絡を失った。
「どうしたの。ちゃんときいてるから、つづけて」
「うん。でも、そのまえに、まだいってなかったことをいっておかないと」
令子は、じぶんのひざのあたりに向けていた視線を、ゆっくりと慶一のほうにふりむけた。
「会ってみてわかったんだけど、もういちど、どうしても会いたい人間なんていうのがいるとしたら、それは令子ちゃんだったって、そう思った」
「ただし、こんなおばあさんじゃなくて、十二か三の女の子のことね、それは」
「まあ、半分は」
さきに令子が吹きだしたので、慶一も安心して笑い声をあげた。
「おたがいさまよ、それは。わたしも、もういちど天使のような頬をした子に会いたいもの」
「まあ、どっちかひとりだけ、若いままでいなくてよかった」
「ほんとうね。それで、さっきの質問の答?」
「ああ。あのときは、いろんなことがいっぺんに起こったし、おれは子どもだったし、いま考えるとスジがとおらないんだけど、もう、令子ちゃんのことは考えちゃいけないと思ったらしい」
「なぜ? わたし、あれから、長いあいだ、慶一さんのことを考えてたわ」
じぶんを守るように、慶一は頭板からずり落ち、ベッドに横たわった。
「……ウーン、高志がいなくなったことが、ショックだったんだよ。なんか、高志に悪くてさ……令子ちゃんには、たとえハガキでだって、二度と近づかないって決めたんだ」
「ひどい話ね。そんなことで無視されたなんて」
「そう意味じゃないんだ。この話は、あまりしたくない。自尊心の問題だから」
ノドにからんだ慶一の口調のせいか、令子は頭板を離れ、おなじように身を横たえ、慶一の首に手をかけた。
「わたし、あのときのこと、もうあまり憶えていないの。でも、ひとつだけ、兄さんのいったことをよく憶えているわ」
「また、本体じゃなくて、飾りの部分だ」
「まじめな話よ。わたし、もう慶一さんをだますのはやめましょうって、何回か兄さんにいったのよ。兄さんはそのたびに、『おまえは、じぶんで思っているより、ずっと慶一のことが好きなんだ』っていってわ」
「へえ。あいつ、天性の詐欺師だからな、くりかえしおなじ話をいいきかせることの効果っていうのを、よく知ってるんだ。ガキのときから、その手になんどもやられてる」
令子はなにも反論しなかったが、その沈黙には不満がこめられているようだった。
「とにかくさ、おれにはよくわからない、いろんな事情が重なっただけで、だれも悪意があったわけじゃないって、理性ではちゃんとわかっていたんだけど、やっぱり、いいようにあしらわれたっていうか……おれだけ子どもあつかいされて、ぎりぎりまで事情を知らされていなかったのが、すごくくやしかったのは、はっきり憶えている。そういうこともあって、返事を出したくなかったんだ」
「子どもあつかいっていうのとは、ちがうんじゃないかしら」
「そうかもしれない。でも、それまでの高志とのつきあいっていうのは、それが当然に思えるようなものだったんだ。おれが正しいか、まちがっているかは、関係なくね」
「兄さんに、それをきいてみたの?」
「いや。あのときにことに関しては、ひとこともきいたことがない。また、高志とつるんで遊ぶようになってからは、それが暗黙のルールみたいになったんだ」
「ああ、わかった。十三歳で死んじゃった、かわいそうな女の子がいた、でしょ」
「いや。死にもしない。はじめから、高志もおれも、そんな子の存在は知らないんだ。すくなくとも、高志とおれがいっしょのあいだはね。ひとりのときに、なにを考えたかはべつさ」
「慶一さんは? どんなことを考えたの」
「……正直にいうと、ほとんど考えなかった。考えるようになったのは、この何年かのことだよ。たぶん、もう記憶をよみがえらせても、それほど危険じゃなくなったからだと思う。それと、年をとって、目のまえの女たちに幻想をもたなくなったこともあるかな」
「あら、じゃあ、わたしは季節はずれの幽霊? 出るんじゃなかった。幻滅ね」
令子の笑い声に自嘲の響きはなかったので、慶一も安心して笑った。
「こうなったら、正直の大安売りをしちゃうけど、おれもそれを心配してたんだ。それがさ、じっさいに会ってみると、そんなことはないんだ。きっと、ここにいると精神年齢が後退するんだろうな。なにも知らないガキにもどったみたいだ」
だれかがエアコンのスウィッチでも入れたように、開け放した窓から、いきなり冷たい風が吹きこみ、網戸をがたつかせた。
天気予報では、オホーツク海高気圧が南下してくるから、あすから涼しくなるだろうと、それがじぶんたちの手柄かのように、誇らしげに予告していた。
「あのとき、あいつ、こんな日がくることを考えていたのかな」
「あの人のことだから、絶対にそんなことはないとはいえないでしょうね。でも、兄さんて、むやみに用意がいいかと思うと、妙にいきあたりばったりのところもあるのよ」
「あれは、どっちだったのかな」
「わたしね、もう十何年かまえのことだけど、死のうと思ったことがあるの。ああ、これはもう終わった話だから、気にしないでね。わたしがいいたいのは、そのときに考えたことのほうなんだから」
ほんとうは、おどろいて、ききかえすべきなのだろうが、慶一はふしぎに冷静な気持ちで令子の話を受けとめ、それがあのときのことと、どうつながるかのほうが気になった。
「でもね、あれって静かに死ねないのよ。知られたくないことをほじくりかえされるでしょ。そのときに、兄さんのことを思いだしたの。あれは、たぶん自殺の一種だったんじゃないかって」
「……でも、そうだとしても、どうして?」
「兄さんに、きいてみたら? もう、暗黙のルールなんて意味ないでしょう」
「そうかもしれないけど……」
乾いた風と令子の体温のコントラスト、それに子どものころの記憶が、慶一の意識を押し流しはじめていた。
このまま眠れたら、たとえ二度と目覚めなくても幸せだろう。
「怒らないでほしいんだけど……おれ、すごく眠い」
一瞬、令子はことばを失い、すぐにやわらかな笑い声をもらした。
慶一は最後まで令子の笑い声をききとどけず、過去へむかってスライドし、プールのベンチに坐って、世界を染めあげるような令子の笑顔を見つめ、彼女を失う日のことを考える。
するどい、刺すような喪失感に襲われ、慶一は眠りの国からはじきかえされた。
「眠ってたらしい……」
「いいのよ、眠りなさい」
時間と因果関係が混乱したまま、令子がまだいることを確認し、慶一は安心と不安に同時に襲われ、なにか、もっとたしかなものがほしくなった。
「まだ、いてくれる?」
「ええ、よければ、ずっと」
「ずっと?」
「ええ」
もはや、十三歳の令子と、この大人の令子の区別はなく、慶一は東屋に坐って、令子と夏休みのことを話しあっていた。