Back
45回転の夏 第3章 フルサークル、1991年
Table of Contents
45回転の夏 第3章 フルサークル、1991年
鶴岡雄二
Reading Settings
Font size
18px
Theme
Light
Dark
Sepia
Eye care
Line spacing
Reading mode
Translation Pagera AI
Original Public Domain
Chapter 5 of 10

35 老いた孤独なギター弾きと 帰郷した女王にとって いったいそれに どんな意味があるというのか

〈デイドリーム・ビリーヴァー〉

ジョン・ステュワート

(キングストン・トリオ)

弦の張り替えは、通常、だれにでもできる作業といってよい。

だが、ギターによっては、やっかいな場合がある。このJ-160Eはそのひとつで、アクースティックに不慣れな慶一は、悪戦苦闘を強いられ、おかげで、雑念は吹き飛んでしまった。

ブリッジ側で弦を押さえているのは、ただの象牙の棒で、これを穴に差しこんで弦を押さえこめば、十中八九、おとなしく収まってくれることになっている。

だが、押しこみ方が悪いと、弦の張力が増すにつれて、徐々に頭をもたげてきて、それに気づかずに巻きあげていくと、最悪の場合、ためこまれた張力で、象牙のピンは、ミサイルとなって発射されてしまう。

慶一は、ヴェランダにしゃがんで、あちこちを見まわしていた。

どうして、象牙なんてものを使うんだ。象牙のピンがまた手に入る保証はない。コンクリートに当たった音がしたから、まだこの周囲にあるはずだ。

「なにやってんの」

その声におどろいて、慶一は顔をあげた。ワラが、テーブルの下の慶一をのぞきこんでいる。

「落としもんだよ」

「コンタクト・レンズかなんか?」

「もっと、どエライもんだ」

「令子ちゃん、慶一はいそがしいみたい」

おどろいて、慶一は急いで起きあがった。テーブルに頭をぶつける、なんてドジを踏まないようにと注意したまでは上出来だったが、ギターを立てかけてあったのを忘れていた。

「あー!」

ネックとヴェランダの床が、三〇度ほどの角度をつくったところで、かろうじて慶一の右手が五フレットのあたりをつかんだ。

ペグから解き放たれていた数本の弦が、ピアノのなかで猫がヒステリーを起こしたような音をたてた。

「命拾いしたぜ」

「なに、大騒ぎしてんのさ」

慶一はひたいに汗をかいていた。

「人間の命は地球より重いとしたら、人間より価値があるギターは、どうなるのかな」

「きょうはみんな、頭がおかしくて、疲れますよ。なにいってるのか、全然わからないもの」

ワラが令子を見かえって、ボヤいた。

ワラも、高志とおなじく、今晩はヴォランティアのボーイをやっているらしい。令子を送りとどけると、すぐに去った。飲み物もおいていってくれたが、高志の指示で、アルコール類はない。

じぶんが、はじめてデイトした中学生のような話し方をしているのを、慶一は意識していた。そういう気分になる環境がととのっているのだから、それもしかたない。

「むかしはさ、夜はなんにも見えなかったけど、昼間は、ここからの眺めは最高だった」

「ええ、そうだろうと思っていたわ。こんなふうになるまえに、見ておきたかった」

音楽室から、レセプション、バーベキュー、余興のヴィデオまで、なんのわだかまりもなく、二十四年の空白もなく、ごく自然に話していたのに、いまは、うまくことばが出てこない。

「高志は、ほしいものはかならず手に入れた。この部屋もそうだ」

あまり確信がなさそうに、令子は口のなかで、そうね、とつぶやいた。

サロンの方向から、厚みのある笑い声がまわりこんでくる。みんなも、これからがほんとうのパーティーだ。朝まで大騒ぎだろう。近所から苦情がこないといいが。むかしとちがって、いまはご近所サマが、至近距離でひしめきあっている。

「高志が六月に、きょうのパーティーのことで電話してきてさ、それから、へんなんだ」

「なにが?」

「不思議の国に落ちこんだ気分」

「八年ぶりの日本も、そうとうにワンダーランドよ」

「そうだろうね。でも、もっとずっと昔のことを考えていたんだ。二十五年まえのね」

「兄さんのこと?」

「それもそうだけど、令子ちゃんのことだよ。六六年の夏休みに、みんなで馬車道に、ビートルズの二本立てを見にいったの、憶えてる?」

「もちろんよ。もう映画じゃなくて、スティルみたいにしか思いだせないけれど」

「おれもそうだよ。五、六枚のスティルが見えるんだけど、その一枚は、令子ちゃんが目を泣きはらしているんだ。それに、〈ルーズ・ザット・ガール〉が聴こえる」

令子は記憶をたどっているような顔で、なにもいわない。

「高志に電話もらってから、『ア・ハード・デイズ・ナイト』のヴィデオをまた見たんだ。全然そういう映画じゃないのに、あのステージのシーンで、中学生ぐらいの女の子が泣いているのを見てたら、いきなり涙が出てきた」

「思いだしたわ。あのシーン……」

「おれとしてはさ、ああいう女の子たちの大騒ぎは、あんまり好きじゃなかった。彼らがスタジオにこもったのは、ひとつにはあれが原因だし。でも、あの子を見て、納得がいったよ」

「納得なんかしないで。理屈じゃないんだから」

「そうだけどさ。でも、あれは、ある意味で、当時のおれでもあるんだ。女なら、ああしていただろう。聴くまえに、まず感じることができたのは、あの時代に生きた子どもだけだ」

「ええ。いまは感じるんじゃなくて、聴くんでしょうね。音楽だもの。それでよかったのよ。あの来日なんて、大人たちにまでマイナスの感応が起こって、日本が大嫌いになったわ」

考えてみると、あのころの子どもたちの大部分は、最低の国に生まれたと思って生きていたような気がする。

いまでは、国というのは、すべて最低なのがわかっているが、それで、日本国が好きになるわけではない。あの大人たちの悪鬼の表情、知性のかすかな徴候すらない醜悪な振舞いは、けっして忘れないだろう。

「たしかに、ただの音楽として聴けばいいのかもしれない。彼らが精魂をこめたのはレコードだからね。針をのせれば、いつでもそこにジョンの声がある」

「ええ、あの哀れな大人たちが死んだあとも、ジョン自身が死んだあとでさえも、ジョンの声を聴けるの。それで充分よ」

「でも、愚か者のことはどうでもいいんだ。おれがいおうとしたのは、令子ちゃんが泣いてから二十五年後に、おれも泣いたっていうことなんだ。……まあ、年とると涙腺がゆるむんだろうけど」

慶一は、あの静かに泣いていた少女をとおして、二十五年の時を飛び越え、令子のなかに入ったような気がしていた。

「ねえ、ワラさんにいわれたの。十一時になるまえに、部屋に入っているようにって」

令子は立ちあがり、慶一の肩に手をかけた。どういう意味だろう。

部屋には、応接セットがなかった。いくつか、折り畳みイスが壁に立てかけてあるだけだ。

令子はごく自然に、三つあるベッドのひとつに慶一をいざなう。

慶一は、こんなことをスムースにやる、じぶんたちの年齢を思わずにはいられなかった。

あとでギターを片づけなくては。あれは、まだギブスンがギブスンだった時代につくられた、正真正銘、徹頭徹尾ほんもののギブスンだ。もう、ヴィンティジ・ギターといえる。

ふたりが腰をおろすと、それを待っていたかのように、スピーカーから音楽が流れだした。

マンフレッド・マンの〈ドゥ・ワ・ディディ・ディディ〉だ。ヴァースに入るやいなや、ヴォリュームがしぼられる。

「グディーヴニン、ディス・イズ・ザ・リインカーネイション・オヴ・KWTS。予定にないことですが、これから、特別プログラム、KWTSファッキン・ラスト・ナイトをお送りします。プログラムに入るまえに、KWTSのレジェンダリー・ファウンダー、一期の浅井高志から、お話があります」

伝説の創設者がおかしかったのだろう、オフマイクの笑い声がきこえる。

「これは、わが局創設以来、最初にして最後の深夜放送です。われわれの手もとには、百枚近いCDがあります。今夜は、まあ、オールナイトとはいかないですが、二時ぐらいまでは、あのころのヒット曲を、このクソッたれな最終回を呪って、どんどんかけるつもりです。インターフォンは生きていますから、リクエストを受けつけます。ワラ、ちょっと、そこのCDを紹介してくれ」

「えー、基本的には、六〇年代中期のものです。ビートルズは『ラバー・ソウル』まではそろっています。『ザ・ブリティシュ・インヴェイジョン』なんていう四巻ものとか、ずばり『ビルボード・トップ40』なんてオムニバスもあります。ビーチボーイズは『ペット・サウンズ』『トゥデイ』『エンドレス・サマー』の三枚、ストーンズは『ホット・ロックス』があります。もちろん、シルヴィー・ヴァルタンも、ナンシー・シナトラもあります! そんな感じで、あのころの雰囲気がでるよう、いってみましょう。じゃ、部長、いってよろしいですか。お許しがでましたので、レッツ・キック・イット・オフ・ウィズ……ザ・キンクス! 〈ユー……リアリー……ガット・ミー〉!」

過負荷で歪んだギターコードが、ワラの紹介のうしろで荒々しい音をたてる。正確なタイミングで、ワラに入れ替わって、レイ・デイヴィーズのヴォーカルが入ってきた。

「あいつら、これをやるつもりだったんだ……」

無意識のうちに、慶一はかたわらの令子の背に腕をまわし、抱きよせる。

「この曲が、メランコリックに聴こえる日がくるとはね……」

慶一は、突然、おそろしいことに気づいた。

「たいへんだ!」

「どうしたの」

立ちあがった慶一の腕から、令子の手がすべり落ちた。

足早にスピーカーのほうに歩みより、慶一はインターフォンのボタンを押す。

天井のスピーカーから、咳払いがひとつ。

「帳場です。もうおしまいですか。五分でも、二時間でも、おんなじ――」

「バカヤロ。まだ、はじまってない」

「ちょっといそがしいけど、介添がいるなら、いってやるぞ。どうぞ」

「このヒヒじじい。おまえ、覗きをやってないだろうな。どうぞ」

「きみもよく知っているように、局にいないかぎり、こうして話す方法はない。どうぞ」

「だから、危ねえの。これが生きてるってことは、おまえ、好きなように、この部屋のようすをきけるってことじゃないか! 変態! どうぞ!」

「それは、きみの被害妄想です。そんなことを気にしていると、インポになるぞ。どうぞ」

「――失礼、トムです。あのさ、慶一。ぼくがここにいるから大丈夫。それに、いそがしくて、それどころじゃないよ。じゃあ、ほかの部屋から呼出しがあるから、チャネルをあけてもらうよ。グドラック! ハヴ・サム・ファン」

あきらめて、令子のところにもどりかけると、また一小節で思いだせるイントロが流れだした。十二弦のリードに、これまた十二弦のサイドが、重いアクセントをつける。

「ディス・ソング・イズ・デディケイティド・トゥ・ザ・レイト・グレイト・ジーン・クラーク。ザ・バーズ、〈(トゥ・エヴリシング・ゼア・イズ・ア・シーズン・)ターン! ターン! ターン!〉」

なにいってんだ。故ジーン・クラークに捧ぐだと?

ちょっと迷ったが、慶一はまた呼出しボタンを押した。

「しつこい奴だな。二回目が終わったからって――」

「うるさい。いまのはどういうことだ。ザ・レイト・グレイト・ジーン・クラークってのは?」

「おれも、さっきワラにきいたところだ。まえの晩に自宅でレコーディングをして、バックトラックだけのこして死んでいたんだとよ。五月ごろの話らしい」

「死因は?」

「発表は心臓発作ってことだけど、例によって、くわしいことはわからない」

「もしあったら、〈フルサークル〉か〈ユー・ウォント・ハフ・トゥ・クライ〉をかけてくれないか。そのほうが、ジーンにふさわしい」

「わかった。『タンブリン・マン』はあるから、あとで〈クライ〉をかける」

慶一はあの曲を思いだし、「でも、そんなことは、以前にもなんどもあったこと」だから、「泣かなくてもいいんだ」と考えた。

「みんな死ぬ」

と、令子のいるベッドにもどりながら、つぶやく。

そんなことは、あまり考えたことがなかったが、これが歳月というものらしい。

慶一を微笑で迎えながら、令子がサイドテーブルのスタンドをつけた。このランプとテーブルにしても、外のデッキチェアにしても、どこからあらわれたのだろう。

「なにを考えこんでいるの?」

「『あらゆるものに、ふさわしいときがある』か。いまがそのときだと思う?」

「二十四年まえでしょう。でも、いまだって、わるくないわ。永遠にこないよりは、ずっといい」

十二弦のアルペジオのなかに浮かんで、慶一は令子におおいかぶさり、その唇にふれる。それは、慶一の予想に反して、長く、深い口づけになっていった。

「つづきがあるなんて、思わなかった」

令子はなにもいわずに起きあがり、複雑に交叉するサンダルのストラップをはずした。

まずいな、と思いながら、慶一は小さく笑ってしまった。

「なにがおかしいの。笑ってないで、あなたも靴を脱ぎなさい」

「だってさ、考えてみると、おれ、こういうのって、はじめてだ」

「なにがはじめてなの」

そういいながら、令子は慶一の足をもちあげ、スニーカーを脱がしていく。

「ベッドに転がりこんでから、靴を脱ぐってパターンだよ。むかし、映画で見たけど」

「安いホテルばかり使っているんでしょう。ちゃんとしたホテルなら、こうなるはずよ」

「まさか。その手の場所って、一回しかいったことないよ」

慶一は寝ころがったまま、令子の横顔をながめる。

この令子と、あの令子は、ほんとうに連続しているのだろうか。あまりにも深い空白のせいで、現実感がない。

いったい、おれたちはなんなんだ。恋人たちか。だとしたら、ずいぶん妙な話だ。

でも、高志と令子が共謀して、そういう芝居をしろというのなら、しばらくはつきあってみよう。むかしだって、みごとにだましてくれたじゃないか。

背中の下で、肩胛骨を突いているものの正体をたしかめようと、慶一は肩をもちあげ、右手でさぐった。

「どうしたの、ノミでもいるの?」

もっとずっと大きい。J-160Eのピンだ。助かった。

「コンクリートでバウンドしたからって、ここまで飛ぶかな」

「なあに。ノミの話?」

ピンをコットンパンツのポケットの奥に押しこみ、慶一は態勢をたてなおした。

「いいんだ。それより、あれから、どうしてたのか知りたいな」

「さあ……。あなたは?」

「べつに。大学入って、出たら石油ショックで、ちょっと髪を短くして、なんとなくそこらの会社にもぐりこんで、ほかの五三年生まれと同じく、景気がよくなったところで、もっと髪を短くして、もうすこし給料のいい会社に移って、結婚して、子どもが生まれて、離婚した」

「履歴書なら、年月日を書きこまなければダメよ。お子さんは何人?」

「ひとり。女。おれを憎んでる。あのうちじゃ、大悪人なんだ」

「なにか、悪いことをしたの?」

「ああ。会社に寝泊まりしてた」

「それは重罪ね。賞罰は終わったから、あとは趣味と特技」

「趣味は読書と音楽鑑賞。ただし、むかしのロックンロールにかぎる」

あれからさきの話もききたいが、とりあえず、外堀から攻めることにしよう。

「きみたちのことを話してくれないか。子どものころのことを」

「さあ……つまらないことばかり」

「それは、きかないとわからない。なんなら、二十の扉でやるかい。それは動物ですか?」

令子はクスクス笑っただけだ。この手に引っかかった人間はいない。

「小学校にあがった年だったわ、浅井のうちにいったのは――」

笑いながら、令子はそういい、慶一のほうに躰を回転させる。

スピーカーから、ブライアンのファルセットが流れてきたのを、慶一は意識の片隅で聴いていた。めずらしい曲をかけている。〈アイ・ドゥ〉だ。

「あいつは、いい兄貴だったんだろう」

「いい兄貴ねえ……。慶一さん、浅井のうちって、すこしはご存じ?」

「いや。それほどくわしくは……」

「高志兄さんのお母さんが、浅井の父の二番目の奥さんだってことは、知っているでしょう」

慶一は、なにもいわずにうなずく。

「上の兄たちは、絵に描いたような意地悪なんかじゃなかったわ。でも、年も離れているし、まったくの他人で、高志兄さんは “あいつら” って呼んでいたわ」

「姉さんがいたよね、たしか」

「ええ。佐和子姉さん。あの人だけは、高志兄さんをかわいがって、兄さんも、あの人にだけは、憎まれ口をいったりしなかった」

「てことはさ、厄介払いに、ここに押しこまれたわけか、あいつは」

「そうじゃないわ。浅井の父は、よくわからない、へんな人だけど、冷酷じゃなかったわ。子どもにあまり関心がないだけだと思うの。兄さんが、じぶんでここを選んだのよ」

「でも、あいつ、追い出されたような口ぶりだった」

「知ってるでしょう、兄さんの話に飾りが多いのは」

「たしかにね。飾りが多すぎて、いつも本体が見えなくなる」

「姉さんがオリンピックの年に結婚して……わたしが四年生のとき。兄さん、がっかりしてた。わたし、兄さんにいじめられたことなんて、あまりないけど、あのころだけは、よく泣かされた。知ってるでしょう、あの口の悪さ」

慶一は笑った。ひょっとしたら、令子よりよく知っているくらいだ。

「でも、しばらくすると、こんどは猫っかわいがりに、わたしのことを甘やかしはじめたのよ。映画にもよくつれていってくれたし、いろいろなものを買ってくれたり、写真を撮ってくれたり、ものすごかったわ」

「高志がそういうふつうの反応を示したってきくと、安心するな。精神分析でいう、補償ってやつだ」

「だとしても、ふつうじゃなかったわ、あれは」

「それについても、あいつらがいってる。補償ってやつは、過剰になるんだ」

「でも、大きくなったら、結婚しようっていうのよ」

「へえ。それで、そのプロポーズはどうなったの?」

令子は笑いだした。

「あのころのわたしたちを知らないから、へんに思うでしょうけど、わたし、兄さんと結婚するつもりだったのよ。それも、高校を卒業したらすぐにって、決めていたわ」

慶一は、相づちに困って黙りこんだ。

とにかく、失われたパズルの断片がひとつ見つかった。そして、それは想像したとおりの形で、きちんと絵のなかにおさまったことになる。

「ねえ、慶一さん。ハガキを送ったのに、どうして返事をくれなかったの?」

あの年の八月に絵はがき、十二月にクリスマスカード、それからたしか翌年と、令子は慶一に三枚のハガキを送ってきた。

「だって、それは……冗談だろ。わかってたんじゃないのかさ」

「いいえ。きっと慶一さんは怒ってるんだろう、ぐらいしか考えられなくて」

慶一はベッドの上に起きあがり、令子を見つめた。

「そんなものか……口にだしていわなくちゃあ、わからないよな」

いぶかしげな視線を向けながら、令子も上半身を起こし、ヘッドボードにもたれかかる。

令子がとなりに坐っていることと、あのときの喪失感が正面衝突し、どちらも道をゆずらないため、すべてが非現実的に見え、慶一は脈絡を失った。

「どうしたの。ちゃんときいてるから、つづけて」

「うん。でも、そのまえに、まだいってなかったことをいっておかないと」

令子は、じぶんのひざのあたりに向けていた視線を、ゆっくりと慶一のほうにふりむけた。

「会ってみてわかったんだけど、もういちど、どうしても会いたい人間なんていうのがいるとしたら、それは令子ちゃんだったって、そう思った」

「ただし、こんなおばあさんじゃなくて、十二か三の女の子のことね、それは」

「まあ、半分は」

さきに令子が吹きだしたので、慶一も安心して笑い声をあげた。

「おたがいさまよ、それは。わたしも、もういちど天使のような頬をした子に会いたいもの」

「まあ、どっちかひとりだけ、若いままでいなくてよかった」

「ほんとうね。それで、さっきの質問の答?」

「ああ。あのときは、いろんなことがいっぺんに起こったし、おれは子どもだったし、いま考えるとスジがとおらないんだけど、もう、令子ちゃんのことは考えちゃいけないと思ったらしい」

「なぜ? わたし、あれから、長いあいだ、慶一さんのことを考えてたわ」

じぶんを守るように、慶一は頭板からずり落ち、ベッドに横たわった。

「……ウーン、高志がいなくなったことが、ショックだったんだよ。なんか、高志に悪くてさ……令子ちゃんには、たとえハガキでだって、二度と近づかないって決めたんだ」

「ひどい話ね。そんなことで無視されたなんて」

「そう意味じゃないんだ。この話は、あまりしたくない。自尊心の問題だから」

ノドにからんだ慶一の口調のせいか、令子は頭板を離れ、おなじように身を横たえ、慶一の首に手をかけた。

「わたし、あのときのこと、もうあまり憶えていないの。でも、ひとつだけ、兄さんのいったことをよく憶えているわ」

「また、本体じゃなくて、飾りの部分だ」

「まじめな話よ。わたし、もう慶一さんをだますのはやめましょうって、何回か兄さんにいったのよ。兄さんはそのたびに、『おまえは、じぶんで思っているより、ずっと慶一のことが好きなんだ』っていってわ」

「へえ。あいつ、天性の詐欺師だからな、くりかえしおなじ話をいいきかせることの効果っていうのを、よく知ってるんだ。ガキのときから、その手になんどもやられてる」

令子はなにも反論しなかったが、その沈黙には不満がこめられているようだった。

「とにかくさ、おれにはよくわからない、いろんな事情が重なっただけで、だれも悪意があったわけじゃないって、理性ではちゃんとわかっていたんだけど、やっぱり、いいようにあしらわれたっていうか……おれだけ子どもあつかいされて、ぎりぎりまで事情を知らされていなかったのが、すごくくやしかったのは、はっきり憶えている。そういうこともあって、返事を出したくなかったんだ」

「子どもあつかいっていうのとは、ちがうんじゃないかしら」

「そうかもしれない。でも、それまでの高志とのつきあいっていうのは、それが当然に思えるようなものだったんだ。おれが正しいか、まちがっているかは、関係なくね」

「兄さんに、それをきいてみたの?」

「いや。あのときにことに関しては、ひとこともきいたことがない。また、高志とつるんで遊ぶようになってからは、それが暗黙のルールみたいになったんだ」

「ああ、わかった。十三歳で死んじゃった、かわいそうな女の子がいた、でしょ」

「いや。死にもしない。はじめから、高志もおれも、そんな子の存在は知らないんだ。すくなくとも、高志とおれがいっしょのあいだはね。ひとりのときに、なにを考えたかはべつさ」

「慶一さんは? どんなことを考えたの」

「……正直にいうと、ほとんど考えなかった。考えるようになったのは、この何年かのことだよ。たぶん、もう記憶をよみがえらせても、それほど危険じゃなくなったからだと思う。それと、年をとって、目のまえの女たちに幻想をもたなくなったこともあるかな」

「あら、じゃあ、わたしは季節はずれの幽霊? 出るんじゃなかった。幻滅ね」

令子の笑い声に自嘲の響きはなかったので、慶一も安心して笑った。

「こうなったら、正直の大安売りをしちゃうけど、おれもそれを心配してたんだ。それがさ、じっさいに会ってみると、そんなことはないんだ。きっと、ここにいると精神年齢が後退するんだろうな。なにも知らないガキにもどったみたいだ」

だれかがエアコンのスウィッチでも入れたように、開け放した窓から、いきなり冷たい風が吹きこみ、網戸をがたつかせた。

天気予報では、オホーツク海高気圧が南下してくるから、あすから涼しくなるだろうと、それがじぶんたちの手柄かのように、誇らしげに予告していた。

「あのとき、あいつ、こんな日がくることを考えていたのかな」

「あの人のことだから、絶対にそんなことはないとはいえないでしょうね。でも、兄さんて、むやみに用意がいいかと思うと、妙にいきあたりばったりのところもあるのよ」

「あれは、どっちだったのかな」

「わたしね、もう十何年かまえのことだけど、死のうと思ったことがあるの。ああ、これはもう終わった話だから、気にしないでね。わたしがいいたいのは、そのときに考えたことのほうなんだから」

ほんとうは、おどろいて、ききかえすべきなのだろうが、慶一はふしぎに冷静な気持ちで令子の話を受けとめ、それがあのときのことと、どうつながるかのほうが気になった。

「でもね、あれって静かに死ねないのよ。知られたくないことをほじくりかえされるでしょ。そのときに、兄さんのことを思いだしたの。あれは、たぶん自殺の一種だったんじゃないかって」

「……でも、そうだとしても、どうして?」

「兄さんに、きいてみたら? もう、暗黙のルールなんて意味ないでしょう」

「そうかもしれないけど……」

乾いた風と令子の体温のコントラスト、それに子どものころの記憶が、慶一の意識を押し流しはじめていた。

このまま眠れたら、たとえ二度と目覚めなくても幸せだろう。

「怒らないでほしいんだけど……おれ、すごく眠い」

一瞬、令子はことばを失い、すぐにやわらかな笑い声をもらした。

慶一は最後まで令子の笑い声をききとどけず、過去へむかってスライドし、プールのベンチに坐って、世界を染めあげるような令子の笑顔を見つめ、彼女を失う日のことを考える。

するどい、刺すような喪失感に襲われ、慶一は眠りの国からはじきかえされた。

「眠ってたらしい……」

「いいのよ、眠りなさい」

時間と因果関係が混乱したまま、令子がまだいることを確認し、慶一は安心と不安に同時に襲われ、なにか、もっとたしかなものがほしくなった。

「まだ、いてくれる?」

「ええ、よければ、ずっと」

「ずっと?」

「ええ」

もはや、十三歳の令子と、この大人の令子の区別はなく、慶一は東屋に坐って、令子と夏休みのことを話しあっていた。

Chapter 5 of 10
|