Chapter 1 of 4

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ある朝、わたしが役所へ行こうと思って、すっかり支度をしてしまったところへ、アグラフェーナが部屋へ入って来た。これはわたしの台所女でもあり、洗濯女でもあり、家政婦でもあったが、驚いたことには、わたしと話をはじめたものである。

今までのところ、アグラフェーナはひどく無口な田舎もので、今日の食事は何にしようかといったような、毎日きまりきったことをひと言ふた言いう以外、六年間にほとんどなに一つ口をきいたことがない。少なくとも、わたしはこの女からついぞなんにも聞いた例がないのだ。

「あの、旦那、ちょっとお邪魔にまいりましたが」と彼女は思いがけなくいい出した。「あの小っこい部屋を貸しなさったらどんなもので?」

「小っこい部屋ってどれだね?」

「ほれ、あれですよ、台所のわきにある。どれってきまっとりますよ」

「なんのために?」

「なんのためにですって? だって、みんな間借り人を入れてるじゃありませんか。なんのためって、きまりきった話でさあね」

「でも、だれがあんなものを借りるもんかね」

「だれが借りるかって! 間借り人が借りますよ。わかりきったことじゃありませんか」

「だって、あそこにゃ、お前、寝台を置くこともできないじゃないか。狭くってしようがありゃしない。だれがあんなとこに住めるもんか?」

「何もあすこに住むことなんかいりゃしませんよ! ただ寝るとこさえありゃよろしいんで。住むのは窓の上だって住めまさあね」

「窓ってどこの窓なんだね?」

「どの窓って、きまってるじゃありませんか、まるでごぞんじないみたいに! 入口の間にある窓でございますよ。あの上に坐って、針仕事なりなんなりすることができますよ。さもなくば、椅子に坐るかもしれません。その人は椅子も持っとりますからね。それにテーブルもございます。なんでもありますよ」

「その人ってのはいったいだれだい?」

「なに、いい人でございますよ、世馴れた人でね。わたしはその人に食べものの支度をしてやりますよ。部屋と食事と合わせて、月々銀貨三ルーブリもらうことにしました……」

長いこと苦辛したあげく、やっとわたしは聞き出すことができた。ある中年の男がアグラフェーナを説きつけて、というより、うまく話を持って行って、間借り人兼居候として台所へ入れてもらうように、納得させたとのことである。ところで、いったんアグラフェーナの頭に浮かんだ考えは、必ず実現されなければすまなかった。さもない限り、彼女はわたしをじっと落ちつかせることではない、それをわたしは経験で知っていた。もし何か気に添わないことがあると、彼女はすぐさま考え込んでしまって、すっかり気鬱症にかかってしまう、しかもそういう状態が二週間も、三週間もつづくのであった。そういう時には、食べ物は悪くなる、洗濯物は数が足りなくなる、床は掃除してくれない。ひと口にいえば、いろいろといやなことばかり持ちあがるのだ。わたしはずっと前から気がついていたが、この無口な女は何事にまれ物ごとをはっきり決めるとか、自分自身の考えを固定させるとかいうことができないのであった。けれども、この覚束ない頭にどうかした偶然で、何か観念というか、計画というか、それに類したものができあがったが最後、その実現を拒否するということは、この女を一とき精神的に殺すことであった。そういった次第で、何よりも自分の平穏を愛するわたしは、すぐさま賛意を表したものである。

「それにしても、その男は何か書きものを持っているのだろうな、身分証明書とかなんとかいったようなものを?」

「そりゃもう、持ってるにきまっておりますよ。いい人ですよ、世間馴れた。三ルーブリ払うといいました」

さっそくその翌日、わたしのつつましい独り住居へ、新しい間借り人があらわれた。しかし、わたしはそれをいまいましいと思わなかったどころか、むしろ内心ひそかに喜んだほどである。概して、わたしは孤独な生活を送って、まるっきり隠者然としていた。知人といってはほとんどなく、外出することも稀であった。十年間というもの、ひきこもって暮らしてきたので、もちろん、孤独にはなれていた。とはいうものの、十年、十五年、あるいはそれ以上も、アグラフェーナと鼻を突き合わせて、同じような孤独生活をつづけるのかと考えると、――それはもちろん、あまりにも味気ない索漠たる生涯ではないか! だから、こういう状況にもう一人おとなしい人間が加わるのは、それこそ天恵といってもいいのだ!

アグラフェーナのいったことは嘘ではなかった。わたしの間借り人はなかなか世間馴れた男であった。身分証明書を見ると、兵隊あがりということがわかったが、しかしわたしは証明書を見ないさきから、顔を見ただけで、一目でそれを見抜いてしまった。しかし、そんなことは容易なわざである。わたしの間借り人アスターフィ・イヴァーヌイチは、そういう仲間としては善良なほうであった。わたしたちは仲よく暮らしはじめた。しかし、何よりありがたかったのは、アスターフィ・イヴァーヌイチが時おり自分の過去の生活から、いろいろ変わった話をして聞かすことであった。わたしのように、いつも退屈な生活をしているものにとっては、こういう話し手はまさに宝といわなければならない。あるとき彼はそういったような話を一つ聞かしてくれた。それはわたしにちょっとした印象を与えたが、その物語のきっかけになったのは、次のような出来事である。

一度わたしはたった一人うちにいたことがある。アスターフィもアグラフェーナも、それぞれ用事で外出していた。ふとだれか入って来るような物音が、自分の部屋にいるわたしの耳に入った。それが見ず知らずの人のような感じなのであった。出て行って見ると、はたして入口の間に見知らぬ男が立っていた。背の低い小男で、寒い秋空に上衣一枚しか着ていなかった。

「何用だね?」

「官吏のアレクサンドロフに会いたいんだけど、ここにいますかね?」

「そんな人はいやしないよ、きみ、さよなら」

「じゃ、なぜ庭番はここだなんていったんだろう」と来訪者は用心ぶかく、戸口へじりじりとしさりながらいった。

「行きなさい、行きなさい、帰った、帰った」

その明くる日、食後のことであった、アスターフィ・イヴァーヌイチが、かねて修繕を頼んでおいた上衣を、わたしの体に合わせているところへ、またもや、入口の間へだれやら入って来た。わたしは戸を細目に開けて見た。

昨日やって来た男が、わたしの見ている目の前で、わたしの毛皮外套をいとも悠々と外套掛からはずして、小脇にかかえ込み、ぷいと戸外へ飛び出した。アグラフェーナはあきれて口をぽかんと開けたまま、始終じっと男を眺めていたが、それ以上、外套を守るために何一つしようとしなかった。アスターフィ・イヴァーヌイチは泥棒のあとを追って飛び出したが、十分ばかりして、息をせいせい切らしながら、手を空しゅうして帰って来た。男はそのまま跡白波と影を消したのである。

「やあ、アスターフィ・イヴァーヌイチ、失敗だったかね。まあ、それでもきみの外套が無事だったのがまだしもだよ! さもなかったら、あの泥棒のお蔭で、にっちもさっちもいかなくなるとこだった!」

しかし、アスターフィ・イヴァーヌイチは、この出来事にひどく度胆を抜かれてしまって、わたしなどその様子を見ていると自分の盗難など忘れてしまうくらいであった。彼は容易に正気に返ることができないで、のべつやりかけた仕事を投げ出しては、今の出来事を新しくお浚えするのであった。どうしてあんなことができたか、自分はどんなふうに立っていたか、人の目の前、それもふた足くらいしかないところで、どんなふうにして毛皮外套をはずしたか、どうして捕まえることもできないような始末になってしまったか、そういうようなことをかき口説くのだった。それから、また仕事に向かったが、間もなく何もかもほうり出してしまった。わたしが見ていると、とうとう彼は庭番のところへ行って様子を話し、自分の番をしている屋敷内にこんなことを仕出かしたのは怪しからんといって、ひと言文句をいったものである。やがて引っ返して来て、今度はアグラフェーナをやっつけにかかった。それから、もう一度仕事に向かいはしたものの、それでもまだ長い間、どうしてこんなことになったのだろう、おれはすぐそこに立っていたし、主人公も目と鼻の間にいたのに、人の見ている目の前で、ほんのふた足ばかりの所で、外套をはずして行くとはなんてことだ、云々、云々と口の中でぶつぶついっていた。要するに、アスターフィ・イヴァーヌイチは、仕事にかけてはなかなかの腕を持っていたが、しかしひどく世話焼きで、じっとしていられないたちなのであった。

「お互いにいい馬鹿にされたもんだねえ、アスターフィ・イヴァーヌイチ!」その晩、わたしは彼に茶を一杯すすめながら、退屈まぎれにまたもや外套盗難事件を持ち出しながら、こう口を切った。この事件はあまりたびたびお浚えされる上に、話し手があまり真剣なので、はなはだ滑稽味を帯びて来たのである。

「馬鹿を見ましたよ、旦那! わっしゃもう人ごとながらいまいましくって、癪にさわってたまりませんや、自分の衣類がなくなったんじゃありませんがね。わっしにいわせりゃ、この世の中に泥棒ほど悪いものはありませんね。中にゃ、ただで儲けるやつもありますが、何しろ泥棒は、人が汗水流して働いて、暇ざいかけて手に入れたものを、いっぺんに失敬して行くんですからねえ……卑怯な話でさあね、ちぇっ! 話をするのもいやになって来る、胸がむかむかして。どうして旦那はご自身の品物が惜しくないんですね」

「いや、それはまったくだよ、アスターフィ・イヴァーヌイチ。いっそ火事で焼けたほうがまだしもで、泥棒なんかに進上するのはいやだね、いまいましいよ」

「いやもう、いやのなんのと、そんな生やさしいもんじゃありませんよ! もっとも、泥棒にもいろいろありますが……実はね。旦那、わっしも一度そういったようなことがありましてね、正直な泥棒にぶつかりましたっけ」

「え、正直な泥棒だって? いったい正直な泥棒なんてあるものかね、アスターフィ・イヴァーヌイチ?」

「そりゃ、なるほど、ごもっともで? 泥棒で正直なやつなんてそんなもなありゃしませんや。わっしがいおうと思いましたのはね、正直そうだと思ってた男が、盗みをやったっていうことなんで。まったくかわいそうなやつでしたよ」

「そりゃどういういきさつだったんだね。アスターフィ・イヴァーヌイチ?」

「それはね、旦那、二年ばかり前のことでしたよ。その時分ちょっと一年足らずの間、勤め口なしに居ぐいをするような羽目になりましたが、前の家から暇を出されるちょっとまえに、すっかり身を持ち崩してしまった一人の男と知り合いになりました。その、居酒屋で知り合ったんで。ひどい飲んだくれで、のらくら者の宿なしで、もとはどこかで勤めていたそうですがね、もうずっと前に飲んべが祟って、勤め先を馘になってしまったんでございます。もうまったくしようのない男でして、なんともかともいえぬ恰好で歩いておりましたよ! どうかすると、いったいこの男の外套の下にはルバーシカがあるのだろうか、という気がするくらい、なんでもかんでも手に入り次第、飲んでしまうのでございます。ところが、それでいて暴れものじゃないので。おとなしいたちで、愛想がよくて、親切で、けっしてねだったりなんかしやしない、いつも遠慮ばかりしている、といったわけで、かえってこっちのほうが、かわいそうに、先生飲みたいんだなと見て取って、まあ一杯やれと、持ってってやるような始末で、まあ、そういったような具合で、わっしはその男と知り合いになりました、というより、やつのほうがわっしを慕って来るようになったので……わたしのほうは別にどうということもありませんでした。ところが、そいつが実に人懐っこい男でしてね! 犬っころみたいにつきまとって、あっちへ行きゃあっち、こっちへ行きゃこっちへついて来るという有様です。それも、たった一度会ったきりなんですからね。痩せっぽっちの貧相なやつでしたよ! はじめ一晩とめてやろうかな、ってんで、まあ泊めてやったところ、見れば身分証明書もちゃんとしてるし、別に怪しいやつでもなさそうなんですよ! それから、あくる日も泊めてやったところ、三日めには自分でやって来て、いちんち窓の上に腰かけていましたがね、やっぱりそのまま泊り込んでしまいました。そこで、わっしは考えました、いやあ、とんだものを背負い込んでしまったぞ、飲まして、食わして、おまけに宿までしてやるなんて、――貧乏人が居候に垂れ込まれちゃ、たまった話じゃない、とね。その前、先生わっしのところへ来たのと同じ伝である勤め人のとこへ出入りして、その男の腰巾着になって、しじゅういっしょに飲んでたもんですが、その男が何か気のむしゃくしゃすることがありましてね、やけ酒が過ぎて死んでしまったのです。さて、その先生は、エメーリャ、本式にいえばエメリヤン・イリッチと申しました。わたしはこいつをどうしたものだろうと、さんざん思案に思案をしましたが、追ん出してしまうのも気が咎めるし、それにかわいそうでもあります。まったくもってみじめな様子をして、自力で生きて行く力なんかありゃしない、沙汰の限りなんで! それに、無口なおとなしい質で、自分から物をねだるなんてことはけっしてありません、じっと坐ったまま、犬っころみたいに私の目を見ているばかり。つまるところ、結局、酒が人間一匹だいなしにしちまったんで! わっしゃはらの中で考えましたね、――もしわっしがやつに向かって、おい、エメリヤーヌシカ、とっとと出て行きなさい、おれんとこにいたって何もすることはありゃしない、ここはお門違いだぜ、肝腎のおれがやがてそのうちに、食うものもなくなろうというのに、お前を口付きで置いとくわけに行かんじゃないか、とこういってみたらどうだろう? そうしたら、奴さんどうするだろう? わっしはじっと坐って、こんなことを考えていたものです。すると、わっしの目ん中に、こんな有様が見えて来るのでした、――わっしの言葉を聞くと、先生なに一つ合点がいかなかったような顔つきをして、長いこと、じいっとわっしを眺めているが、やがてようやくわっしのいったことが呑み込めると、窓からのこのこ下りて来て、自分の風呂敷包みを取り上げて(わっしゃそれを、今でも目の前に見るような気がしますよ、穴だらけの赤い格子縞で、中には何が包んであるやら知れたものじゃない、それをどこでも持って歩いているので)、着ているぼろ外套をちょいと直す。それは余りぶざまでないように、暖かくって、穴が見えないようにという心づかい、――そういう気の優しい男なんで! それから、戸を開けて、涙を一雫目に溜めて、階段へ出て行く。ああ、人間一匹だいなしにしてしまうわけにゃゆかん……こう思うと、わっしはかわいそうになってまいりました! しかし、すぐにその後で、おれ自身はどうなるのだ、という考えが出て来ました。そこで、わっしははらん中で思案しました、――なあ、エメリヤーヌシカ、お前がうちで呑気にしているのも、長いことじゃないぜ、おれは近いうちに引っ越してしまうから、その時はもう見つかりっこないんだ、そう考えました。実は旦那、お邸の旦那様がご領地へお引上げになりましたので。その時、亡くなった旦那のアレクサンドル・フィリモーノヴィチが(何とぞ天国に安らわせたまえ!)こうおっしゃったのでございます。『アスターフィ、お前の奉公にはわしも心から満足しておるよ、お前のことはけっして忘れやせん、また田舎からかえって来たら、お前を雇ってやるからな』わっしはそのお邸で下男頭を勤めておりましたんで、――いい旦那でございましたが、その年に亡くなってしまわれました。さて、旦那がたをお見送りすると、わっしは自分の荷物を掻き集めましてね、小金もあったもんですから、しばらくのんびり暮らそうと思って、あるお婆さんのところに一間借りて、そこへ引き移りました。そこはたった、一間だけ、小さい部屋が空いておりましたので。お婆さんもやっぱり、どこかのお邸で、ばあや奉公をしておったのですが、その頃は一本立ちの暮らしをしておりました、年金か何かもらいましてね。さあ、エメリヤーヌシカ、今度こそもうおさらばだぞ、まさかここをさがし当てることはできまいよ! とこんなふうに考えたものでございます。ところが、旦那、どうでしょう? ある晩わっしが家へ帰って見ますと(さる知り合いのところへ訪ねて行ったので)、真っ先に目に入ったのはエメーリャじゃありませんか。わっしの長持ちの上にぽつねんと腰かけている。傍には赤い格子縞の風呂敷包みを置いて、例のぼろ外套を着たままじっと腰かけて、わっしの帰りを待っている……しかも、退屈ざましに、お婆さんのとこからお祈りの本など借りて来たのはいいが、それを逆さに持っているのでございます。やっぱりさがし当てたというわけで! わっしはもうがっかりしちまいました。いや、どうにもしようがない、初め追っぱらわなかったのが悪かったのだ、とこう思いまして、いきなりたずねました。

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