Chapter 1 of 46

濡色を含んだ曙の霞の中から、姿も振もしつとりとした婦を肩に、片手を引担ぐやうにして、一人の青年がとぼ/\と顕はれた。

色が真蒼で、目も血走り、伸びた髪が額に被つて、冠物なしに、埃塗れの薄汚れた、処々釦の断れた背広を被て、靴足袋もない素跣足で、歩行くのに蹌踉々々する。

其が婦を扶け曳いた処は、夜一夜辿々しく、山路野道、茨の中をつた落人に、夜が白んだやうでもあるし、生命懸の喧嘩から慌しく抜出したのが、勢が尽きて疲果てたものらしくもある。が、道行にしろ、喧嘩にしろ、其の出て来た処が、遁げるにも忍んで出るにも、背後に、村、里、松並木、畷も家も有るのではない。山を崩して、其の峯を余した状に、昔の城趾の天守だけ残つたのが、翼を拡げて、鷲が中空に翔るか、と雲を破つて胸毛が白い。と同じ高さに頂を並べて、遠近の峯が、東雲を動きはじめる霞の上に漾つて、水紅色と薄紫と相累り、浅黄と紺青と対向ふ、幽に中に雪を被いで、明星の余波の如く晃々と輝くのがある。……此の山中を、誰と喧嘩して、何処から駆落して来やう? ……

婦は、と云ふと、引担がれた手は袖にくるまつて、有りや、無しや、片手もふら/\と下つて、何を便るとも見えず。臘に白粉した、殆ど血の色のない顔を真向に、ぱつちりとした二重瞼の黒目勝なのを一杯にいて、瞬もしないまで。而して男の耳と、其の鬢と、すれ/\に顔を並べた、一方が小造な方ではないから、婦の背が随分高い。

然うかと思へば、帯から下は、げつそりと風が薄く、裙は緊つたが、ふうわりとして力が入らぬ。踵が浮いて、恁う、上へ担ぎ上げられて居さうな様子。

二人とも、それで、やがて膝の上あたりまで、乱れかゝつた枯蘆で蔽はれた上を、又其の下を這ふ霞が隠す。

最も路のない処を辿るのではなかつた。背後に、尚ほ覚果てぬ暁の夢が幻に残つたやうに、衝と聳へた天守の真表。差懸つたのは大手道で、垂々下りの右左は、半ば埋れた濠である。

空濠と云ふではない、が、天守に向つた大手の跡の、左右に連なる石垣こそまだ高いが、岸が浅く、段々に埋れて、土堤を掛けて道を包むまで蘆が森をなして生茂る。然も、鎌は長に入れぬ処、折から枯葉の中を透いて、どんよりと霞の溶けた水の色は、日の出を待つて、さま/″\の姿と成つて、其から其へ、ふわ/\と遊びに出る、到る処の、あの陽炎が、こゝに屯したやうである。

其の蘆がくれの大手を、婦は分けて、微吹く朝風にも揺らるゝ風情で、男の振つくとゝもに振ついて下りて来た。……若しこれで声がないと、男女は陽炎が顕はす、其の最初の姿であらうも知れぬ。

が、青年が息切れのする声で、言ふのを聞け。

「寐るなんて、……寐るなんて、何うしたんだらう。真個、気が着いて自分でも驚いた。白んで来たもの。何時の間に夜が明けたか些とも知らん。お前も又何だ、打つてゞも揺つてゞも起せば可いのに――しかし疲れた、私は非常に疲れて居る。お前に分れてから以来、まるで一目も寐ないんだから。……」

とせい/\、肩を揺ると、其の響きか、震へながら、婦は真黒な髪の中に、大理石のやうな白い顔を押据えて、前途を唯熟と瞻る。

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