
岩本素白 · Japanese
No translation yet. Request one to move it up the queue.
岩本素白 · Japanese
Full text
Original (Japanese)
いま生きて居れば、すくなくとも百ちかい年の人であらう。或は百を踰える年なのかも知れない。明治時代の海軍の軍医である。その頃の軍艦といふものは、厳めしくはあるが同時に美しいもので、それはただ平和を保障する象徴のやうな時代であつた。ふねも小さく、たかだか二三千噸のものが大きい方で、到るところの小さい港まで訪問して、人民たちに敬はれ、喜ばれ、珍しがられ、愛された時代であった。
その軍医は非常な甘い物好きで、始終胃をわるくして居た。所謂医者の不養生であつた。ふねが港にはいると、取りあへず其処の名物の菓子を買つて来た。さうしてそれを眺め、それを味ひ、それから一々丁寧にそれを写生した。絵の巧い人で、絵の具をさして実物大に写生した。それだけの写生帖があつて、時と所と菓子の名前と、さうして目方と価とが記された。永年のことで、菓子の種類は夥しい数に上つた。静かな航海中、用の無い時は独りその写生帳を取り出し、その美しい色や形を眺め、その味ひを思ひ出して楽しんだ。
私は少年の頃、この話を聞いて面白いと思つた。目方を記したところに、科学に関する仕事をして居る人らしいところがあると思つた。私も菓子が好きで、何時からか妙な事を始めて居た。折や箱に貼つてある菓子の名を記した小紙片、謂はば菓子の名札であるところの物、美しい絵や模様を描いた包み紙、箱の中に添へてある絵画詩歌などを書いた小箋。何でも集めるのではなくて、自分の好みに合ひ、佳いと思つたものだけを取つて置くのであつた。永い間のことで、面白いものが相当に集つた。柚餅子のやうな菓子には、鉄斎が洒脱な趣をもつた柚の絵を描いて居た。柿羊羹を台にした菓子の中の紙には、石が柿の画に詩を添へて居た。徳島の和布羊羹に付いて居た小箋にも、薄墨ずりの詩があつた。熊本の檜垣飴の中には、檜垣の嫗の歌を記した、色とり/″\の詩箋のやうな紙が幾枚もはいつて居た。所謂レッテルといふ西洋紙刷りのものではあつたが、越の雪の商標は古風な銅版画で、その店舗の様子を写して居るが、その前にある昔の無恰好な黒い四角な郵便箱が面白い。それらを布張りの洒落た菓子折の中へ入れておいた。
砂糖が不自由になつた頃、菓子好きの人が来るとそれを見せることがあつた。客は笑つてこれは御馳走だといつて面白がつた。この変な私の蒐集も、戦火のために他の一切と共に烏有に帰したが、こんな物よりも港々の思ひ出を伴つて居る菓子の写生帳は、どうなつて居るのか、時々思ひ出すことがある。
●図書カード

Translation status
WaitingLog in to request a translation.
Frequently asked questions
Yes — completely free. This book is in the public domain, so Pagera offers the full text without payment or account requirement. Pagera is funded by advertising.
Free to read
Start reading immediately — no signup required. Create a free account for more books and features.