ハムレット
久生十蘭
敗戦後一年目のこの夏、三千七百尺の高地の避暑地の、ホテルのヴェランダや霧の夜の別荘の炉辺でよく話題にのぼる老人があった。 それは輝くばかりの美しい白髪をいただき鶴のように清く痩せた、老年のゲエテ、リスト、パデレウスキなどの Phenotype(顕型)に属する壮厳な容貌をもった、六十歳ばかりの老人だが、このような霊性を帯びた深い表情が日本人の顔に発顕するのはご
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久生十蘭
敗戦後一年目のこの夏、三千七百尺の高地の避暑地の、ホテルのヴェランダや霧の夜の別荘の炉辺でよく話題にのぼる老人があった。 それは輝くばかりの美しい白髪をいただき鶴のように清く痩せた、老年のゲエテ、リスト、パデレウスキなどの Phenotype(顕型)に属する壮厳な容貌をもった、六十歳ばかりの老人だが、このような霊性を帯びた深い表情が日本人の顔に発顕するのはご
野上豊一郎
とうとう! ――アクロポリスの西の坂道を車で駈け登りながら思った。――とうとうパルテノンを見る日が来た。紀元前五世紀のペリクレスのアテナイの文化の抜萃といわれるパルテノン、世界に二つとない美の結晶と謳われるパルテノン、簡素で逞ましいドリス様式と優雅ですっきりしたイオニア様式の融合した華麗の典型なるパルテノン、建築家イクティノスとカリクラテスと彫刻家プイディア
牧野信一
博士フアウストは、哲学、医学、法律、神学その他あらゆる学問といふ学問を研究し尽してしまつて、もうその他には何もないのか? とおもふと、急にがつかりして、死んでしまはうと決心しました。ところへメフイストといふ悪魔が現れて、女道楽をすゝめます。なるほどそいつは気がつかなかつた! と博士は死ぬのを見合せて町へ出ると、一人の娘を見るがいなや即座に魂を奪はれました。マ
チェーホフアントン
その晩は身体があいていた。オペラの歌姫のナターリヤ・アンドレーエヴナ・ブローニナ(嫁入り先の姓で言えばニキーチナだが)は、全身を安息にうち任せて寝室に横になっていた。彼女は快い夢見ごこちのうちに、どこか遠い町にお祖母さんや伯母さんと一緒に暮している自分の小さな娘のことを思い浮べる。……彼女にとっては見物や花束や新聞の短評や贔負の人々よりも、この子供の方がよっ
新美南吉
ミチコサン 新美南吉 ミチコサンガ、コトリヤノ マヘマデ クルト、シラナイ オバサンガ、ウバグルマノ ナカノ ニモツヲ ナホシテ ヰマシタ。アカチヤンガ ノツテ ヰテ、カキマハシタノデシタ。 アカチヤンハ、ブウブウ イヒナガラ、カアチヤンノ ジヤマシテ ヰマシタ。 ミチコサンハ、オバサンノ ソバニ ヨツテ、 「アカチヤン ダイテテ アゲマセウカ。」ト イヒマ
小山清
まえがき これは終戦直後、太宰さんがまだ金木に疎開中で、私独りが三鷹のお家に留守番をしていた時に書いたものです。その後太宰さんが上京なさって、入れかわりに私は北海道に渡りました。その際私は書いたものはみんな太宰さんにお預けしてゆきました。今度太宰さんが亡くなられたので上京しましたら、太宰さんはこんな作品のことも心にかけて下さったようで、題名も「メフィスト」と
岸田国士
モノロオグ 岸田國士 花茣蓙を敷きつめた八畳の日本間、寝台、鏡戸棚、テーブル、椅子等、すべて安物の西洋家具。寝台には、掛蒲団がなく、マトラスだけになつてゐるところ、テーブルの上に椅子が一脚、逆さまに載せてあるところ、この部屋が、今誰にも使はれてゐないことを示してゐる。 装飾と云へば、壁に、新聞の新年附録らしい美人画が、鋲で留めてあるきりで、そのほか、何か「歴
細井和喜蔵
モルモット 細井和喜蔵 一 永いあいだの失業から生活難に追われて焦燥し、妻のヒステリーはひどくこうじて来た。彼女はちょっとした事にでも腹を立てて怒る、泣く、そしてしまいのはてには物をぶち投げて破壊するのであった。そうかと思うとまた、ありもしない自分の着物をびりびりっと引き裂いて了う。 彼はそんな風に荒んだ妻の心に、幾分のやわらか味を与えるであろうと思って、モ
久生十蘭
出かける時間になったが、やすが来ない。離室になっている奥の居間へ行ってみると、竹の葉影のゆらぐ半月窓のそばに、二月堂が出ているだけで、あるじはいなかった。 壁際に坐って待っているうちに、六十一になるやすが、息子の伊作に逢いに一人でトコトコ巴里までやってきた十年前のことを思い出した。 滋子は夫の克彦と白耳義にいたが、十二月もおしつまった二十九日の朝、アスアサ一
富永太郎
キオスクにランボオ 手にはマニラ 空は美しい えゝ 血はみなパンだ 詩人が御不在になると 千家族が一家で軋めく またおいでになると 掟に適つたことしかしない 神様があいつを光らして、横にして下さるやうに! それからあれが青や薔薇色の パラソルを見ないやうに! 波の中は殉教者でうようよですよ ●図書カード
長沢佑
夜の十一月 北国はもう冬の寒さだ 硝子屑のような鋭い空ッ風が 日本海を越えて吹いて来る 荒涼とした夜の越後平野に 点々とみえるにぶい灯 あれはみんな仲間の住家だ 革命記念日の闘争を前に ヨビ検の魔の手を逃れ 移動事務所を此処に持った二人の書記 今日で四日の穴居生活だ 沈黙の中に一切の準備は終り 武装された兵士は 現在―― 戦いの野に旅たたんとしている そとは
太宰治
ロマネスク 太宰治 仙術太郎 むかし津軽の国、神梛木村に鍬形惣助という庄屋がいた。四十九歳で、はじめて一子を得た。男の子であった。太郎と名づけた。生れるとすぐ大きいあくびをした。惣助はそのあくびの大きすぎるのを気に病み、祝辞を述べにやって来る親戚の者たちへ肩身のせまい思いをした。惣助の懸念はそろそろと的中しはじめた。太郎は母者人の乳房にもみずからすすんでしゃ
宮本百合子
ヴァリエテ 宮本百合子 佳一は、久しぶりで大岡を訪ねた。 不在で、細君が玄関へ出て来た。四五日前からシネマの用事で京都へ行っているということであった。 「そうですか、じゃまた上ります。おかえりになったらよろしく」 再び帽子をかぶりそこを出たが、佳一は、そろそろ貸ボートなど浮かび初めた牛込見付の初夏景色を見下したまま佇んだ。 大岡は、ああいっていたって、本当に
野上豊一郎
ヴェルダン 野上豊一郎 一 世界情勢の高速度的推移の中には、今ごろヴェルダンの戦場を見物したりすることを何だか Up-to-date でなく思わせるようなものがある。私たちがヴェルダンに行ったのは咋年(一九三九年)の初夏、まだ今度の大戦の始まらないうちではあったけれども、その時でさえすでに現代から懸け離れた一種の古戦場でも弔うような気持があった。ところが、そ
岸田国士
『おふくろ』 岸田國士 本誌(「劇作」)三月号に発表された田中千禾夫君の処女作『おふくろ』について、僕として云ひたいことは、ただ一言で尽きる。それは、「この確かな劇的才能が、今後如何に伸び、如何に輝いて行くか、非常な期待をもつ」といふことだ。 この一作は、実は、処女作と銘うつためにはあまりに非野心的であり、寧ろ、試作として筐底に蔵さるべきものであつたかもしれ
宮沢賢治
ありときのこ 宮沢賢治 苔いちめんに、霧がぽしゃぽしゃ降って、蟻の歩哨は鉄の帽子のひさしの下から、するどいひとみであたりをにらみ、青く大きな羊歯の森の前をあちこち行ったり来たりしています。 向こうからぷるぷるぷるぷる一ぴきの蟻の兵隊が走って来ます。 「停まれ、誰かッ」 「第百二十八聯隊の伝令!」 「どこへ行くか」 「第五十聯隊 聯隊本部」 歩哨はスナイドル式
竹内浩三
うたうたいは うたうたえと きみ言えど 口おもく うたうたえず。うたうたいが うたうたわざれば 死つるよりほか すべなからんや。魚のごと あぼあぼと 生きるこそ 悲しけれ。 ●図書カード
樋口一葉
さをのしづく 樋口一葉 ある人のもとにて紫式部と清少納言のよしあしいかになどいふ事の侍りし 人は式部/\とたゞほめにほめぬ しかあらんそれさる事ながら清はらのおもとは世にあはれの人也 名家の末なれば世のおぼえもかろからざりしやしらず 万に女ははかなき物なればはか/″\しき後見などもなくてはふれけむほどうしつらしなどみにしみぬべき事ぞ多かりけらし やう/\宮づ
ポーエドガー・アラン
そこにてわれを待たれよ! われ必ず その低き渓谷に御身と逢わむ (チチェスターの僧正ヘンリー・キング1の その妻の死せしおりの葬歌) 御身自らの想像の光輝の中に惑乱し、御身自らの青春の焔の中に倒れし、薄命にして神秘なる人よ! 再び幻想の中に予は御身を見る! いま一たび御身の姿は予の前に浮び上ってきた!――御身が今あるように――すなわち、ひややかなる影の谷の中
辻潤
だだをこねる 辻潤 1 こねたところでまるめてみたところできなこはきなこである。かんでみたところでなめてみたところでマメはマメである。時に、ひどく欠伸がでてこまりもしないけれどなんにしてもやりきれない生活感情であることよ! おもしろくないことおびただしいので、私はつねにねそべってバットでも吹かしているのがこの上もない、パライソなのである。その上きれいな水とリ
永井荷風
現代文士の生活も年月を経るに従って今では殆一定の形式をつくりなすようになった。ここに文士の生活と言ったのは何であるか。則現代の青年が専門の学校を卒業した後、世の雑誌新聞に文章を掲げその報酬を以て生計を営むことを謂うのである。これ等現代の文士はまだ学業を卒らぬ中から早くも学校内で広告がわりに発行している雑誌または新聞紙に草稿を投じ、その編輯を担任している先進者
野口雨情
金雀枝の 花咲く頃は ほととぎすが啼く ほととぎすが啼く 故郷の森の中にも もう 金雀枝の花咲く頃か ほととぎすが啼く ほととぎすが啼く
小川未明
二人の少年が、竹刀をこわきに抱えて、話しながら歩いてきました。 「新ちゃん、僕は、お小手がうまいのだぜ。」 「ふうん、僕は、お胴だよ。」 「お面は、なかなかはいらないね。」 「どうしても、背の高いものがとくさ。正ちゃん、いつか仕合してみない。」 新吉は、お友だちの顔を見て、にっこりと笑いました。 「まだ、君と、やったことがないね。だが、新ちゃんを負かすと、か
織田作之助
奇妙なことは、最初その女を見た時、ぼくは、ああこの女は身投げするに違いないと思い込んで了ったことなのだ、――と彼は語り出した。彼が二十一歳の時の話という。 ――その女を見たのは、南紀白浜温泉の夜更けの海岸だった。その頃京都高等学校の生徒であったぼくは肺患の療養のためその温泉地に滞在していた。恐らく病気のためだったろうが、その頃は毎夜の様に不眠に苦しめられてい