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俊一は茶の間へふらりと入つて、どかりと腰を下した。そして、壁の割目を見てゐた。時々、溜息をした。やゝ情ない表情であつた。さつきの厳然たる態度は消えてしまつた。さうして、すこしぼんやりしてゐた。
日の光が窓から射し込んで、ふわん/\鳴つてゐた。近頃にないいい天気らしい。日光と空気は実に適当で、あらゆる生物が満足し切つて一言の不平もなくだまりこんでこの陽気を楽しんでゐるやうだつた。それを見ながらすこしぼんやりしてゐるうちに、やがて俊一は、気を取り直した。立上つてのこ/\と庭へ出て行つた。前からやつて見たいと思つて居たことを試す気になつたのである。狭い庭の端の方へ行つて、手をのばして垣根につかまつた。ちよつと、丈夫かどうか試して見た。そして、用心深く足に力を入れて、伸び上つた。首だけ、垣根の上ににゆつと出た。往来には誰も居なかつた。すこし様子を見てゐたが、誰も来さうになかつたので、そうつと垣根の上によぢ登つた。そのとき、誰かが向ふの横丁からやつて来る気配がすると思つたので、急いで往来へ飛び降りた。足を、すりむいた。誰も来なかつた。あわてた、と小さな後悔を感じた。それから、やゝ得意になつて、大通りの方へ歩いて行つた。風が、この三十近い男の髪の毛をもてあそんだ。
雲がいつの間にか吹き払はれて、実にいい天気だつた。やつぱり、春はいいな。俊一はさう思つた。しばらく、他のことは何も考へなかつた。この男が、珍らしいことである。それほど、いい天気だつたのだ。気持のいいこと。鉄道線路づたひの草ばうばうの道へ出ると、木がたくさんあるために、若葉の匂ひがずゐぶんした。アスファルト以外のところは、草がぎつしり生えてゐた。アスファルトがぼろぼろに綻びてゐるから、道は田舎道のやうに草に埋もれてゐる。日光が、きれいだつた。木の葉を通して、大きくなつたり小さくなつたりするいろんな斑紋を地面や草むらに描くと、日光は一そう美しかつた。空は、板のやうにつる/\してゐるやうでもあり、逆に限りなく深いもののやうでもあつた。けれど、その蒼さが、素晴らしかつた。その青と木々の緑とは、双生児のやうに同じなのぢやないかと思はれた。東京にこんな気分のところがあるのは、ちよつと信じられなかつた。他の人はともかく、俊一は、ここでこんな気分に浸ることはめつたになかつた。それで、嬉しくなつて、どん/\歩いて行つた。
やがて道は下り坂になつて、大通りへ出た。ガアドをくぐり、淡々荘アパアトの前を通り、誰とか邸の門前を過ぎると、少々くたびれて来た。例の萩軒はもうぢきである。
萩軒のことを考へたので、俊一は弟との喧嘩のことを思ひ出してしまつた。けれど、ごくあつさりとであつた。ざつと概略が頭の中を通過し、すこし憂鬱と憤りを流してすうつと消え去つた。俊一はそんなに気に留めなかつた。さつき彼を朗らかにした日光が、その功徳を顕はして、忌はしい影を追ひ払つたか、又は、彼の頭をやゝ痴呆状態に陥れたのだ。ともかく彼はそんなことにはあまり患はされずに歩いて行つた。
やがて十字路がある。人が雑踏してゐて、彼はすこし不快になつた。第一、電線がこのあたりでめちや/\に空間を断つてゐるので、こんなきれいな空のときはよけいにいやであつた。店も、このへんは下品である。なんとなく下品である。このへんは、感じが悪いのだ。俊一はいつも避けて通ることにしてゐるが、今日はどうしたのか来てしまつた。下品か。それは問題だな。と彼は考へた。この人々から見ると、おれなんか上品過ぎるのか。第一この人々は、そんな品のことなぞ考へてやしないんだ。考へてゐないといふことは、別の規準から云つて品がない、といふことになるかな。又はそんなものを超えてるつてことになるかしら。
あまりいい天気過ぎるので、俊一はすこしぼうつとなつたに違ひない。彼は、面倒くさい、と云つて考へることを止めてしまつた。けれど、不快だけは残つた。
十字路をちよつと過ぎると、どうしたわけか、彼は向ふからやつて来る弟とばたりと顔を合はせた。あつ、と彼は驚いた。弟の方でも大分驚いたらしい。ほんのちよつとの間、二人は大きな目をして見つめ合つてゐた。それから突然、弟は兄の方へ進んで来た。と思ふと、すつと横をすり抜けて十字路の方へ行かうとした。すり抜ける時、俊一は思はず弟の腕をつかんだ。弟は構はず歩いて行つた。俊一は格別強く握つてゐたわけではないので、手は引き放されてぶらんと下つた。弟はどん/\人混みの中を縫つて、消えてしまつた。俊一はぼんやり見てゐた。こんなところでは、喧嘩も出来ないではないか。彼はそのまゝ萩軒へ入つた。
中へ入つても、ぼうつとしてゐた。何が何だか分らなくなりさうだつた。といふのは、そんなに深刻な意味でない。何だか、考へるのが面倒くさくなつたのだ。おれは家を出るとき、ひどく怒つてゐたな。それから、歩いてゐるうちに、少しへんになつた。頭の中から何か一部分を持つて行かれた見たいだ。或は、阿呆になつたのかも知れん。数々の事件をつなぎ合はすことが出来なくなつてしまつたのかな。さうしたら、へんなことになるぞ。今大喧嘩したやつのことを忽ち忘れて、そいつに普通の調子で話し出す。相手は、こいつ狂つたなと思ふ。おれは、狂つたのかな。いや、そんなことはない。たゞ日の光にあんまり照されたから、すこしいい気持になつただけなんだ。だが、弟のやつを、うんとやつつけてやらなければ。兄貴に対して、実にひどいことをしたものだ。(さうでもないのかな。そんなに、腹に一物あつてやつたわけぢやないんだ。ふざけ半分てとこだらうな。あいつは、そんなに悪……)いや、何しろけしからん。うんと云つてやらなければ駄目だ。家へ帰つたら……。
しかし、おれが垣根を越えたつてことに、さつきばつたり会つた時、気が付いた筈だ。そのことで、おれを軽蔑するかも知れん。あんなに深刻に「ちやんとした人」ぶつた兄貴が……とか何とか考へてるだらう。だが、いいや。口実はいくらでもある。例へば、おまへが急に居なくなつて心配だつたから、探しに出たのだ、とか。ところがあいつ、のんびりと菓子を食ひに出たんだ。……畜生。おれはたしかに抜けてゐるな。……何しろもう一度あいつをこらしめてやらなくちや。
俊一は、考へるのを止めてしまつた。完全に面倒くさくなつたのである。けれど、弟を是非こらしめることを忘れないやうにしよう、と思つた。
彼は菓子とのみものを註文して、ぐるりと室内を見廻した。あまりきれいな室でない。古ぼけた額が三枚ある。風景画二つに肖像画。約十五のテーブルの半分くらゐ塞つてゐる。その人々を一通り見廻して行くと、同様に周囲を見廻してゐた一人の男と眼が合つた。これは、友人の坂谷明であつた。
やあ、と両方で云つて、坂谷の方が立つて、こつちへやつて来た。彼は小さな雑誌社へ勤めてゐる。そして大体俊一と同じやうなことをやつてゐる。この前から四、五日旅行に行つてゐたのだ。
「憂鬱さうだね。」と坂谷。
「うん。」
「元気がないね。」
「うん。」
「いつもそんなに黙つてゐるのか。」
「うん。」
「何とか云へよ。」
俊一は突然奇妙な調子で云ひ出した。
「この萩軒は古くからある店である。この室では、絵が壁と共に古びてゐる。テーブルは落ちついた光沢を持ち、数世紀以来の人の世の変転が、実にこの光沢の中に知らない間に捉へられてゐる。見よ。まなこを大にして。その光沢を見つめよ。そして数世紀来の人間歴史の苦悶の叫びを感ぜよ。卒然として来り我等を茫莫のうちに残すもの、ああ……咏歎の星河、燦々の星河、極みなき……。」
「それから?」
「それから……何だ。」
「知らんよ、そんなこと。」
「どうかしてやしないか。」
「誰が。」
「ぼくが。」
「してるかも知れん。今の様子だと。」
「今日はすこしへんなのだ。」
「気候に対する順応性に欠けてるのだよ、君は。天気が変るとへんになる。」
「うん、さうかも知れんな。……君は旅をして来たんだらう。どうだつた。」
「別に云ふことはない。すこし、くたびれた。」
「それだけか。」
「それだけだ。」
「今日はいい天気だね。」
「気がついたか。僕は前から気がついてるんだぜ。風が吹いてね、いやな雲をさあつと吹き払つちやつたんだ。ほら、あの優しくつて力の強い風の神様が乗つてゐたんだよ、きつと。さうするとね、蒼空がすつかり拡がつて、もうそりやきれいの何のつて、僕思はず見とれちやつたくらゐさ。おてんとさまがその真中できらり/\と……これはすこしをかしいね? ぴかり/\と……これはもつとをかしいや……きら/\と……ぎら/\と……ぎろ/\と……ぎよ/\と……だめだ、何て云つていいんだかわかんないや……とにかくとても明るく輝いてゐるんだ。ぼかあ、その時、いい天気だなつて思つてゐたんだよ。その時、すぐと気がついたんだよ。君なんかやつと今、気がついたんだね。」
「何を云つてゐるのだい。あほらしい。」
「君のさつきのテーブルの光沢の方がよつぽどあほらしい。」
「僕はどうかしてるんだよ。君はどうもしてやしない。万才はもう止めよう。」
「何しろ、君もたまには旅行したまへ。」
「旅行はいいな。」
「君は人生にむづかしい理屈をつけすぎる。」
「怒るな。」
「怒つてやしない。」
「さうか。」
「何だい。」
「何が。」
「君の云ひつぷりが。」
「さうか。すこしぼうつとしてゐる
「人生論なんか考へるからだよ。」
「別に考へてやしない。」
「考へたがつてゐる。」
「うゝむ。」
「むづかしいことさ。」
「何が。」
「いろんなことが。」
「これぢや話になりやしない。」
「へんな会話だね。」
「うん。」
「とにかく旅行して見たまへ。槍ヶ岳のてつぺんで天と地を見較べると面白い。」
「こはいだらう。」
「すこしこはい。」
「何故。」
「自分が小さ過ぎるからだよ。又は自然が大き過ぎるのさ。だん/\こはくなる。恐らく自分が汚な過ぎるんだ。その場から逃げ出したくなる。」
「逃げ出したか。」
「逃げ出した。」
「だけど……平凡だね。自分が汚な過ぎるつてこと。」
「平凡だね。僕は非凡なことを感じる力はない。自分に関する事は、僕には凡だか非凡だか分らない。……もう止さう、こんな話。」
「うん。」
「ちよつと、用事を思ひ出した。そのうち、君の家へ行かう。」
坂谷は立上つて、自分の伝票と一しよに俊一のをもつかんで飛び出して行つた。俊一もついて行つた。
出口のところで坂谷は、「こんどはおごつてもらふぜ。」と云つて風の如く去つてしまつた。
俊一は、すこし朗らかになつた気がした。奴さん、相変らずだな。と呟いて、坂谷に何か礼を云ふ気になつた。が、やつぱり根は直らなかつた。殊更に自分をみじめに見まいとしたので、却つてよけいにみじめに見えて来たのである。どうもやりきれない、と思つた。おれもひとつ槍の頂上へ行つて寝そべつて見ようかな。なるほど、気持がいいに違ひない。空気も日光も上等だ。人生もへちまもあるまい。それにしても、弟のやつをもう一度叱りつけてからの話だ。……
風がさつきより出てゐた。街から外れて、住宅地帯へ入つて、両側に大きな邸宅の並んでゐるだら/\坂を下り出した。並木は桜で、その並木に沿つて行くと小さな公園へ入つてしまふ。何公園といふのか、名は知らない。それを抜けると、間もなく橋。それを過ぎると再び中産階級の住宅地帯である。それからもつと行くと踏切で、或る私設電鉄が走つてゐる。この踏切近くは、なか/\景色がいい。割合ときれいな川がぢやぼ/\と流れてゐる。この辺の人は公衆道徳をよく守ると見えて、川辺には何も穢らしいものは捨てゝないから気持がいい。それから社がある。小さな社だが境内は広い。社殿の後ろの方の境内の一部は荒れはてて、そこから先は低い崖になつて下には人家が連つてゐる。この崖に臨むあたりは、樹木が適当に生え、草も適当に生ひ茂つてゐる。若し傍を通る電車がなかつたら、逢引にはいいところだな、と俊一はここまで来て考へた。神様もゆるして下さるだらう……。