Chapter 1 of 33

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剣侠

国枝史郎

木剣試合

文政×年の初夏のことであった。

杉浪之助は宿を出て、両国をさして歩いて行った。

本郷の台まで来たときである。榊原式部少輔様のお屋敷があり、お長屋が軒を並べていた。

と、

「エーイ」

「イヤー」

という、鋭い掛声が聞こえてきた。

(はてな?)

と、浪之助は足を止めた。

(凄いような掛声だが?)

で、四辺を見廻して見た。

掛声はお長屋の一軒の、塀の内側から来たようであった。

幸い節穴があったので、浪之助は覗いて見た。

六十歳前後の老武士と、三十五六歳の壮年武士とが、植込の開けた芝生の上に下り立ち、互いに木剣を構えていた。

(こりゃアいけない)

と浪之助は思った。

(まるでこりゃア段違いだ)

老武士の構えも立派ではあったが、しかし要するに尋常で、構えから見てその伎倆も、せいぜいのところ免許ぐらい、しかるに一方壮年武士の方の伎倆は、どっちかというと武道不鍛練の、浪之助のようなものの眼から見ても、恐ろしいように思われる程に、思い切って勝れているのであった。

それに浪之助には何となく、この二人の試合なるものが、単なる業の比較ではなく、打物こそ木剣を用いておれ、恨みを含んだ真剣の決闘、そんなように思われてならなかった。

豊かの頬、二重にくくれた頤、本来の老武士の人相は、円満であり寛容であるのに、額を癇癖の筋でうねらせ、眼を怒りに血ばしらせている。

これに反して壮年武士の方は、怒りの代わりに嘲りと憎みを、切長の眼、高薄い鼻、痩せた頬、蒼白い顔色、そういう顔に漂わせながら、焦心る老武士を充分に焦心らせ、苦しめるだけ苦しめてやろうと、そう思ってでもいるように、ジワリジワリと迫り詰めていた。

(やるな)

と浪之助の思った途端、壮年武士の木剣が、さながら水でも引くように、左り後ろへ斜めに引かれた。

誘いの隙に相違なかった。

それに老武士は乗ったらしい。

一足踏み出すと真っ向へ下ろした。

壮年武士は身を翻えしたが、横面を払うと見せて、無類の悪剣、老武士の痩せた細い足を、打ったら折れるに相違ない、それと知っていてその足を……打とうとしたきわどい一刹那に、

「あれ、お父様」という女の声が、息詰まるように聞こえてきた。

正面に立っている屋敷の縁に、十八九の娘が立っていた。

跣足でその娘が駈け寄って来たのと、老武士が木剣を閃めかせたのと、壮年武士が「参った」と叫び、構えていた木剣をダラリと下げ、苦笑いをして右の腕を、左の掌で揉んだのとが、その次に起こった出来事であった。

浪之助も塀の節穴越しに、苦笑せざるを得なかった。

(若い武士が打たれるはずはない。わざと勝を譲ったんだ)

そう思わざるを得なかった。

浪之助は娘を見た。

柘榴の蕾を想わせるような、紅い小さな唇が、娘を初々しく気高くしていた。

「何だそのような未熟の腕でいながら、傲慢らしく振舞うとは」

こう老武士の窘めるような声が、浪之助の耳へ聞こえてきたので、老武士の方へ眼を移して見た。

娘を横手へ立たせたまま、壮年武士と向かい合い、老武士は説いているのであった。

「たとえどのような伎倆があろうと、世間には名人達人がある、上越す者がどれほどでもある、増長慢になってはいけないのう」

こう云った時には老武士の声は、穏やかになり親切そうになり、顔からも怒りがなくなっていた。

「第一わしのようなこんな老人に、もろく負けるようなそんな伎倆では、自慢しようも出来ないではないか。のう澄江、そうであろうがな」

「まあお父様そのようなこと……もうよろしいではござりませぬか……でも陣十郎様のお伎倆は、お立派のように存ぜられますわ」

藤と菖蒲をとりあわせた、長い袂の単衣が似合って、たけてさえ見えるその娘は、とりなすようにそういうように云い、気の毒そうに壮年武士を見た。

壮年武士の表情には、軽侮と傲慢とがあるばかりであった。

しかし娘にそう云われた時、その表情を不意に消し、

「これは恐縮に存じます。……いや私の伎倆など、まだまだやくざでござりまして、まさしく小父様に右の籠手を、一本取られましてござります。……将来気をつけるでござりましょう」

「さようさようそれがよろしい、将来は気をつけ天狗にならず、ますます勉強するがよい。いやお前にそう出られて、わしはすっかり嬉しくなった。……では茶でものむとしようぞ。……陣十郎来い、澄江来い」

好々爺の本性に帰ったらしく、こう云うと老武士は木剣を捨て、屋敷の方へ歩き出した。

「では陣十郎様、おいでなさりませ」

「は」と云ったが陣十郎様という武士は、何か心に済まないかのように、何か云い出そうとするかのように澄江の顔を凝視するばかりで、歩き出そうとはしなかった。

「澄江様。……澄江様」

「はい、何でございますか?」

「私の甲源一刀流、お父上の新影流より、劣って居るとお思い遊ばしますかな?」

「いいえ……でも……わたくしなどには……」

「お解りにならぬと仰せられる?」

「わかりませんでござります」

「わからぬものは剣道ばかりか……男の、男の、恋心なども……」

「……」澄江の眼には当惑らしい表情が出た。

「打とうと思えば小父様など、たった一打ち手間暇はいらぬ。……打たずにかえって打たれたは……澄江さま、貴方のためじゃ」

「…………」

その時屋敷の縁の上から、

「おいで、こら、何をして居る」

老武士が呼んで手を拍った。

「羊羹を切ったぞ。おいでおいで」

「はい」と云うと陣十郎へ背を向け、澄江はそっちへ小走った。

「ちと痛い」と右の手を揉み、

「あの老耄、フ、フ、何を……が、澄江には恩をかけた。……この手で……」

と口の中で呟きながら、陣十郎という若い武士は、屋敷の方へそろそろと歩いた。

(どうにも変な試合だったよ)

浪之助はそんなことを思いながら、両国の方へ歩いて行った。

(それにしてもちょっと美い娘だった)

こんなことをチラリと心の隅で思い、独り笑いをもらしたりした。

年はまだ二十三歳、独身で浪人であった。

親の代からの浪人で、その父は浪之進といい、信州高島の家臣であったが、故あって浪人となり、家族ともども江戸に出た。貨殖の才がある上に、信州人特有の倹約家で、金貸などをひそかにやり、たいして人にも怨まれないうちに、相当に貯めて家屋敷なども買い、町内の世話をして口を利き、武士ではあったが町人同然、大分評判のよくなった頃、五年ほど前にポックリ死に、母親はその後三年ほど生きたが、総領の娘を武家は厭、町家の相当の家柄の家へ、――という希望を叶えさせ、呉服問屋へ嫁入らせ、安心したところでコロリと死に、後には長男の浪之助ばかりが残った。当然彼が家督を取り、若い主人公になり済まし、現在に及んでいるのであるが、この浪之助豚児ではないが、さりとて一躍家名を揚げるような、一代の麒麟児でもなさそうで、剣道は一刀流を学んだが、まだ免許にはやや遠く、学問の方も当時の儒家、林信満に就いて学んだが、学者として立つには程遠かった。

ところがこのごろになって浪之助は、何かドカーンと大きなことを、何かビシッと身に泌みるようなことを、是非経験したいものだと、そんなように思うようになった。なまぬるい生活がつづいたので、強い刺戟を求め出したと、そう解釈してよさそうである。

袴無しの着流しで、蝋塗りの細身の大小を差し、白扇を胸の辺りでパチツカせ、青簾に釣忍、そんなものが軒にチラチラ見える町通りを歩いて行った。

浅草観世音へ参詣し、賽銭を投げて奥山を廻り、東両国の盛場へ来たときには、日が少し傾いていた。

娘太夫を巡って

両国橋を本所の方へ渡ると、江戸一番の盛場となり、ことに細小路一帯には、丹波から連れて来た狐爺とか、河童の見世物とか和蘭陀眼鏡とかそんないかがわしい見世物小屋があって、勤番武士とか、お上りさんとか、そういう低級の観客の趣味に、巧みに迎合させていた。講釈場もあれば水芸、曲独楽、そんなものの定席もできていた。

曲独楽の定席の前まで来て、浪之助はちょっと足を止めた。

しばらく思案をしたようであったが、木戸銭を払って中へ入った。

こんなものへ入って曲独楽を見て、口を開けて見とれるという程、悪趣味の彼ではないのであったが、以前にここの娘太夫で、美貌と業の巧いのとで、一時両国の人気を攫った、本名お組芸名源女そういう女と妙な縁から、彼一流の恋をした。ところが今から一年ほど前に、不意にその女が居なくなった。悪御家人の悪足と一緒に、駆落ちしたのだという噂があったり、養母に悪いのがついていて長崎の異人へ妾に売ったのと、そんな噂があったりしたが、とにかく姿を消してしまった。浪之助は妙にその女には、かなりの執着を持っていて、姿を消されたその当座は、ちょっと寂しく感じたりし、もうその女がいなくなった以上、そんな曲独楽なんか見るものかと、爾来よりつきもしなかったが、今日は彼の心の中に、昔なつかしい思いが萌えた。そこで、木戸をくぐったのである。

桟敷と土間もかなりの入りであった。

舞台には華やかな牡丹燈籠が、二基がところ立ててあり、その背後には季節に適わせた、八橋の景が飾ってあり、その前に若い娘太夫が、薄紫熨斗目の振袖で、金糸銀糸の刺繍をした裃、福草履を穿いたおきまりの姿で、巧みに縄をさばいていた。

「おや、ありゃア源女じゃアないか」

驚いて浪之助は口の中で叫んだ。

娘太夫は源女のお組、それに相違ないからであった。

瓜実顔、富士額、薄い受口、切長の眼、源女に相違ないのであった。ただ思いなしか一年前より、痩せて衰えているようであった。

(舞い戻ってこの席へ出たものと見える)

油然と恋心が湧いて来た。

(逢って様子を聞きたいものだ)

その時源女が昔ながらのとはいえ少し力の弱い声で、

「独楽は生独楽生きて廻る」と、口上を節づけて述べ出した。

「縄も生縄生きて動く。……小だめしは返り来の独楽、縄を離れても慕い、翻飜として飛び返る。ヤーハッ」と云ったかと思うと、右手の振袖が渦を巻き、瞬間縄が宙にほぐれ、差し渡し五寸もあるらしい、金蒔絵黒塗り銀心棒、朱色渦巻を胴に刻った独楽が、唸りをなして舞い上り、しばらく宙に漂うように見えたが、あだかも生ける魂あって、すでに源女に手繰られている、絹、麻、髪を綯いまぜて造った、鼠色に見える縄を目掛け追うかのように寄って来た。

と、源女は右手を出した。

その掌に独楽は止まった。

グルリと掌を裏返した。

逆さになったまま掌に吸いつき、独楽は森々と廻っている。

どっと喝采が見物の中から起こった。

しかしどうしたのかその一刹那、ポタリと独楽が、掌から落ち、源女は放心でもしたように、桟敷の一所を凝然と見詰めた。

恐怖がその顔に現われている。

(どうしたんだろう?)と驚きながら、源女の見詰めている方角へ、浪之助も眼をやった。

(や)とこれも驚いた。

そこに、桟敷に、見物にまじって、榊原式部少輔様のお長屋の庭で、老武士を相手に試合をしていた、陣十郎という壮年武士が、舞台を睨むように見ているではないか。

単なる浪之助の思いなしばかりでなく、陣十郎の眼と源女の眼とは、互いに睨み合っているようであり、源女が独楽を掌から落とし、放心したように茫然としたのも、陣十郎の姿を認めたからであると、そんなように思われる節があった。

(二人の間には何かあるな)

そんなように思われてならなかった。

「弘法にも筆のあやまり、名人の手からも水が洩れる、生独楽を落としました源女太夫のあやまり、やり直しは幾重にもご用捨……」

床から独楽を拾い上げ、顫えを帯びた含み声で、こうテレ隠しのように口上を述べ、源女が芸を続け出したのは、それから直ぐのことであった。

これがかえって愛嬌になったか、見物は湧きもしなかった。

その後これといって失敗もなく、昔ながらに鮮かに、源女は独楽を自由自在に使った。

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