Chapter 1 of 4

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染吉の朱盆

国枝史郎

ぴかり!

剣光!

ワッという悲鳴!

少し間を置いてパチンと鍔音。空には満月、地には霜。

切り仆したのは一人の武士、黒の紋付、着流し姿、黒頭巾で顔を包んでいる。お誂え通りの辻切仕立、懐中手をして反身になり、人なんかァ殺しゃァしませんよ……といったように悠然と下駄の歯音を、カラーンカラン! 立てて向うへ歩いて行く。

切り仆されたのは手代風の男、まだヒクヒクうごめいている。手に包を握っている。

側に屋敷が立っている。立派な屋敷で一軒きりだ。黒板塀、忍び返し、奥に植込が茂っている。周囲は空地、町の灯に遠い。

その塀に添って、カランカラーン、武士はおちついて歩いて行く。

塀について左へ曲がった。

矢張り悠然、矢張り歯音、カラーンカラン! カラーンカラン!

また塀について曲がった途端、

「御用!」

捕手だ!

上がったは十手!

武士、ちっとも驚かなかった。

佇むとポンと胸を打った。

「へ――」

と捕方平伏した。

「半刻あまりそこにいろ」

いいすてて、またもカラーンカラン! 綺麗に歯音を霜夜に立て、そうして肩に満月を載せ、町の方へ行ってしまったのである。

切り仆された手代風の男、まだヒクヒクうごめいている。

と、右手から人の足音、雪駄穿きだな、バタバタと聞える。現れたのは職人風の男、死にぞこないにつまずいた。

「おっ!」というとつくばった。

「しめた!」というと飛び上がった。途端に右手が宙へ躍った。

と、どうしたんだ、あわてたように「しまった!」と叫ぶと引っ返してしまった。どこへ行ったか解らない。

「あッ、取られた、大事な朱盆!」

切られた手代風の男の声! そうしてそれなり、死んでしまった。

数日経った或日のこと、

「ご免下さい」と訪う声。

人殺しのあった側の屋敷、その玄関から聞えて来た。扮装だけはシャンとしているが、顔に無数の痘痕のある可成り醜い男が立っている。

「はい」と現れたのは小間使い「何かご用でございますか?」

「突然で不躾ではございますが、もしやお屋敷の庭の隅に、朱盆が落ちてはおりませんでした?」

「しばらくお待ちを」と這入って行った。

引き違いに現れたのは一人の令嬢、「たけた」という形容詞が、そっくり当て篏まるような美人であった。

「おたずねの品物、これでございましょう」

差し出したのは一面の朱盆。

「へい、さようで」

と醜い男じっと朱盆を眺めやった。

何んて微妙な深紅の色だ! 金短冊が蒔絵してある。そうして文字が書かれてある。

「こひすてふ」という五文字である。百人一首のその一つの、即ち上の五文字である。

男、ヒョイと令嬢を見た。と、チラチラと眼の中へ、狂わしい情熱の火が燃えた。

「ご免下さい」と行ってしまった。

ところがそれから数日経ち、同じようなことが行われた。

同じ場所で、手代風の男が、スポリと一刀に切られたのである。切り仆したのは同じ武士、矢張り悠然と立ち去ってしまった。かけつけて来たのは職人風の男、

「しめた!」というと躍り上がった。途端に右手が宙へ上った。そうしてそのまま逃げ去ってしまった。

切られた男の断末魔の声「あッ取られた、大事な朱盆……」

それも全く同じであった。

違った所も少しはある。

当然その夜は満月ではなかった。小雪がチラチラ降っていた。で、道がぬかるんでいた。

そこでもちろんカラーンカランと、下駄の歯音は響かなかった。

もっと重大な相違点がある。

(一)捕手がその夜は現れなかったこと。

(二)「しまった!」と職人が叫ばなかったこと。

だが、それから数日経ち、例の屋敷の玄関へ、例の醜男が現れて、朱盆の有無をたしかめたのは、以前と全く同じであり、その応待も同じであった。

次ぎの一ヶ条だけは違っているが――。

(一)金短冊に書かれてあった文字が「我名はまだき」とあったことである。

これが四回も続いたのである。

で、その結果はどうなったか? 手代風の男が四人殺され、朱塗の盆が四枚がところ、たけた令嬢の手に這入り、短冊の文字を集めると、

「恋すてふ、我名はまだき、立ちにけり、人しれずこそ」

となったのである。

令嬢の名は縫様、以来お縫様憂鬱になった。

四枚の朱盆を前へ並べ、こんな独言をいうようになった。

「ああもう一枚ほしいものだ。そうするとすっかり揃うのに。――恋すてふ我名はまだき立ちにけり人知れずこそ……足りないわねえ。『思ひそめしが』ともう一句、それを記した盆がほしい。それにしても、どうして私の屋敷へ、こんなにも立派な四枚の盆を、誰が何のために投げ込んだのだろう? ――そうしてあの男は何者だろう? 盆の有無しを確めに来ては、持っても行かずに行ってしまう。不思議な眼つきで私を見る」

もう一枚の盆に対する、執着の念が深くなった。

そこで、とうとう蒔絵師を呼んだ。

「こんな朱盆ははじめてみます。この朱色は無類です。どんな顔料を使いましたやら。塗も蒔も同じ手です。これも素晴らしゅうございます。私など真似も出来ません。だが作り手は知れています。日本に蒔絵師は沢山あっても、これ程の物を作る者は、染吉のほかにはございません。……ああ染吉でございますか? 谷中の奥に住んでおります。大変な変人でございましてね、自分で作った品物を、人手に渡すのを惜がるのです。で、仲々手に入りません。どんな大金を積んだところで、気に向かないと作りませんので、珍重されておりますよ。だが染吉の作にしても、これは飛切り上等の方で、一代の傑作と申されましょう。……ええと年はまだ若く、二十八の独身者で、それに醜男でございますので女嫌いで通っております。いかに仕事は名人でも、変人の上に醜男ときては、ご婦人方には好かれませんからなあ。それこそあなた、顔と来たら、疱瘡の痕でメチャメチャで」

これが蒔絵師の挨拶であった。

「ああそれではあの男だ」お縫様は直に感付いた。

「朱盆の有無しを確めに来たあの男が染吉だ」

そこでお縫様いったものである。

「どんなお望みにでも応じます。『思ひそめしが』と六文字を入れた、この盆と対の朱塗の盆を、ぜひともおつくり下さいますよう、その名人の染吉さんに、あなたからお頼みして下さいまし」

翌日蒔絵師はやって来たが、返辞は意外なものであった。

「こう染吉は申しました。『そのお嬢様のお頼みがなくとも、私の方からお作りし、そのお嬢様へ差上げようと、この日頃苦心しているのですが、とても望みは遂げられますまい。まあ見て下さい。この体を! すっかり痩せて衰えて、骨と皮ばかりになりました。実は私はその盆と一しょに、心を捧げようと思っていたので。ああそうです、お嬢様へ……思いそめしが! 思いそめしが!』……お嬢様どうやら染吉は死んでしまいそうでございますよ」

果して名工染吉は、その後間もなく死んでしまい、お縫様も間もなくなくなってしまった。なくなる間際までお縫様は、最後の盆をほしがった。で、口癖のようにいったそうである。

「思いそめしが、思いそめしが」

「ね、兄貴、話といえば、ざっとこういったものなのさ」

話し終えた岡引の半九郎は、変に皮肉に笑ったものである。

「成る程」といったのは岡八である。

「大して面白い話でもないな」

「どうしてだい、面白いじゃァないか」

「古いありきたりの因果物語りさ」

「そうばかりもいわれないよ、遺跡がのこっているのだからな」

「おおお縫様の屋敷跡か」

「そっくりそのまま残っているのさ」

「住人がないとかいったっけね」

「草茫々たる化物屋敷さ」

「根岸附近だとかいったっけね」

「そうだよ」と半九郎うなずいた。それからまたも変に皮肉に、盗むような笑いを浮かべたが、

「どうだい兄貴、謎が解けるかね?」

それには返辞をしなかったが、

「十年前の話なんだな?」

「安政二年の物語りさ」

岡八というのは綽名である。

「一つの事件をあばこうとしたら、渦中へ飛び込んじゃいけないよ。いつも傍から見るんだなあ。渦の中へ一緒に巻き込まれようなものなら、渦を見ることが出来ないからなあ。ほんとに岡目八目さ」

これがこの男の口癖である。その本名は綱吉といい、非常に腕っこきの岡引であった。

一つ二つ例を挙げてみよう。

一人の女が訴え出た。

「夫が家出をして帰りません」と。

数日たって女の隣人が、井戸に死人があると訴え出た。

その女も走って行った。井戸を覗くと叫んだものである。「私の夫でございます」

そこで岡八が一喝した。

「人殺しは手前だ! ――ふん縛れ!」

果してその婦と情夫とが、共謀して良人を殺したのであった。

「岡目で見りゃァ直判りまさあ、古井戸の中は暗くてね、死人の形がぼんやりと、やっと見えるくらいのものだったんで、一目覗いて亭主だなんて、どうして判りっこがあるものですかい。殺して置いてぶち込んだんで」

或家でかんざしを盗まれた。戸外から入り込んだ形跡はない。二人の下女が疑わしかった。そこで岡八、青麦を二本、二人の下女へやったものである。

「正直者の麦はそのままだが、不正直者の麦は長くなる。明日の朝までに一寸が所な」

翌日調べると一本の麦は自若、一人の下女の持っていた麦が、一寸がところ摘切られてあった。

「そいつが詰り盗人だったんで、下女なんてものは無知なもので、そんな甘手にさえひっかかりますよ。ほんとに延びると考えて、一寸がところ摘んだんでさあ」

さてその岡八だが、最近に至って、一つの難事件にぶつかってしまった。

いい若者が無暗とさらわれ、十数日たつと送り返されて来る。その時はすっかり衰弱している。どうしたと尋ねても真相をいわない。そうして、おまけに、いうのである。

「ああもう一度あそこへ行きたい」

そうして間もなく死んでしまうのである。

時世は慶応元年で、尊王攘夷、佐幕開港、日本の国家は動乱の極、江戸市中などは物情騒然、辻切、押借、放火、強盗、等、々、々といったような、あらゆる罪悪は行われていたが、岡八のぶつかった難事件のようなそんな事件は珍しかった。

「さらわれた先をいわないというのが、何より変梃で見当がつかない」

全く見当がつかなかった。

で、この日頃ムシャクシャしていた。

そんな気も知らずに半九郎奴、十年前の古事件、お縫様屋敷の物語りを、面白くもなく、しゃべり立て謎を解いて見ろというのである。

「で、何かい」と岡八はいった。「その古々しい因果物語りが、はやり出したというのかい?」

「ああそうだよ」と半九郎。「銭湯へ行っても髪結床へ行っても、専らそいつが評判なのさ」

「で、何かい」と、また岡八「四人までも切った侍が、其まま解らずに消えたのが、面妖だっていうのかい?」

「それからどうして染吉が、燈心の火が消えるように、衰死したかが不思議だというのさ」

「恋病だあね、それで死んだのさ」

「そうチョロッかに片付るなら、辻切の方だって片がつく、切りっぱなしで消えたんだとね。……だがそれだけでは済むまいぜ、俺等の商売からいく時はね」

「十年前の出来事じゃァねえか」

「ところがお前そうじゃァないんだ、俺等の仲間で競争的に、その謎解きにかかっているのさ」

「へえ、そいつァ物好きだなあ」岡八一寸眼を見張った。「初耳だよ、そんな話は」

「お前は一人で高くとまり、俺等とあんまりつきあわないからさ」

「それにしても暇の連中だなあ、この小忙しい浮世によ」

「そこで連中はいっているのさ。岡八兄貴なら解けるだろう。もし又こいつが解けねえようなら、岡八なんかとはいわせねえとね」

「えらく皆に憎まれたものだな」岡八ニヤリと笑ったが、どうしたものか膝を打った。それからヒョイとをしゃくった。「よし来た、それじゃァ解いてみせよう!」

「え、本当か! そいつァ豪勢だ!」

「しかも、きっと今日明日の中にな」

半九郎が帰ると岡引の岡八、フラリと皆川町の家を出た。

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