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赤い鳥
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赤い鳥
鈴木三重吉
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Chapter 3 of 8

3

冷吉は口の聞きやうがないので、

「そしてお主婦さんはどうしたの?」と他の事を言つたが、母は返事をしずにたゞ涙を啜つた。

「冷さん、これでもうお前さんの我儘には懲りて下さいよ。何でもない事からたうと大事な片目を潰して了つたぢやありませんか。それがお祖父さんに對してはみんな私の罪になつて了ふのだもの。ちつとは私の心持にもなつて見ておくれよ。」

かう言ひつゝ母は言葉を途切つて、悲しく考へ入つてゐるらしかつたが、やがて氣を換へたやうに、

「けれど言はゞやつ張り私が惡かつた。本當はお前さんがどんなに言つたつて、私が飽くまで出さないで置けば言ふ事はなかつたんだけれど、ほんとに何といふ災難に會つたものだらうね。かうして生れもつかぬ片輪になつて了つて……」と、溜息をしつゝ、いつしか自分で自分を責め悔いるやうに言ふのであつた。

冷吉は何だか自分よりも母が氣の毒なやうな氣になつて、知らず/\繃帶の下に涙ぐまれた。一人の母の口から、自分が片輪になつたと言はれるのを聞く、その片輪といふ言葉も、自分と母とのために悲しく心に浸み入つた。冷吉は動く事の出來ぬものゝやうに、じつと横臥した儘默つてゐた。

やがて母は、

「冷さん、冷えるといけないからもう蒲團をお着なさい。」と一枚だけ着せかけたが、

「それからお前、何か食べなければお腹がすいたでせう?――だつてお夕飯が來ても一口も食べなかつたと言ふぢやないの?――あそこにミルクが買つて來てあるやうだから、あれでも溶いて上げようか。ね。」

かう言ひつゝ蒲團の肩先を押へた。

そこへ徐と戸を開けて、主婦さんがどこからか歸つて來た。

「やつぱり私が出しました使のものが歸つてまゐりましたのでございました。丁度あなたと同じ汽車で着きましたのでございませうけれど。」と、主婦さんは病人に遠慮するやうに小さい聲で話した。

「とにかく先刻申しました容體書を一應警察の方へ出して置いて、それから宅へつて歸りましたのださうですが、やども私たちがこちらへ出てまゐりますのと擦れ違ひに着きましたさうで、早速先方へ押しかけて行つて、手ひどく切り込んだ容子でございます。使のものがまゐりました時分には、何でも向うの仲間らしいものが三四人手前共の方へまゐりまして、しきりに何か頼んでゐたやうだつたさうでございますが、私はどうせ、罪が遁れられないものと見て示談にでもしようといふ積りで運動してるのではないかと思ひますが、けれどあなた、そんな蟲のいゝ話がございますものですかねえ。本當にそれこそはどんな目に會はせてやつたつて足りるのぢやございませんのですから。――それにあの男の平生の所業から申しましても、警察があゝした手ぬるい處置をしてゐられる筈のものでもないのでございますがねえ。一體警察ではどうしようといふのでございませう?」

「でももう何と言つたつて取りかへせない事なんですから、そつちの方はどうでもようございます。みんなこの子が平生我儘をする罰なんですから。」

母はかうなつた段にいくら零しても仕方がない事だといふやうに、投げやるやうにかう言つた。

「ですけど、何と思つて見ましてもいま/\しいぢやございませんか。――いゝえ、どういたしまして、あなた。奧さまの御心をお察し申しませば私なぞはどんな目をいたしましても申譯は立ちませんのでございます。――おや、お目ざめで入らつしやいますか。」

主婦さんは例の冷し藥の土鍋に藥を注けるらしく、

「もうさつきなさらなけやならなかつたのでございますけど、餘りよくお寢つていらつしやいましたものですから。――それからこのお藥をもう一度召し上るのでございますが。」

「おや、これは罐がちやんと口が切つてあるんですね。それではその後で、もつとお湯を熱くして戴きませうか。」

「ですけどミルクよりか奧さま、ざうさはございませんから一寸お粥を何いたしませう。その積りでお米もそこに少しだけ買つて來てございますのですよ。つひその廊下に水も出るやうになつてゐるのでございますから。」

二人でこんな事を言つてゐる。

暫くして、

「これはハミガキに楊子に、これは片栗ですか?」と母がいふ。

「私はつひ浮つかりして、お砂糖を買ふのを忘れました。」

「まあまあなた、お大抵ぢやございませんでしたねえ。何から何まですつかりかうして置いて下すつて、本當にお蔭さまでございます。」

「何ですか、まだいろ/\足りないものがございますが、今日明日だけ無くても我慢が出來ますものは、そのうち宅からすつかり持つてまゐりますでございます。」

冷吉は、かう言つたやうな、二人のひそ/\した片隅の話を聞きつゝ、蒲團を被つてゐたが、何だか左の目が、ひゞれが入つたやうにびり/″\するのが、この先どんな事になるのかと物暗く案じられ出した。

「冷吉一寸起きて目のあれをおしよ。」と母は言つた。主婦さんは側へ來て繃帶を解くのに手を添へた。母は默つて傷がどんなに被はれてゐるかを見探つてゐるらしかつた。

冷吉は、右の目は閉してあるまゝで、左の目だけ開けて起き直つてゐるのだけれど、もとより、例の水の底のやうに茫つとした灯がもや/\する外には何にも見えないのであつた。

「これは電燈ですか?」と言ひつゝ、下された土鍋の上に顏を屈めて、藥に浸したガーゼを箸で摘んで目に當て/\した。

時計が外の廊下の方で二時を打つ。

「もうそんなになりますかね。お主婦さん、あなたはいゝ加減で御寢なる仕度をして下さいな。あとは私が見ますから。」と、母は紙を出して、冷吉が零した水の滴りを拭いた。

主婦さんは何をか提げて外へ出るらしかつたが、

「おや、お星さまが流れました。」と、獨り言のやうに小聲にかう言ひつゝ、そつと戸を閉ぢて、足音を盜むやうに廊下を向うへ出て行つた。

「冷吉お前こちらの目は全で見えないの?」と、母は氣の毒がる主婦さんの一寸ゐなくなるのを待つてゐたやうに、恨めしさうにかう聞いた。

二時と言へば眞夜中である。死のやうにしんとした外には、木立にざわ/″\とまばらな風が渡つた。

「となりの部屋にはだれかゐるの?」と冷吉は目を冷しつゝ聞く。

「何故?」

「何かがさごそ言はせてるやうだから。」

「――さうね。だれかゐるらしいね。こちらでどさくさ出たり這入つたりするから目がさめたのだらう。小さい聲をなさい。――もうそれでいゝの?」

九時からの診察のベルが鳴つたので、冷吉はやがて母に伴れられて、そろり/\病室を出た。このやうにして自分の母が來て附いてゐるために、昨日來た時とは違つて、何だかもう長くかうして居着いてゐる、當り前のところにでも生活してゐるやうな或物が感じられた。

下には大分ごた/″\外來の患者が來てゐるやうで、女たちが濁つた訛りでひそ/\話してゐたりするのが聞えた。

ベンチにかけて待つてゐると、四つ五つの男の子のやうに思はれるのが、冷吉の直き側へ來て、ベンチへ上つたり下りたりして、目まぐろしくて堪らない。伴れて來てゐる下女らしいものが、人前の體裁だけに一寸/\甘つたるく叱るだけだから、やつぱりがさごそ動きつて、何かの木切れでそこらをぎい/\かなぐつたりする。

診察室からは昨日の看護婦が、淋しい女のやうな聲をして、次々に患者の名を呼んだ。藥でも注されたらしく、物に怯えたやうに、逆せるばかりに泣き立てる赤ん坊をすかしながら、外の方へ出て行くものもあつた。

「これは五錢銅かね、もし。ひゝゝどうもすみましねえ。さつぱり見えねいでございまして。」

と、受附の方で年寄りらしいものが頓狂な聲をして金を拂つてゐる。すべての容子が、どうしても、薄汚い、剥げ古りたやうな小さい病院のやうに思はれた。

冷吉は間もなく昨日の暗室に入れられて診察された。

「ね、そら、びり/″\動くだらう? そ、肉眼でも見える。」と、院長は助手の醫員に、例の四角な金屬板の穴から覗かせた。母もいつしか側へ來て立つてゐた。

「どうも少し込み入つた症候ですから、」と、院長は何かを警戒させるやうにかう言ひつゝ、右の方のガーゼを除つた。

「まあ隨分ひどい事をしたものでございますねえ。」と、母は初めて傷を見て痛々しさうに沈んだ口を開いた。

「もうはつきり見えますか? こちら。これを見て下さい。――曇つてゐる。――でも最うこちらは大丈夫です。神經が疲れてるから少しもや/\するのでせう。もう何でもありません。――これはどうしても少しは跡が附くなあ。痛いですか?」と、院長は傷口の附近を指で押へて見た。

それから診察室へ歸ると、兩方の目へ注し藥をされて、目の内側の角をどちらとも人差指で押へさせられつゝ、ソーフアに倚けて、さうしたまゝ少らくじつとしてゐなければならなかつた。そこを押へてゐる譯は、後に看護婦から聞いて解つたのだけれど、その下のところが涙の出る口になつてゐるのださうで、さうして口を塞いでゐないと、涙が流れて藥を外へ出して了ふからださうであつた。藥は烟に噎せた時のやうにちき/\と目に浸みた。

さうしてゐる内に、女らしい氣色の一人が、冷吉の左側の空いてるところへ來て、徐つと腰をかけた。冷吉は袂の先を敷かれて氣になるやうな心持がしたので、肘を上げて徐かに引つ張ると、「おや御免下さい。」と、落ついた品位のある言葉で小さく女は挨拶した。十八九の女のやうに思はれる。さう言つて、立つて坐り直す着物の徴かに擦れる音も、いゝ着物を着てゐる女のやうであつた。

患者は代る/″\這入つては出た。五分ばかりも立つたと思ふ頃、冷吉はもう一度左の目に藥を注された。

「もうこちらは押へてゐなくてもいゝです。」と言はれたので手を下したが、何だか目を開けて周圍の容子が見たくなつたので、傷がたくれるやうに痛いのを我慢して、僅かに小さく開いて室内を見した。

と、院長の前には頭に手拭を被つた、在方の女房さんのやうなのが椅子にかゝつてゐた。院長は汚點だらけの上つ被りを着て、口の聞きやうからが、いら/\した、物に構はないやうな、氣の置けない醫者であつた。小さい藥壜のごた/″\並んだテイブルの向ひ側には、學校を出たばかりのやうな、さつきの醫員が、白い上つぱりに時計の鎖を覗かせてペンを走らせてゐた。院長の傍に立つて脱脂綿を裂つて渡してゐる看護婦は、聲で想像したやうに、痩せしなびた淋しさうな女で、白い上着の袖口を赤いリボンを裂つたやうなもので結んでゐるのが目立つてゐた。

冷吉と向ひ合つた方の、汚れた白木綿のカーテンの下にも、四五人の患者がソーフアにかけて、同じやうに目を押へてゐた。大方は手織縞の古けた着物を着た、在方の男のやうなのばかりで、帶をだらしなく結んで、窮窟さうな恰好に上前を捩ぢれさせてゐるものもあつた。

冷吉は傷が釣られるやうに障るので、目を閉つては開けて、すべての容子を納得するために、そろり/\順々にあたりを見た。鴨居の壁には、月球の圖を見たやうなものを血のやうな色で摺り出した掛圖がずつと並べて掛けてある。それは何か目に關した標本圖だらうと思はれた。

再び院長の方を見ると、後の、向うへ出這入りする襖の引手が取れて穴があいて、裾のあたりの破れ目へ違つた紙がべつたり貼つてあるのが目についた。室内のすべての光景は、何だか自分が平生贅澤ばかりしてゐるのを戒められるやうな、質素な感じを與へるのであつた。そこには一寸も尊大や厭味の或物がないために、冷吉には、少し開けてゐればすぐ疲れて曇つて來る、小暗い心持のする目に取つて、何となくすべての人が親しいやうな家庭的な心持がした。

冷吉はもう久しくかうして毎日來てゐる續きのやうな氣がした。となりにゐる婦人はこの時二囘目の藥をさゝれるやうであつた。

「そんなに非度く浸み附きますか?」と院長が聞く。

「はい。少うし。」と、女は氣のやさしい、しつとりした婦人のやうに靜に答へた。冷吉はどんな女か見たいやうな氣がするけれど、押へてゐる方の目の側に腰をかけてゐるのだから、顏をそちらへして見る譯にも行かなかつた。

「冷さん、私は一寸上へ行つて來るからね。」と、母がどこからか側へ來てかう言つた。冷吉は女の事はそれで忘れて他の事を考へた。

Chapter 3 of 8
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