第三章
英国海軍は今年一番高額な予算を追加し、六週間の海上任務を行っていた。東女帝丸は同予算をとうに超過していたが、クリントン艦長は最強の戦艦を指揮していることを知っているから悠然としていた。
とある十月の闇夜、うるわしい夏の海は海風が冷たくさわやかで、島々がピリッと刺すような香りを漂わせ、ミネリア国を囲むように横たわり、海岸線の端っこには厳然とサン・マザ港があった。
濃紺の弧空に無数の星々が輝き、海上を光線が照らし、その何たるかは東女帝丸の船員たちがよく知っている。まさにカタゴニア国の小型砲艦であり、サン・マザ港を猫がネズミを見るよう監視していた。
クリントン艦長は幕僚と一緒に士官甲板で葉巻を吸っていた。そのなかに独人のエル・イレンタル先生がいた。手下は機関室にて、心を機械のようにして、技師に付きまとっていた。
「やつら、なんで戦わないんだ。あれだけ小型砲艦がいれば、宣戦布告できるぞ」
とクリントン艦長。
独人のイレンタル先生が答えた。
「ミネリア人はアメリカから来る新造船を待っているのであります。船が来たら、騒ぎが見られます。私も楽しみであります。探索と測深には疲れたであります」
「蒸気小型船を呼んで、よければ上陸したまえ」
とクリントン艦長。
イレンタル先生が感謝した。ちょうどお願いしようかと思っていたところです、と言った。
*
一時間後、サン・マザ港の波止場をよろけながら歩く酔っ払いは足元がおぼつかないが、しょせん持ちネタの演技だ。ごく自然にふらりと喫茶店にはいり、さも偶然に居合わせたかのような人物はマルコス大使じゃないか。
「こんばんは」
とマルコス大使。
「やあ。私と分からなかったでしょう。ここへ行きなさいと、ことづてしました。船は見ましたか」
とグライド。
「ええ、もちろん。我々のものだったらなあ。小型砲艦め。まあ、閣下が成功なさったら、さっさと片付けてやる」
「私はいつも成功する。今から三日後に東女帝丸はドラガルド湾に入れる。人員は準備できましたか」
「道具を準備して待機しています」
「よろしい。職人に任せて、東女帝丸と分からないほどに偽装させなさい。思ったほど難しくありません。もう一つ最重要な指示があります。捕獲した戦艦がドラガルド湾に着くころ、英国軍艦の乗務員がサン・マザ港へ小舟で到着するはずです。直ちに追っ払ってください。国が混乱しているとかなんとか言って。なぜなら、もしもそのとき捕獲した戦艦が入港したら……」
グライドが意味深に止めた。
マルコス大使がうなずいて、
「ごもっとも。そのようにします。ほかには?」
「些細なこと、はした金ですよ。東女帝丸に乗り込み、現金をお渡しください。そのとき共犯の四人も乗っています。手配の小舟で私がサン・マザ港へ行く間、奴らは船に留めて、二、三日もてなしてください。その間、奴らが何かしでかしたら、容赦なく殺してかまいません」
「死人に口なしですね」
とマルコス大使がうそぶいた。
「そういうことです。それに分け前も要りません」
二人は目くばせし、グライドが椅子から立ち上がった。さも自然に再び足元をふらつかせ、お人好しの、ぼけ学者そっくりに変身した。
*
サン・マザ港はいいところでありました、とイレンタル先生がクリントン艦長に告げたのは少しあとだった。
「申し訳ないがまだ見てないんだ」
とクリントン艦長。
「たぶんまだでありましょう。口で言えないほどであります。ふーっ、さてと、船室へ戻って測深を清書いたします。部下はどこへ行ったやら」
その頃、共犯どもは船室で親分を待っていた。グライドが扉を閉めると、食い入るように見つめて、一人が尋ねた。
「なにかニュースは?」
「ああ、ある。やっと肝心な潮流の情報を全部聞いた。現地の物知りがすべて教えた。木曜日の夜十時にヘン・チキン暗礁の端に行くぞ。俺が艦長に掛け合ってうまくやる。月がないから、数時間は真っ暗闇だ。当日の夜十一時には船底の持ち場にいろ。合図なんか必要ない。感じるからだ。すべてうまく行ったら、数時間後、各人に一万ポンドずつやるぞ」
共犯どもがにやけた。見通しはとても楽しいものだった。
グライドが続けた。
「さあ、すべては貴様らにかかっておる。船は海図に従って皆が考える通り、暗礁の南方に一度かそこらで進んでいる。お前らがよく知ってるようにまさに乗りあげ舵だ。最初の衝撃で任務を実行しろ。バラストタンクを調整して、浸水させて、大混乱させろ。その操作で船首が軽くなり浮いていられる」
「ええ、でも浮いてますか」
と一人が尋ねた。
「当然だ。乗りあげる暗礁は柔らかいサンゴだし、最少の浸水で座礁する。一時間後には離礁する。その頃までには戦艦の乗員はボートで離れるから、我々は船に残る。天気がいいので、お前らのような熟練技師なら、百六十キロ離れたドラガルド湾へ操船できないことはない。夜が明けるずっと前に、戦艦の乗組員は水平線下に見えなくなる」
グライドは計画に絶対の自信と、実力を誇示して手下を解散させ、休んだ。
翌朝ミネリア国の海岸が見え、舳先には青潮がゆっくり流れていた。その日、一日中グライドは水深測定で忙しかった。
*
翌日はゆるりと終わり、やっと夜のとばりが黒雲のように降りて何も見えなくなった。十時頃までグライドは船室で忙しく過ごし、それから甲板に上がり、気付かれないようにした。
もう、よろよろしていないし、しなやかで軽快な足取りは猫のようだ。場所を選び、船の明かりを避け、暗影に身を伏せて進んだ。
やがて目的の艦橋へ着いた。操舵室の裏口だ。なぎで穏やかな夜、海岸線がよく見え、見張りは甲板でうとうとしている。士官は誰ひとりいない。グライドが時計を見ると、まさに到来時刻だ。
べたなぎを行く東女帝丸の位置を正確に知ったとき、不安が無いどころの騒ぎじゃない。少し南へ寄れている。これじゃ離れ過ぎて、暗礁にぶち当たらん。操舵手がうっかり者か、無視したのか。グライドの計画は破たんしつつあった。
奥歯をぐっと噛み、影のように操舵室に忍び込んだ。ポケットから何か長くて光るものが……。空中高くキラリ輝くや、柔らかい物体をブスリ。
グライドが刃物で心臓を的確に一突きすると、操舵手は床にドタンと倒れ、ひといき長くうめき、静かになった。
賽は投げられた。咄嗟の行動は必要不可欠だった。繊細で強力な操舵輪に手をかけ、船の針路をごくわずか変更した。これで目的には十分だ。
「最悪だぜ、大馬鹿どもの始末は。他人に任せるといつも計画が狂う。こんな危ないことは全く必要なかったのに」
冷静だったが、耳奥で血液がドクドク鳴っているのが分かった。五分間誰も来なければ、うまくいく。だが、足音が近づいてきた。一刻を争う瞬間だ。もう一人殺さなければならないか。絶対入れるもんか……
操舵室の扉に手がかかった。グライドが飛びかかろうと構えた時、東女帝丸がぶるっと震え、端から端までぐぉーんと泣くさまは巨獣が断末魔に苦しむかのよう。続いて、どすーん、ぎーぎーと激しくもだえ、静かになった。
やったあ、と叫びたかったが、こらえた。ともかく、叫びが聞こえたかどうかは知らないが、既に、甲板に足音がどたどた。
恐怖をさらにあおるかのように下から大音響がして、海水が何トンもゴウゴウ流れ込み、船は沈没確実のようだ。たちまち船尾から沈み始めた。
厳しい命令があった。
「ボートを降ろせ。落ち着け、時間は充分ある、あわてるな」
グライドは操舵室に隠れてこっそり見ていた。船員たちは行進するかのように、きびきび整然と動いた。驚くべき短時間で最後のボートを降ろし、乗員を移した。
遂にグライドと手下は東女帝丸を手に入れた。ちょっと間をおいてから、我がもの顔で動き始め、一個ずつ明かりを消して、船を真っ暗にした。機関室へ降りると、汗と油まみれの手下がいた。
「よくやった。あの轟音と怒涛の浸水でとてもうまくいった。満潮になればバラスト水が自然に元に戻る。海図に従って舵を切れ。もちろん、自前の海図だ」
「でも本当に浮きますか」
と手下の一人が訊いた。
「絶対確実だ。もう船首が揺れてないか。誰か一人、操舵室へ上がれ、ずた袋と弔弾を一発か二発持っていけ。死体があるから水葬しろ。馬鹿な操舵手が間違えやがったから、やむを得なかった。いいか、全部片付けろ」
潮がだんだん満ちてきて、東女帝丸は浮いた。ついに生き物のようによみがえった。深夜二時になってから、グライドが次のように命令した。眼は勝利に酔っていた。
「機関、始動。明日昼までにドラガルド湾に着くように」
*
三日後の同時刻、つまり東女帝丸の沈没情報が英国に届いたころ、行方不明者一人を除く乗組員全員が、ミネリア国を離れつつあった。
特別仕立ての蒸気船は同国政府の好意で借り上げたものだった。同蒸気船には余分な乗客が一人乗っており、高慢ちきで詮索好きなアメリカ人で、みるからに胡散臭いので、皆が村八分にした。だが当のアメリカ人は超然としていた。
数週間後、桟橋から馬車で外出しながらつぶやいた。
「いい変装だったな。奴らどう言うかなあ、特にクリントン艦長は。不作法なエズラ・スタントンとマックス・イレンタル先生が同一人物だと知ったら。いつかトリックを見破れるかな。どうあろうと累は及ばぬ。死人に口なしだ」
了