その一
私は私の母や祖母や叔母や村人に、私を迎えてくれる幸福について祝福されながら送り出されたのだ。私もまた、胸にいろんな楽しい夢を描きながらこの朝鮮にやって来たのだ。
が、来て見てすぐに私は、私の踏み込んだ生活がそれほど楽しいものではなかったということに気がついた。
祖母の言葉を信じて来た私は、縮緬の長袖やシゴキの帯とまでは望まなかったが、今までよく見たお嬢さんたちの着物ぐらいは着せてくれることと思っていた。望み通りに買ってやると言われたおもちゃは別に欲しいとも思わなかったが、好きな本ぐらいは何でも買ってくれるものと思っていた。そしてまた、父もない母もない私を、父となり母となって愛してくれる人達のいることをも予想していた。が、それらの何一つも私には与えられなかった。
私は無論、多少は失望した。けれどそんなことにはもう、小さい時から馴れきっていたからさほど苦痛ではなかった。ただ一つ、叔母の家に連れて来られてから間もなく、何ともいえぬ寂しさに襲われたことのあるのを覚えている。
ある日、誰かしら、私には初めての女の人が来て、私を見て、多分お世辞のつもりだったのだろう?
「まあ、いいお娘さんね」と言うと、祖母は喜んだ顔もせず、至極無造作に、
「なあに、ちょっと知合いの家の子なんですよ。何しろひどい貧乏人の子なので、行儀作法も知らず、言葉なんかも下卑っぽい言葉しか知らず、ほんに赤面することがあるんですが、余り可哀相でしてね、つい引きとってやったんですよ」と答えるのだった。
貧乏人の子、それは何でもない。私はいかに小さくともあれだけ貧乏して来たからにはどんなに自分が憐れな貧乏人の子であったかを知っている。けれど、けれど、祖母はなぜ私を、これは私の長男の娘、私の孫だと言ってくれなかったのだろう。今考えているような判然とした気持ちをもってではないが、私はそれを、何となく物足らない寂しいことと感じないではいられなかった。
これはこの時一度のことではなかった。祖母はいつも誰に対してもそう私を説明した。いや、そればかりではない、私にも、もし他人からきかれた時には、こういった意味の返事をしろと言いつけた。しかもそれに附け加えて、まことしやかに囁くような声で私に話してきかせるのだった。
「でないと、お前はまだ何も知るまいが、お前とわしらとは籍の上で他人ということになっているんだから、もし真実のことが知れると、お前もお前の親もみんな赤い着物を着なきゃならんのだよ」と。
それは何のことだか私にはわからなかった。でも、赤い着物を着るということの意味は私にもわかっていた。だから、何もわからないながらも、私はたしかにこの言葉に脅かされた。で、私は遂に、足掛け七年も暮した朝鮮で、誰に対しても一度だって真実のことを話したことはなかった。
思うにこれは、余りに逆境に育った私がひねくれていたり、言葉遣いがぞんざいだったりしたので、このお上品な家の娘とするには余りに不似合な、家名をけがすものだということを、祖母たちが感じていたためであったろう。しかし子供の私にはそんなことがわかろうはずはない。私はやはり叔母の家の子とされているのだと信じきっていたのである。