或る秋の紫式部
岡本かの子
或る秋の紫式部 岡本かの子 時 寛弘年間の或る秋 処 京の片ほとり 人 紫式部 三十一二歳 老侍女 妙な美男 西向く聖 (舞台正面、質素な西の対屋の真向き、秋草の生い茂れる庭に臨んでいる。その庭を囲んで矩形に築地垣が廻らされているが、今は崩れてほんの土台の型だけ遺っているばかりなので観覧席より正面家屋の屋内の動静を見物するのに少しも差支えない。 上手、築地
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岡本かの子
或る秋の紫式部 岡本かの子 時 寛弘年間の或る秋 処 京の片ほとり 人 紫式部 三十一二歳 老侍女 妙な美男 西向く聖 (舞台正面、質素な西の対屋の真向き、秋草の生い茂れる庭に臨んでいる。その庭を囲んで矩形に築地垣が廻らされているが、今は崩れてほんの土台の型だけ遺っているばかりなので観覧席より正面家屋の屋内の動静を見物するのに少しも差支えない。 上手、築地
岡本かの子
遁れて都を出ました。鉄道線路のガードの下を潜り橋を渡りました。わたくしは尚それまで、振り払うようにして来たわたくしの袂の端を掴む二本の重い男の腕を感じておりましたが、ガードを抜けて急に泥のにおいのする水っぽい闇に向き合うころからその袂はだん/\軽くなりました。代りに自分で自分の体重を支えなくてはならない妙な気怠るさを感じ出しました。これが物事に醒めるとか冷静
岡本かの子
雪の日 岡本かの子 伯林カイザー街の古い大アパートに棲んで居た冬のことです。外には雪が降りに降っていました。内では天井に大煙突の抜けているストーヴでどんどん薪をくべていました。電車の地響と自動車の笛の音ばかりで、街には犬も声を立てて居ない、積雪に静まり返った真昼時でした。玄関の扉をはげしく叩く音――この降るのに誰がまあ、」と思いながら扉を開くと、どやどやと三
岡本かの子
伯林の降誕祭 岡本かの子 独逸でのクリスマスを思い出します。 雪が絶間もなく、チラチラチラチラと降って居るのが、ベルリンで見て居た冬景色です。街路樹の菩提樹の葉が、黄色の吹雪を絶えずサラサラサラ撒きちらして居た。それが終ると立樹の真黒な枝を突張った林立となる。雪がもう直ぐに来るのです――そしてクリスマス。 バルチック海から吹き渡って来る酷風が、街の粉雪の裾を
岡本かの子
伯林の落葉 岡本かの子 彼が公園内に一歩をいれた時、彼はまだ正気だった。 伯林にちらほら街路樹の菩提樹の葉が散り初めたのは十日程前だった。三四日前からはそれが実におびただしい速度と量を増して来た。公園は尚更、黄褐色の大渦巻きだった。彼は、始め街をしばらく歩いて居た。こまかい菩提樹の葉が粉のように顔や肩や足元に散りかかった。それはひそかに無性な触覚の気安さから
岡本かの子
旅人のカクテール 旅人は先ず大通のオペラの角のキャフェ・ド・ラ・ペーイで巴里の椅子の腰の落付き加減を試みる。歩道へ半分ほどもテーブルを並べ出して、角隅を硝子屏風で囲ってあるテラスのまん中に置いた円い暖炉が背中にだけ熱い。 眉毛と髪の毛がまっ白な北欧の女。頬骨が東洋風に出張っていてそれで西洋人の近東の男。坊主刈りでチョッキを着ないドイツ人。鼻の尖った中年のイギ
岡本かの子
巴里の唄うたい 岡本かの子 彼等の決議 市会議員のムッシュウ・ドュフランははやり唄は嫌いだ。聴いていると馬鹿らしくなる。あんな無意味なものを唄い歩いてよくも生活が出来るものだ。本当に生活が出来るのかしら――こう疑い始めたのが縁で却ってだんだん唄うたいの仲間と馴染が出来てしまった。それに彼の生来の世話好きが手伝って彼はとうとう唄うたいの仲間の世話役になってしま
岡本かの子
二列に並んで百貨店ギャラレ・ラファイエットのある町の一席を群集は取巻いた。中には雨傘の用意までして来た郊外の人もある。人形が人間らしく動く飾物を見ようとするのだ。 百貨店の大きな出庇の亀甲形の裏から金色の光線が頸の骨を叩き付けるほど浴せかける。右から左から赤や水色の紫外光線が足元を掬う。ここでは物は曖昧でいる事は許されない。明るみへ出て影をぎとられるか闇に骨
岡本かの子
花は勁し 岡本かの子 青みどろを溜めた大硝子箱の澱んだ水が、鉛色に曇つて来た。いままで絢爛に泳いでゐた二つのキヤリコの金魚が、気圧の重さのけはひをうけて、並んで沈むと、態と揃へたやうに二つの顔をこちらへ向けた。うしろは青みどろの混沌に暈けて二ひきとも前胴の半分しか見えない。箱のそとには黄色い琥珀の粒の眼をつけた縞馬の置物が、水粒が透けて汗をかいたやうな硝子板
岡本かの子
その人にまた逢ふまでは、とても重苦しくて気骨の折れる人、もう滅多には逢ふまいと思ひます。さう思へばさば/\して別の事もなく普通の月日に戻り、毎日三時のお茶うけも待遠しいくらゐ待兼ねて頂きます。人間の寿命に相応はしい、嫁入り、子育て、老先の段取りなぞ地道に考へてもそれを別に年寄り染みた老け込みやうとは自分でも覚えません。縫針の針孔に糸はたやすく通ります。畳ざは
岡本かの子
初夏に座す 岡本かの子 人生の甘酸を味はひ分けて来るほど、季節の有難味が判つて来る。それは「咲く花時を違へず」といつた――季節は人間より当てになるといふ意味の警醒的観念からでもあらう。季節の触れ方は多種多様で一概には律しられないが、触れ方が単純素朴なほど、季節は味はふ人の身に染めるやうである。 この頃の季節の長所は明るく、瑞々しく、爽かなことである。たいがい
岡本かの子
桜ばないのち一ぱいに咲くからに生命をかけてわが眺めたり さくら花咲きに咲きたり諸立ちの棕梠春光にかがやくかたへ この山の樹樹のことごと芽ぐみたり桜のつぼみ稍ややにゆるむ ひつそりと欅大門とざしありひつそりと桜咲きてあるかも 丘の上の桜さく家の日あたりに啼きむつみ居る親豚子豚 ひともとの桜の幹につながれし若駒の瞳のうるめる愛し 淋しげに今年の春も咲くものか一樹
岡本かの子
K雑誌先月号に載ったあなたの小説を見ました。ママの処女作というのですね、これが。ママの意図としては、フランス人の性情が、利に鋭いと同時に洗練された情感と怜悧さで、敵国の女探偵を可愛ゆく優美に待遇する微妙な境地を表現したつもりでしょう。フランス及びフランス人をよく知る僕には――もちろんフランス人にも日本人として僕が同感し兼ねる性情も多分にありますが――それが実
岡本かの子
この人のうえをおもうときにおもわず力が入る。この人とのくらしに必要なわずらわしき日常生活もいやな交際も覚束なきままにやってのけようとおもう。この人のためにはすこしの恥は涙を隠しても忍ぼうとおもう。 朝夕見なれしこの人、朝夕なにかしら眼新らしきものをその上に見出すこの人。世間ではこの人をおとなのなかのおとなのようにいう。けれどもわたしにはこどもに見える。という
岡本かの子
「あなたのお宅の御主人は、面白い画をお描きになりますね。嘸おうちのなかも、いつもおにぎやかで面白くいらっしゃいましょう。」 この様なことを私に向って云う人が時々あります。 そんな時私は、 「ええ、いいえ、そうでもありませんけど。」などと表面、あいまいな返事をして置きますが、心のなかでは、何だかその人が、大変見当違いなことを云って居る様な気がします。もちろん、
岡本かの子
何が気に入らないのか、黙りこくってむっつりしている。訊いてもいっては呉れないで、渋い顔をするばかり。従って家内中で腫ものにでも触るような態度を取り、そばを歩くに、足音さえも窃むようになる。こういう性質は神経衰弱その他生理的な病気が伏在している為めに来ることもあれば、当人の我儘から来ることもある。病気なれば気の毒、早速医者の手にかかるがいいが、もし我儘だったら
岡本かの子
わたくしは自分達を夫とか妻とか考えません。 同棲する親愛なそして相憐れむべき人間同志と思って居ます。そして元来が飽き安い人間の本能を征服出来て同棲を続ける者同志の因縁の深さを痛感します。わたくしは因縁こそ実に尊くそれを飽迄も大切にすべきものだと信じて居ります。其処に優しい深切な愛情が当然起るのであります。 わたくしもわたくしの同棲者も元来が或る信念の上に立つ
岡本かの子
一平 兎に角、近代の女性は型がなくなった様だね。 かの子 形の上でですか、心の上でですか。 一平 つまり、心構えの上でさ。昔で云えば新しい女とかいうようにさ。 かの子 特別な型はなくなりましたね。たとえば青踏時代の様に。 一平 つまり今の新しい女はそんな詩的な概念でなく、もっと実質的に入ったんだろう。 かの子 詩的概念を表現する様になったとでも云いましょうか
岡本かの子
巴里の北の停車場でおまえと訣れてから、もう六年目になる。人は久しい歳月という。だが、私には永いのだか短いのだか判らない。あまりに日夜思い続ける私とおまえとの間には最早や直通の心の橋が出来ていて、歳月も距離も殆ど影響しないように感ぜられる。私たち二人は望みの時、その橋の上で出会うことが出来る。おまえはいつでも二十の青年のむす子で、私はいつでも稚純な母。「だらし
岡本かの子
売春婦のリゼットは新手を考えた。彼女はベッドから起き上りざま大声でわめいた。 「誰かあたしのパパとママンになる人は無いかい。」 夕暮は迫っていた。腹は減っていた。窓向うの壁がかぶりつきたいほどうまそうな狐色に見えた。彼女は笑った。横隔膜を両手で押えて笑った。腹が減り過ぎて却っておかしくなる時が誰にでもあるものだ。 廊下越しの部屋から椅子直しのマギイ婆さんがや
岡本かの子
セーヌの河波の上かわが、白ちゃけて来る。風が、うすら冷たくそのうえを上走り始める。中の島の岸杭がちょっと虫ばんだように腐ったところへ渡り鳥のふんらしい斑がぽっつり光る。柳が、気ぜわしそうにそのくせ淋しく揺れる。橋が、夏とは違ってもっとよそよそしく乾くと、靴より、日本のひより下駄をはいて歩く音の方がふさわしい感じである。巴里に秋が来たのだ。いつ来たのだろう、夏
岡本かの子
夕食前の小半時、巴里のキャフェのテラスは特別に混雑する。一日の仕事が一段落ついて、今少しすれば食欲三昧の時が来る。それまでに心身の緊張をほぐし、徐ろに食欲に呼びかける時間なのだ。どのテーブルにもアペリチーフの杯を前にした男女が仲間とお喋りするか、煙草の煙を輪に吹きながら往来を眺めたりしている。フランス人特有の身振の多い饒舌の中にも、この時許りはどこかに長閑さ
岡本かの子
春は私がともすれば神経衰弱になる季節であります。何となくいらいらと落付かなかったり、黒くだまり込んで、半日も一日も考えこんだりします。桜が、その上へ、薄明の花の帳をめぐらします。優雅な和やかな、しかし、やはりうち閉された重くるしさを感じます。日本の春の桜は人の眉より上にみな咲きます。そして多くは高々と枝をかざして、そこにもここにもかしこにも人を待ちうけます―
岡本かの子
食欲でもないし、情欲でもない。肉体的とも精神的とも分野をつき止めにくいあこがれが、低気圧の渦のように、自分の喉頭のうしろの辺に鬱して来て、しっきりなしに自分に渇きを覚えさせた。私は娘で、東京端れの親の家の茶室作りの中二階に住んでいた頃である。私は赤い帯を、こま結びにしたまま寝たり起きたりして、この不満が何処から来たものか、どうしたら癒されるかと、うつらうつら