中国怪奇小説集 14 剪灯新話(明)
岡本綺堂
第十二の夫人は語る。 「今晩は主人が出ましてお話をいたす筈でございましたが、よんどころない用事が出来まして、残念ながら俄かに欠席いたすことになりました。就きましては、お前が名代に出て何かのお話を申し上げろということでございましたが、無学のわたくしが皆さま方の前へ出て何も申し上げるようなことはございません。唯ほんの申し訳ばかりに、どなたも御存じの『剪燈新話』の
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岡本綺堂
第十二の夫人は語る。 「今晩は主人が出ましてお話をいたす筈でございましたが、よんどころない用事が出来まして、残念ながら俄かに欠席いたすことになりました。就きましては、お前が名代に出て何かのお話を申し上げろということでございましたが、無学のわたくしが皆さま方の前へ出て何も申し上げるようなことはございません。唯ほんの申し訳ばかりに、どなたも御存じの『剪燈新話』の
小熊秀雄
此所にトムさんと言ふ至つてお人好しの農夫がをりました、この村の人達は余りお人好しの事をトムさんのやうだとよく言ひますが、全くトムさんはお人好しでした。随分よく働きます。それに無口で大力で正直で何ひとつも欠点がありませんでしたが、唯そのお人好しがあんまり過ぎるので困りました。 トムさんは三人ものお嫁さんを貰ひましたが、ふしぎに二三日たつと三人ともみな逃げ帰つて
岡本綺堂
第十一の男は語る。 「明代も元の後を亨けて、小説戯曲類は盛んに出て居ります。小説では西遊記、金瓶梅のたぐいは、どなたもよく御承知でございます。ほかにもそういう種類のものはたくさんありますが、わたくしは今晩の御趣意によりまして、陶宗儀の『輟耕録』を採ることにいたしました。陶宗儀は天台の人で、元の末期に乱を避けて華亭にかくれ、明朝になってから徴されても出でず、あ
中里介山
お君は、やがて駒井能登守の居間へ通されました。 能登守の居間というのは、そこへ案内されたお君が異様に感じたばかりでなく、誰でもこの居間へ来たものは、異様の念に打たれないわけにはゆかないものであります。それは畳ならば六十畳ほどの広さを持った居間に、畳を敷いてあるのでなく、板張りにして絨氈のようなものが敷き詰められてありました。 その広い室の中央と片隅とに卓子が
ジンサーハンス
ここに提供する各章はとりとめも無いので本と呼ぶのは気が進まないものであり実験室や現場で発疹チフスの研究をしているあいだに暇を見つけて書いたものである。世界中で感染症を追い回していると感染症は何世紀も人間の何世代にもわたって存在し発展し放浪しているので生物学的な個人として伝記を書くことができると思うようになった。発疹チフスはとくに他の多くの感染症にくらべて伝記
岡本綺堂
第十の男は語る。 「わたくしは金・元を割り当てられました。御承知の通り、金は朔北の女真族から起って中国に侵入し、江北に帝と称すること百余年に及んだのですから、その文学にも見るべきものがある筈ですが、小説方面はあまり振わなかったようです。そのなかで、学者として、詩人として、最も有名であるのは元好問でありましょう。彼は本名よりも、その雅号の元遺山をもって知られて
宮本百合子
一月二日 〔巣鴨拘置所の顕治宛 駒込林町より(封書)〕 初春景物 笹の根に霜の柱をきらめかせ うらら冬日は空にあまねし こういう奇妙なものをお目にかけます。うたよりも封筒をさしあげたいからよ。[自注1]かいた手紙は厚すぎて入らず。 二日 [自注1]封筒をさしあげたいからよ。――この手紙は日本風の巻紙に毛筆でぱらりと書かれている。歌の行を縫って検閲の小さい赤い
岡本綺堂
第九の男は語る。 「わたくしは宋代の怪談総まくりというような役割でございますが、これも唐に劣らない大役でございます。就いてはまず『異聞総録』を土台にいたしまして、それから他の小説のお話を少々ばかり紹介いたしたいと存じます。この『異聞総録』はまったく異聞に富んだ面白いものでありますが、作者の名が伝わって居りません。専門の研究家のあいだにはすでにお判りになってい
宮本百合子
一月三日 〔豊島区西巣鴨一ノ三二七七巣鴨拘置所の宮本顕治宛 本郷区林町二十一より(代筆 牧野虎雄筆「春の富士」の絵はがき)〕 明けましておめでとう。そちらはいかがな正月でしょう。こちらは兎も角ヤス子が命拾いをしたので、どうやらお芽出度い春らしい三※日です。国男さんが風邪をひき、その上目を悪くしてお雑煮を食べられません。太郎は十になったから頭を丸い三分刈りにし
海野十三
1 さても日本対米英開戦以来、わが金博士は従来にもまして、浮世をうるさがっている様子であった。 「ねえ、そうでしょう。白状なさい」 と、その客は金博士の寝衣の裾をおさえて話しかけるのであった。金博士が暁の寒冷にはち切れそうなる下腹をおさえて化粧室にとびこんだとたん、扉の蔭に隠忍待ちに待っていたその客は、鬼の首をとったような顔で、金博士の裾をおさえて放さないと
岡本綺堂
第八の男は語る。 「わたくしは宋で『夷堅志』をえらみました。これは有名の大物でありますから、とても全部のお話は出来ません。そのなかで自分が面白く読んだものの幾分を御紹介するにとどめて置きます。この作者は宋の洪邁であります。この家は、父の洪皓をはじめとして、せがれの洪、洪遵、洪邁の一家兄弟、揃いも揃って名臣であり、忠臣であり、学者であること、実に一種の異彩を放
宮本百合子
(第一信)[自注1]〔巣鴨拘置所の顕治宛 駒込林町より(代筆 モネー筆「断崖」(一)、コロー「ルコント夫人」(二)の絵はがき)〕 (一)七日、今朝程はお手紙呉々も有難う! ああちゃんが後手にかくして朝のお目ざめに持ってきてくれたのを、忽ち看破したまではよかったけれど、さて手にとってつくづく表紙を眺めて、封をきり、いたずら者のいない間に読もうと思ったらば、字が
岡本綺堂
第七の女は語る。 「五代を過ぎて宋に入りますと、まず第一に『太平広記』五百巻という大物がございます。但しこれは宋の太宗の命によって、一種の政府事業として李らが監修のもとに作られたもので、汎く古今の小説伝奇類を蒐集したのでありますから、これを創作と認めるわけには参りません。そこで、わたくしは自分の担任として『稽神録』について少々お話をいたしたいと存じます。『稽
岡田武松
本書の著作者鈴木牧之翁は、明和七年正月七日に、越後の国の塩沢に生れた、塩沢は今日の新潟県南魚沼郡塩沢町である、幼時は弥太郎と云つたが、大きくなつてから、儀三治と改めた、翁の父は、質屋と縮布の仲買を営んでゐた、さうして渡世の傍に、俳諧に遊び、周月庵牧水と号してゐた、翁の牧之と云ふ号は、父の牧水の一字を採つたのである、牧之翁は幼時から英敏であつた、大運寺の快運法
種田山頭火
唐土の山の彼方にたつ雲は ここに焚く火の煙なりけり 一月一日 ・雑草霽れてきた今日はお正月 ・草へ元旦の馬を放していつた ・霽れて元日の水がたたへていつぱい けふは休業の犬が寝そべつてゐる元日 ・椿おちてゐるあほげば咲いてゐる ・元日の藪椿ぽつちり赤く ・藪からひよいと日の丸をかかげてお正月 ・お宮の梅のいちはやく咲いて一月一日 ・空地があつて日が照つて正月
宮本百合子
〔巣鴨拘置所の顕治宛 目白より(封書)〕 一月三日 第一信 私たちの九年目の年がはじまります、おめでとう。割合寒さのゆるやかなお正月ね。あの羽織紐していらっしゃるのでしょう? 明日は、あの色によく調和する色のコートを着ておめにかかりに出かけます。 三十一日は吉例どおり、家で寿江子と三人で夕飯をたべそれから壺井さんのところへお恭ちゃんもつれて出かけました。壺
南方熊楠
晋の宗懍の『荊楚歳時記』註に魏の董の『問礼俗』に曰く、正月一日を鶏と為し、二日を狗と為し、三日を羊、四日を猪、五日を牛、六日を馬、七日を人と為す。正旦鶏を門に画き、七日人を帳に帖す、今一日鶏を殺さず、二日狗を殺さず、三日は羊、四日は猪、五日は牛、六日は馬を殺さず、七日刑を行わず(人を殺さず)またこの義なり云々。旧く正旦より七日に至る間鶏を食うを忌む。故に歳首
岡本綺堂
第六の男は語る。 「わたくしの役割は五代という事になっています。昔から五代乱離といいまして、なにしろ僅か五十四年のあいだに、梁、唐、晋、漢、周と、国朝が五たびも変ったような混乱時代でありますので、文芸方面は頗る振わなかったようです。しかしまた一方には、五代乱離といえどもみな国史ありといわれていまして、皆それぞれの国史を残している位ですから、文章まったく地に墜
岡田武松
*1 「許鹿君」古河の城主土井大炊頭利位の号、利位は下総古河藩第十世の藩主である。寛政六年(一七八九)土井利徳の男として生れた。文政五年に養父利厚の職を襲ぎ大炊頭に任ぜられた。同八年に社寺奉行となり、同十二年に病の為め職を免ぜられた。天保二年に再任し、同五年に大阪城代となつた。天保八年には京都所司代となり、翌年には老中となつた。弘化元年に病の為め老中を免ぜら
榎本武揚
予弱冠時就中浜氏習学英語座上得与鹿城西先生相識当時既以同志相期許焉先生時猶在手塚氏塾落拓未遇及後奉命留学荷蘭瘴烟万里同嘗艱難窓雪三冬具共研鑽自此之後離合不一趣向或殊然至其相見莫不握手相歓四十年如一日況我故妻弟紳六受先生之子養承先生之嗣重以姻之戚乎先生既逝我髪亦※今読其行状憶起往事不禁涙之々下也 明治三十一年十月榎本武揚誌 ●図書カード
江見水蔭
――神奈川方面不有望――草刈と大衝突――家族擧つての發掘――非學術の大發掘――土器一箇千圓の價?―― 玉川向ふ、即ち神奈川縣下に屬する方面には、餘り有望の貝塚は無い。いや貝塚としては面積も廣く、貝層も深いのが無いでも無いが、土器の出方が甚だ惡い。矢上然り、高田然り、子母口然り、駒岡、子安、篠原、樽箕輪最も不有望。 其中で、末吉の貝塚は、稍望みがある。望蜀生が
菊池寛
新撰組結成 新撰組の母胎とも云ふべき、幕府が新に徴募した浪士団が家茂将軍警護の名目で、江戸を出発したのは、文久三年の二月八日であつた。 総勢凡そ二百四十名、二十三日に京都郊外壬生に着いたがこれを新徴組と云ふ。隊長格は庄内の清河八郎で、丈のすらりとした面長の好男子、眼光鋭く人を射る男だつたと云ふ。 幕府は初め、浪士の人員を五十名位といふ方針であつた。しかし、実
宮本百合子
〔巣鴨拘置所の顕治宛 目白より(封書)〕 一月二日 第一信 さて、あけましておめでとう。除夜の橿原神宮の太鼓というのをおききになりましたか? 私たち(この内容は後出)は銀座からすきや橋に向って来た左角にある寿司栄の中でききました。 おだやかに暖い暮でしたが、正月になったら、きのうは風、きょうは又大層寒いこと。私は羽織を二枚着て居る有様です。 ずっとお元気?
南方熊楠
一条摂政兼良公の顔は猿によく似ていた。十三歳で元服する時虚空に怪しき声して「猿のかしらに烏帽子きせけり」と聞えると、公たちまち縁の方へ走り出で「元服は未の時の傾きて」と附けたそうだ。予が本誌へ書き掛けた羊の話も例の生活問題など騒々しさに打ち紛れて当世流行の怠業中、未の歳も傾いて申の年が迫るにつき、猴の話を書けと博文館からも読者からも勧めらるるまま今度は怠業の