ふるさとびと
堀辰雄
おえふがまだ二十かそこいらで、もう夫と離別し、幼兒をひとりかかへて、生みの親たちと一しよに住むことになつた分去れの村は、その頃、みるかげもない寒村になつてゐた。 淺間根腰の宿場の一つとしての、瓦解前の繁榮にひきかへ、今は吹きさらしの原野の中に、いかにも宿場らしい造りの、大きな二階建の家が漸く三十戸ほど散在してゐるきりだつた。しかもそのなかには半ば廢屋になりな
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堀辰雄
おえふがまだ二十かそこいらで、もう夫と離別し、幼兒をひとりかかへて、生みの親たちと一しよに住むことになつた分去れの村は、その頃、みるかげもない寒村になつてゐた。 淺間根腰の宿場の一つとしての、瓦解前の繁榮にひきかへ、今は吹きさらしの原野の中に、いかにも宿場らしい造りの、大きな二階建の家が漸く三十戸ほど散在してゐるきりだつた。しかもそのなかには半ば廢屋になりな
ドイルアーサー・コナン
ふと私の覚え書きを見ると、七〇もの不思議な事件がある。この八年間、事件を通じて友人シャーロック・ホームズの手際を考えてきた。その中には多くの悲劇と少しの喜劇があり、あとの大半は単に変わっただけのものだったが、普通というものはひとつとしてない。なぜなら、どちらかというとホームズは好きだから仕事を受けるのであり、お金を得るためではない。何の変哲もない調査は、かか
立原道造
かなしみではなかつた日のながれる雲の下に 僕はあなたの口にする言葉をおぼえた、 それはひとつの花の名であつた それは黄いろの淡いあはい花だつた、 僕はなんにも知つてはゐなかつた なにかを知りたく うつとりしてゐた、 そしてときどき思ふのだが 一体なにを だれを待つてゐるのだらうかと。 昨日の風は鳴つてゐた、林を透いた青空に かうばしい さびしい光のまんなかに
沖野岩三郎
アラメダより 沖野岩三郎 アラメダの飛行場へ行った。 『飛行機に乗ろう?』 『およしなさい。落ちたら大変です。奥様に申訳がない。』 それはミセス山田の制止であった。そこへのこのこやって来たのはプーシャイドという男。おれの飛行機は美しいから見せてやろうという。見るだけならというので、一行は柵の中に入って行った。そして飛行機エリオットを見ているうちに、つい乗りた
宮本百合子
アワァビット 宮本百合子 我々の、未だ完全に世界化されない生活感情では、兎角外国で起った事は、まるで異った遊星に生じた現象ででもあるかのような、間接さを以て、一般に迎えられる。理論は、既に、或る程度まで宇宙的になっているだろう。然し、真実、一人一人の日常の心が、何処まで汎人類的に活動しているか、時に疑わしく思う。地球上に在るおのおのの集団――国――が、現在ど
チェーホフアントン
一 県庁のあるS市へやって来た人が、どうも退屈だとか単調だとかいってこぼすと、土地の人たちはまるで言いわけでもするような調子で、いやいやSはとてもいいところだ、Sには図書館から劇場、それからクラブまで一通りそろっているし、舞踏会もちょいちょいあるし、おまけに頭の進んだ、面白くって感じのいい家庭が幾軒もあって、それとも交際ができるというのが常だった。そしてトゥ
堀辰雄
夕方だのに汽車は大へん混んでゐた。大部分は輕井澤へ行く人たちらしい。私の前には「天國新聞」といふのを束にしてかかへてゐる牧師さんがひとり。向隣りの席には、洋裝をした十九ぐらゐのお孃さんと、その連れらしいゴルフ服を着た中年の紳士の二人づれ。その紳士はそのお孃さんの叔父さんぐらゐの年輩だが、さうぢやないらしい。ほんの知合と云つたやうな樣子である。……それにしても
野上豊一郎
ブロッケンに登つて、麓のシールケに泊つた次の朝、おびただしい鈴の音で目をさまされた。寢臺から這ひ出して窓をあけて見ると、下の川沿ひの道を一人の牧人が、牧場へであらう、牛の群をつれて通つてゐた。これを見ないとハルツの旅の氣分は完成しないやうな氣がしたので、L公使と谷口君の寢室のドアを叩かうかと思つたが、昨日はベルリンからハルツまで車で搖られ通しで疲れて眠つてる
ゴーチェテオフィル
兄弟、君はわしが恋をした事があるかと云ふのだね、それはある。が、わしの話は、妙な怖しい話で、わしもとつて六十六になるが、今でさへ成る可く、其記憶の灰を掻き廻さないやうにしてゐるのだ。君には、わしは何一つ分隔てをしないが、話が話だけに、わしより経験の浅い人に話しをするのは、実はどうかとも思つてゐる。何しろわしの話の顛末は、余り不思議なので、わしが其事件に現在関
太宰治
文壇の、或る老大家が亡くなって、その告別式の終り頃から、雨が降りはじめた。早春の雨である。 その帰り、二人の男が相合傘で歩いている。いずれも、その逝去した老大家には、お義理一ぺん、話題は、女に就いての、極めて不きんしんな事。紋服の初老の大男は、文士。それよりずっと若いロイド眼鏡、縞ズボンの好男子は、編集者。 「あいつも、」と文士は言う。「女が好きだったらしい
カプアーナルイージ
昔あるところに、貧しい田舎者の夫婦がいました。夫婦は、朝から晩まで食うや食わずで働いていました。毎日、亭主は日銭稼ぎに行き、奥さんは近所の手間仕事を手伝っていました。 二人は、すすけた掘っ建て小屋に住み、家の中には、古ぼけた小さなベッドの他には家具が少しあるだけでした。けれども、不満などこれっぽっちも言いませんでした。夜は早めに床に就き、朝は夜明けとともに起
桜間中庸
ボク カケテツタ カケテツタ。 セエタアノポケツトカラ キヤラメルガ トビダシサウデ トビダシサウデ ボク カケテツタ カケテツタ。 タカヲチヤンノウチハ クルリト カラタチノカキヲマハツタ アソコダ。 カキノトコロヲ マハツテ フウセンウリノ オヂイサンガキタ。 アカイノ アオイノ ミンナイトノサキデ ユラユラユレテル。ソラヘトビサウ ソラハヨクハレテル。
小熊秀雄
わたしはシャリアピンさまに 永年仕へてゐる蚤 ともに韃靼の古都カザンに生れ ともに暮して当年六十四歳、 夏はシャリアピンのカラーの下の涼しいところに 冬は暖い頭髪の中に 平素は主として鳩尾のあたりに住んでゐる、 早耳、早足は小生の特長 御主人シャリアピンが御承知なくとも わたしはすべてを知つてゐる、 ソビヱットのこと、 旦那の若い頃からの友達ゴリキイ旦那の最
ゴーリキーマクシム
島は深い沈黙の中に眠つてゐる。海も死んでゐるかと思はれるやうに眠つてゐる。秘密な有力者が強い臂を揮つて、この怪しげな形をした黒い岩を、天から海へ投げ落して、その岩の中に潜んでゐた性命を、その時殺してしまつたのである。 遠くから此島を見れば妙な形をしてゐる。遠くからと云ふのは、天の川の黄金色をした帯が黒い海水に接した所から見るのである。そこから見れば、此島は額
新美南吉
タレノ カゲ 新美南吉 マチノ マンナカニ ヒロツパガ アリマシタ。ヒロツパノ マンナカニ マルイ カゲガ ヒトツ オチテ ヰマシタ。ソコヲ フタリノ コドモガ トホリカカリマシタ。 「コレハ ナンノ カゲダラウ」 ト ヒトリガ イヒマシタ。 「サア ナンノ カゲダラウ」 ト モウ ヒトリガ クビヲ カタムケマシタ。ソシテ フタリハ イツテ シマヒマシタ。
黒島伝治
チチハルまで 黒島伝治 一 十一月に入ると、北満は、大地が凍結を始める。 占領した支那家屋が臨時の営舎だった。毛皮の防寒胴着をきてもまだ、刺すような寒気が肌を襲う。 一等兵、和田の属する中隊は、二週間前、四平街を出発した。四線で南に着き、それからなお二百キロ北方に進んだ。 兵士達は、執拗な虱の繁殖になやまされだした。 「ロシヤが馬占山の尻押しをしとるというの
新美南吉
チユーリツプ 新美南吉 學校の歸りに君子さんはお友達のノリ子さんにうちのチユーリツプの自慢をしました。 「うちで咲いたチユーリツプは、お花屋さんが賣りに來るのより五倍も綺麗なのよ。」 「あら、いゝわね。」とお友達のノリ子さんは羨しさうにきいて首をかしげました。 「クレイヨンの赤とどつちが赤いかくらべて見たのよ。そしたらクレイヨンの赤の方がづつとうすくつて汚い
槙村浩
一峯吹く嵐音絶えて 鐘の音遠く月落ちて 露は真珠としたゝりつ 風や松葉を払ふらむ二友に別れし雁一つ 空に声して飛び行けば 苔むす石碑人絶えて 無情の草木涙あり三訪ふ人稀の石碑に 霧や不断の香をたき 月常住の燈となり 英雄の末吊はむ四昔の儘の山川も 南楼月をもて遊び 月とや秋を期すれども 遂に帰らぬ人の跡五雲霞の勢を引受けて 死すとも此所を退かじ スパルタ武士
新美南吉
デンデンムシ 新美南吉 大キナ デンデン蟲ノ セナカニ ウマレタバカリノ 小サナ デンデン蟲ガ ノツテ ヰマシタ。小サナ 小サナ スキトホルヤウナ デンデン蟲デシタ。 「ボウヤ ボウヤ。モウ、アサダカラ、メヲ ダシナサイ。」ト、大キナ デンデン蟲ガ ヨビマシタ。 「アメハ フツテ ヰナイノ?」 「フツテ ヰナイヨ。」 「カゼハ フイテ ヰナイノ?」 「フイテ
太宰治
トカトントン 太宰治 拝啓。 一つだけ教えて下さい。困っているのです。 私はことし二十六歳です。生れたところは、青森市の寺町です。たぶんご存じないでしょうが、寺町の清華寺の隣りに、トモヤという小さい花屋がありました。わたしはそのトモヤの次男として生れたのです。青森の中学校を出て、それから横浜の或る軍需工場の事務員になって、三年勤め、それから軍隊で四年間暮し、
田山花袋
トコヨゴヨミ 田山花袋 一 雑嚢を肩からかけた勇吉は、日の暮れる時分漸く自分の村近く帰って来た。村と言っても、其処に一軒此処に一軒という風にぽつぽつ家があるばかりで、内地のようにかたまって聚落を成してはいなかった。それに、家屋も掘立小屋見たいなものが多かった。それは其処等にある木を伐り倒して、ぞんざいに板に引いて、丸太を柱にして、無造作に組合せたようなものば
フランスアナトール
一 其頃はギリシヤ人にサラシンとよばれたバルタザアルがエチオピアを治めてゐた。バルタザアルは色こそ黒いが、目鼻立の整つた男であつた。其上又素直なたましひと大様な心とを持つた男であつた。 即位の第三年行年二十二の時に王は国を出て、シバの女王バルキス聘問の途に上つた。 追随するのは魔法師のセムボビチスと宦官のメンケラとである。行列の中には七十五頭の駱駝がゐて、そ
野上豊一郎
パラティーノ 野上豊一郎 一 まだローマになじまないうちは、あまりに多く見るべき物があるので、どこへ行っても、何を見ても、いつもあたまが混迷して、年代史的に地理的に整理しながらそれ等を見ようとするのにかなり骨が折れた。例えばフォーロ・ロマーノ(フォルム・ロマヌム)一つ見るにしてもそうである。古代ローマの最大の広場とはいっても、パラティーノ、カピトリーノ、ヴィ
牧野信一
Dと村長がR子のことで月夜の晩に川べりの茶屋で格闘を演じた。Dは四十歳の洋画家である。R子は川べりの小さな町で踊りと歌を売つてゐる町一番美しいスターで、Dの愛人である。 格闘の原因は何か? 僕は聞きもらしたが、次のやうな会話が僕の耳に入つて来る。(僕は、空々庵の主が、目の前に迫つた展覧会に出品する為の制作のモデルになつて、黙々と椅子によつてゐるのだ。――その