世相
織田作之助
凍てついた夜の底を白い風が白く走り、雨戸を敲くのは寒さの音である。厠に立つと、窓硝子に庭の木の枝の影が激しく揺れ、師走の風であった。 そんな風の中を時代遅れの防空頭巾を被って訪れて来た客も、頭巾を脱げば師走の顔であった。青白い浮腫がむくみ、黝い隈が周囲に目立つ充血した眼を不安そうにしょぼつかせて、「ちょっと現下の世相を……」語りに来たにしては、妙にソワソワと
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織田作之助
凍てついた夜の底を白い風が白く走り、雨戸を敲くのは寒さの音である。厠に立つと、窓硝子に庭の木の枝の影が激しく揺れ、師走の風であった。 そんな風の中を時代遅れの防空頭巾を被って訪れて来た客も、頭巾を脱げば師走の顔であった。青白い浮腫がむくみ、黝い隈が周囲に目立つ充血した眼を不安そうにしょぼつかせて、「ちょっと現下の世相を……」語りに来たにしては、妙にソワソワと
槙村浩
(一)「熊さん今日はどうしたか、朝から病気でお休か」 「いや/\会社もこまるでネ、賃銀ね上げの怠業さ」(二)「熊さん今日はどうしたか、又怠業ヂャあるまいネ」 「イエ/\どうしてもう今日は、会社に者がありすぎて、(三) とう/\こんなになりました、どこかによい口があったならどうか世話しておくんなさい」 熊さん頭をかいて居た。(一一・六・一四) ●図書カード
宮本百合子
世紀の「分別」 宮本百合子 日本の言葉に、大人気ない、という表現がある。誰の目から見てもあんまり愚劣だと思われることがらや、衆目が、そこに誹謗を見とおすような言動に対して、まともにそれをとりあげたり、理非を正したりすることは、日本の表現では大人気ない態度とされてきた。そういう場合には、あえて問題にしないで、笑ってすぎる態度が知性の聰明をあらわすポーズとされて
坂口安吾
私は抗議も弁明も好まない。なぜなら、小説は、小説自体が全てを語っており、それによって裁かるべきものだから。 たゞ、文学の仕事は歴史を相手に行われているものであるから、現象的な批評や非難は作家の意とするに当らぬものであることを付け加えたい。 私は言うまでもなく社会的責任を負う。もしも私の著作が、世相に悪影響を及ぼすものと断ぜられて、浮薄なる情痴作家と裁かれるな
三遊亭円朝
世辞屋 三遊亭円朝 エヽ商法も様々ありまするが、文明開化の世の中になつて以来、何でも新発明新発明といふので追々此新商法といふものが流行をいたしまする。彼の電話機械といふものが始めて参つた時に、互に掛やうを知らぬから、両方で話をしようと思つても、何うしても解らなかつたといふ。夫は何ういふ訳かと後で聞いて見ますると、耳へ附けべき器械を口へ着けてやつたからだといふ
小栗風葉
それは私がまだ二十前の時であった。若気の無分別から気まぐれに家を飛びだして、旅から旅へと当もなく放浪したことがある。秋ももう深けて、木葉もメッキリ黄ばんだ十月の末、二日路の山越えをして、そこの国外れの海に臨んだ古い港町に入った時には、私は少しばかりの旅費もすっかり払きつくしてしまった。町へ着くには着いても、今夜からもう宿を取るべき宿銭もない。いや、午飯を食う
宮沢賢治
森の上のこの神楽殿 いそがしくのぼりて立てば くわくこうはめぐりてどよみ 松の風頬を吹くなり 野をはるに北をのぞめば 紫波の城の二本の杉 かゞやきて黄ばめるものは そが上に麦熟すらし さらにまた夏雲の下 青々と山なみははせ 従ひて野は澱めども かのまちはつひに見えざり うらゝかに野を過ぎり行く かの雲の影ともなりて きみがべにありなんものを さもわれののがれ
豊島与志雄
丘の上 豊島与志雄 丘の上には、さびれた小さな石の堂があって、七八本の雑木が立並んでいた。前面はただ平野で、部落も木立も少く、農夫の姿も見えない、妙に淋しい畑地だった。遠くに一筋の街道が、白々と横たわっていた。その彼方、暗色に茫とかすんでる先に、帯を引いたような、きらきら光ってる海が見えていた。 その丘の上の、木立の外れの叢の上に、彼等は腰を下した。枝葉の密
田山花袋
それは十一月の末であつた。東京の近郊によく見る小春日和で、菊などが田舎の垣に美しく咲いてゐた。太田玉茗君と一緒に湖処子君を道玄坂のばれん屋といふ旅舎に訪ねると、生憎不在で、帰りのほどもわからないといふ。『帰らうか』と言つたが、『構ふことはない。國木田君を訪ねて見ようぢやないか。何でもこの近所ださうだ。湖処子君から話してある筈だから、満更知らぬこともあるまい。
小川未明
年雄は、丘の上に立って、ぼんやりと考えていました。 「学校で、みんなと別れるときは悲しかった。先生にごあいさつをすると、先生は、みんなに向かって、こんど年雄くんは、お父さんが転勤なさるので、遠くへいかれることになったから、よくお別れをなさいとおっしゃったのだ。みんなは、僕に手紙をくれよといって、所番地を紙片に書いて僕のポケットの中へ入れてくれたっけ。しかし、
松本泰
P丘の殺人事件 松本泰 一 火曜日の晩、八時過ぎであった。ようやく三ヶ月計り前に倫敦へ来た坂口はガランとした家の中で、たったひとり食事を済すと、何処という的もなく戸外へ出た。 日はとうに暮れて、道路の両側に並んだ家々の窓には、既に燈火が点いていた。公園に近いその界隈は、昼間と同じように閑静であった。緑色に塗った家々の鉄柵が青白い街灯の光に照らされている。 大
宮沢賢治
われらひとしく丘に立ち 青ぐろくしてぶちうてる あやしきもののひろがりを 東はてなくのぞみけり そは巨いなる塩の水 海とはおのもさとれども 伝へてきゝしそのものと あまりにたがふこゝちして たゞうつゝなるうすれ日に そのわだつみの潮騒の うろこの国の波がしら きほひ寄するをのぞみゐたりき ●図書カード
新美南吉
丘のふもとの、うつくしい平和な村に、ハンスという、詩人が住んでいました。 丘の上に立って、うつくしい村をながめては、歌にうたい、牧場にいって、やさしいひつじのむれをながめては、詩をかくのがつねでした。ハンスのつくった詩は、国じゅう、だれひとり知らないものはないほどでした。 あるとき王さまは、この村のそばを通りかかりましたが、ハンスがこの村にいると聞いて、わざ
木村荘八
櫓太鼓にフト目をさまし、あすは……といふけれども、昔ぼくが成人した家は、風の加減で東から大川を渡つてとうとうと回向院の櫓太鼓が聞えたものだつた。ぼくの名は生れ落ちてからこれが本名であるが、この荘の字をよく人に庄屋の庄の字と間違へて書かれることがある。昔は川向うの行司木村庄某あてのハガキや手紙が番地が不完全だとぼくの家へ舞込むと同時に、ぼくへの通信がまた一応両
木村荘八
柳橋の明治二十年以前木橋であつた頃は、その欄干は上図のやうな木組であつたが、これは一曜斎国輝の錦絵「両ごくやなぎばし」の図や、明治二十二年発行の「日本名所図会東京の部」(大阪府平民上田維暁編)などに写されてゐるので(第一図)わかる。明治初年彰義隊の時に油を灌いで焼かれたといふのもこの構造の柳橋であつたらう。欄干の木組が十文字のぶつちがひになつた構造は、古くは
木村荘八
永井さん(荷風子)が「日和下駄」の中の一節に路地について記された件りがある。 「……両国の広小路に沿うて石を敷いた小路には小間物屋、袋物屋、煎餅屋など種々なる小売店の賑はふ有様、正しく屋根のない勧工場の廊下と見られる。横山町辺のとある路地の中には矢張り立派に石を敷詰めた両側ともに長門筒袋物また筆なぞ製してゐる問屋ばかりが続いてゐるので、路地一帯が倉庫のやうに
岡本綺堂
両国の秋 岡本綺堂 一 「ことしの残暑は随分ひどいね」 お絹は楽屋へはいって水色のをぬいだ。八月なかばの夕日は孤城を囲んだ大軍のように筵張りの小屋のうしろまでひた寄せに押し寄せて、すこしの隙もあらば攻め入ろうと狙っているらしく、破れた荒筵のあいだから黄金の火箭のような強い光りを幾すじも射込んだ。その箭をふせぐ楯のように、古ぼけた金巾のビラや、小ぎたない脱ぎ捨
三木竹二
一番目「楼門五三桐」は五幕に分る。宋蘇卿明の真宗の命に因り此村大炊之助と名乗り、奴矢田平と共に真柴久次に仕へ、不軌を謀りしが、事顕れて自尽す。その最期に血書したる片袖を画中より脱け出でたる白鷹齎し来てその子石川五右衛門に渡す。五右衛門南禅寺の楼門にあり。武智光秀に養はれしため早く真柴久吉を恨めり。遺書を見るに及びて益復讐の志を固うす。偶々久吉順礼姿となりて楼
酒井嘉七
港の街とは申しますものの、あの辺りは、昔から代々うち続いた旧家が軒をならべた、静かな一角でございまして、ご商売屋さんと申しますれば、三河屋さんとか、駒屋さん、さては、井筒屋さんというような、表看板はごく、ひっそりと、格子戸の奥で商売をされている様なお宅ばかり――それも、ご商売と申すのは、看板だけ、多くは、家代々からうけついだ、財産や家宅をもって、のんびりと気
島崎藤村
並木 島崎藤村 近頃相川の怠ることは会社内でも評判に成っている。一度弁当を腰に着けると、八年や九年位提げているのは造作も無い。齷齪とした生涯を塵埃深い巷に送っているうちに、最早相川は四十近くなった。もともと会社などに埋れているべき筈の人では無いが、年をとった母様を養う為には、こういうところの椅子にも腰を掛けない訳にいかなかった。ここは会社と言っても、営業部、
今野大力
母を飢えさせ 妻子を飢えさせ 幼き弟を稼がせて どうやら俺のいない家が保たれている 「飢死の自由」は九尺二間の長屋を占領し 共同井戸の水さえくさってまずい 芋を煮て 仏壇に捧げようとも 心から、真に生命の極から 諦めぬうらみをこめて手向けとなり 俺が死なないように むざむざとうらみの手に殺されないように 無言のいのりがひそんでいる 平和な家庭――生活、 平和
小川未明
正坊のおじいさんは、有名な船乗りでした。年をとって、もはや、航海をすることができなくなってからは、家にいて、ぼんやりと若い時分のことなどをおもい出して、暮らしていられました。 おじいさんは、しまいには、もうろくをされたようです。すくなくも、みんなには、そう思われたのでした。なぜなら、海の中から拾ってきたような、朽ちかかった一枚の黒い板をたいせつにして、いつま
岸田国士
お中元 岸田國士 中元歳暮の贈答を廃止するとかしないとかいふことが問題になつてゐる。 これについて某名流婦人は、この習慣の弊害を認めながら、なほかつ、これを廃止することが実際上困難なことを嘆じ、かつ、その理由として、ある職業によつては、盆暮の「進物」が収入の重要部分を占めてゐる点を挙げてゐる。 だから考へると可笑しな話で、そもそも、盆暮の贈答は、これを「贈る
福沢諭吉
中元祝酒の記 福沢諭吉 『西洋事情外篇』の初巻にいえることあり。「人もしその天与の才力を活用するにあたりて、心身の自由を得ざれば、才力ともに用をなさず。ゆえに世界中、なんらの国を論ぜず、なんらの人種たるを問わず、人々自からその身体を自由にするは天道の法則なり。すなわち人はその人の人にして、なお天下は天下の天下なりというが如し。その生るるや、束縛せらるることな