Vol. 2May 2026

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Perpustakaan pengetahuan dunia domain publik

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中原中也君の印象

萩原朔太郎

中原君の詩はよく讀んだが、個人としては極めて淺い知合だつた。前後を通じて僅か三囘しか逢つて居ない。それも公會の席のことで、打ちとけて話したことはなかつた。ただ最後に「四季」の會で逢つた時だけは、いくらか落付いて話をした。その時中原君は、強度の神經衰弱で弱つてることを告白し、不斷に強迫觀念で苦しんでることを訴へた。話を聞くと僕も同じやうな病症なので、大に同情し

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中味と形式

夏目漱石

私はこの地方にいるものではありません、東京の方に平生住っております。今度大阪の社の方で講演会を諸所で開きますについて、助勢をしろという命令――だか通知だか依頼だかとにかく催しに参加しなければならないような相談を受けました。それでわざわざ出て参りました。もっともこの堺だけで御話をしてすぐ東京表へ立ち帰るという訳でもないので、現に明石の方へ行きましたり、和歌山の

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中央亭騒動事件(実録)

萩原朔太郎

先月、中央亭で催された日本詩集の記念會で、僕がつまらぬことから腹を立て、會場をお騷がせしたことを謝罪する。もとより酒席の出來事であり、根も葉もないその場限りの一些事で、とりたてて言ふほどのことでもないが、とかくかういふことはゴシツプ的に誤傳されて、意想外な風聞を立てられたりするので、逆にこつちから手しをして、ありのままの事實を報告しておかうと思ふ。 事の起り

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中学へ上がった日

小川未明

毎日いっしょに勉強をしたり、また遊んだりしたお友だちと別れる日がきました。今日は卒業式であります。式の後で、男の生徒たちは、笑ったり、お菓子を食べたり、お茶を飲んだりしましたけれど、女の生徒たちは、さすがに悲しみが胸につかえるとみえて、だれも笑ったり、おせんべいを食べたりするものはありませんでした。 哲夫は、校長先生のおっしゃったことが、いつまでも耳に残って

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わが中学時代の勉強法

寺田寅彦

わが中学時代の勉強法 寺田寅彦 自分の出生地は高知県で、始め中学の入学試験に応じたのは十四の年、ちょうど高等三年生の時であった。その中学というのは今の高知県立第一中学である。日ごろからだがあまり健康のほうではなく、それに勉強もろくろくせなかったためだろう、その時の入学試験はみごと失敗に終わってしまった。もっとも成績については何かことのほか不出来のためそんな結

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中宮寺の春

薄田泣菫

中宮寺の春 薄田泣菫 ある歳の一月五日午後二時過ぎのことでした。 私は、その頃まだ達者でゐた法隆寺の老男爵北畠治房氏と一緒に連れ立つて、名高い法隆寺の夢殿のなかから外へ出てきました。 山国の一月には珍しいほどあたたかい日で、薄暗い堂のなかから出てきた眼には、眩し過ぎるほど太陽は明るく照つてゐました。石段の下には見物客らしい、立派な外套を被つた四十がらみの紳士

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S中尉の話

南部修太郎

「まあ皆、聞いて呉れ給へ。この僕にもこんな話があるから面白いぢやあないか……」 と、B歩兵聯隊附のS中尉が話し始めたのです。かう云ふと、定めて戰爭の手柄話でも聞かされるのかと、お思ひになるでせう。處が大違ひなんです。この間Mの家で、一昔前のA中學校の卒業生だつた我我五人が、久し振りに落ち合つた時の話です。五人と云つても、Mはもう法科大學の四囘生ですし、Yはあ

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中山七里 二幕五場

長谷川伸

〔序幕〕 第一場 深川材木堀 第二場 政吉の家 第三場 元の材木堀 〔大詰〕 第一場 飛騨高山の街 第二場 中山七里(引返) 川並政吉    女房お松  酒屋の作蔵 おさん     川並金造  同百松 流浪者徳之助  同三次郎  同高太郎 同おなか    同藤助   同老番頭 亀久橋の文太  木挽治平  猟師 餌差屋の小僧・恐怖した通行人・空家探しの夫婦・酒

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中庸

坂口安吾

中庸 坂口安吾 1 この村からは陸海軍大佐が各一名でた。陸軍の小野は南方で戦歿し、海軍の佐田は終戦後帰村した。余がそれである。 余がその村の村長となったのは決して自分の意志ではない。たまたま前村長が病死して、他に適当な人がなかったために、推されるままに引受けてしまったのだが、人々の話では役場へでて村長の席に坐っているだけでよいような話であったし、自分の記憶で

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中支生活者

豊島与志雄

中支生活者 豊島与志雄 杭州へ行った人は大抵、同地の芝原平三郎氏の存在に気付くであろう。 杭州は蒋政権軍資の源泉の一つでもあったし、また抗日意識の最も旺盛な土地の一つでもあったし、最近まで軍事上の前線的地域に位置してもいた。然るに今日、この地の治安は美事に確保されている。それには種々の原因もあろうが、芝原氏の力も大に与っているように思われる。 芝原氏は或る要

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中支遊記

上村松園

中支遊記 上村松園 上海にて 仲秋まる一ヵ月の旅であった。六十有余年のこの年まで十日以上にわたる旅行はしたことのない私にとって、よく思いたったものと思う。流石にまだ船に乗っているような疲れが身体の底に残っている。頭を掠める旅の印象を追っていると、なお支那に遊んでいるのか、京都に帰っているのか錯綜として、不思議な気持を払いきれない。 昨日の新聞に米船ハリソン号

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中村地平著「長耳国漂流記」

坂口安吾

中村地平著「長耳国漂流記」 坂口安吾 こゝに、歴史的事実といふものがあつて、作家が、製作欲をそゝられる場合、然しながら、如何に書くべきか、といふことは、かやうな意欲と同時に忽ち構想されるほど容易なものでは決してない。 歴史小説といへば、歴史よりも小説であるのが当然で、読者は必ずしも資料に忠実であることを要求しないのが普通であり、物語の内容も亦、事実よりも、創

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中村彝氏の追憶

寺田寅彦

中村彝氏の追憶 寺田寅彦 自分が中村彝氏を訪問したのはあとにも先にもただ一度である。 田中舘先生の肖像を頼む事に関して何かの用向きで、中村清二先生の御伴をして、谷中の奥にその仮寓を尋ねて行った。それは多分初夏の頃であったかと思う。谷中の台地から田端の谷へ面した傾斜地の中腹に沿う彎曲した小路をはいって行って左側に、小さな荒物屋だか、駄菓子屋だかがあって、そこの

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中村梅玉論 大根か名優か

三宅周太郎

昭和初めに私は文藝春秋社に関係し、そこで第二次「演劇新潮」の編輯主任をし、故菊池寛氏と比較的親しくしてゐた。それ故に菊池氏の一面を知るともなく知つてゐる積りであるが、私は多くの文士の中で、氏の如くその仕事の文芸(演劇をも含む)に冷静な人は珍しかつたと思ふ。或は芸術家でゐながら文芸に離れてゐ、傍観者のやうにしてゐる人は珍しかつたと思ふ。 これを砕いていふと、文

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中毒

織田作之助

スタンダールは彼の墓銘として「生きた、書いた、恋した」 という言葉を選んだということである。 スタンダールについて語る人は、殆んど例外なしに、この言葉を引用している。まことにスタンダールらしい言葉、スタンダールの生涯を最もよく象徴した言葉だと、人は言う。たしかにその通りであろう。その点に関しては、私にはいささかの異議はない。 しかし、私はスタンダールはこんな

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中津留別の書

福沢諭吉

中津留別の書 福沢諭吉 中津留別の書 人は万物の霊なりとは、ただ耳目鼻口手足をそなえ言語・眠食するをいうにあらず。その実は、天道にしたがって徳を脩め、人の人たる知識・聞見を博くし、物に接し人に交わり、我が一身の独立をはかり、我が一家の活計を立ててこそ、はじめて万物の霊というべきなり。 古来、支那・日本人のあまり心付かざることなれども、人間の天性に自主・自由と

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中秋の頃

田山花袋

芭蕉の葉が破れ始めた。これでも、秋がもう深くなつたことが思はれる。朝、目が覚めると虫の音がさびしく聞えてゐる。それが言ふに言はれない詩興を促がす。 これからは書ける時だなどと思ふ。その癖、毎年碌なものを書いたためしもなく過ぎて来た。二十五六年前に、『隅田川の秋』といふ作をした時のことなどが不思議に思ひ出されて来た。 もうあの時分のやうな興会は得られまいと思ふ

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ゐろりの中の街

スティーブンソンロバート・ルイス

ゐろりの中に街がある、 かすかな足音きこえてる。 ランプがともり、靄がある、 庭の木などに壁などに。 靄のなかから火がもえて てらし出される部屋がある。 屋根やご本も見えてゐる。 みんな真赤にてらされる。 ゐろりの中の街中の、 塔の下かげ行く兵士。 けれど私が見てるうち、 兵士も光も消えてつた。 かうと再び火がもえる。 ふたたび街をてらしだす。 ほうらこんど

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中西氏に答う

平林初之輔

前掲「文藝運動と勞働運動」の一文句に對して中西伊之助氏が「種蒔く人」八月號で猛烈に批難された。これはそれに對する回答である。讀者の中にも同じような疑問をもたれる人があるかも知れぬと思つて轉載する。 大抵の批難には默つていられる程僕も修業をつんできた。「文藝運動と勞働運動」に對する中西氏の批評も相手が別人なら有難くお受けしておいて差支えないのである。併し相手が

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中里介山の『大菩薩峠』

三田村鳶魚

中里介山の『大菩薩峠』 三田村鳶魚 上 中里介山さんの『大菩薩峠』(普及本の第一巻)を読んでみる。これは最初のところは、奥多摩の地理や生活ぶりが書いてあるので、そこに生れた作者にとっては、何の造作もない、まことに危なげのないところでゆける。しかし例の通り言葉遣いや何かの上には、おかしいところがある。それから武家の生活ということになると、やはりどうもおかしいと

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丸之内点景 ‥‥東京の盛り場を巡る‥‥

小津安二郎

春の夜である。 今、活動がハネたばかりで、人浪は、帝劇から丸之内の一角を通つて、銀座につゞく。 「一寸、つき合へよ、アロハ・オエを一枚買つて行くんだ」 三人連れの海軍青年士官の会話。 ▽ 春の夜の、コンクリートの建物の並んだ、丸之内の裏通りのごみ箱一つ見えない、アスフアルトの往来に、ふと、野菜サラダのにほひを感じたと芥川龍之介は書いてゐる。 この通りには、と

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丸の内

高浜虚子

震災ずっと以前のことであった。今はもう昔がたりになったが、あの小さい劇場の有楽座が建ったはじめに、表に勘亭流の字で書かれた有楽座という小さい漆塗りの看板が掛っていたのに、私は奇異の眼をみはった事があった。この有楽座というのは、その頃はまだ珍しい純洋式の建築であった。どこを探しても和臭というものはなかったが、独りこの勘亭流の字だけに従来の芝居の名残をとどめてい

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丸善と三越

寺田寅彦

丸善と三越 寺田寅彦 子供の時分から「丸善」という名前は一種特別な余韻をもって自分の耳に響いたものである。田舎の小都会の小さな書店には気のきいた洋書などはもとよりなかった、何か少し特別な書物でもほしいと言うと番頭はさっそく丸善へ注文してやりますと言った。中学時代の自分の頭には実際丸善というものに対する一種の憧憬のようなものが潜んでいたのである。注文してから書

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