凍える女
小川未明
おあいが村に入って来たという噂が立った。おあいを見たというものがある。また見ないというものがある。見たという人の話によると、鳥の巣のような頭髪を束ねて、顔色は青白くて血の気のない唇は、寒さのためにうす紫色をしていた。背には乳飲児を負って、なるたけ此方の顔を見ないように急いで、通り違ってしまった。きっと、森の中の家に来ているのだろうといった。 村の北には森があ
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小川未明
おあいが村に入って来たという噂が立った。おあいを見たというものがある。また見ないというものがある。見たという人の話によると、鳥の巣のような頭髪を束ねて、顔色は青白くて血の気のない唇は、寒さのためにうす紫色をしていた。背には乳飲児を負って、なるたけ此方の顔を見ないように急いで、通り違ってしまった。きっと、森の中の家に来ているのだろうといった。 村の北には森があ
寺田寅彦
凍雨と雨氷 寺田寅彦 大気中の水蒸気が凍結して液体または固体となって地上に降るものを総称して降水と言う。その中でも水蒸気が地上の物体に接触して生ずる露と霜と木花と、氷点下に過冷却された霧の滴が地物に触れて生ずる樹氷または「花ボロ」を除けば、あとは皆地上数百ないし数千メートルの高所から降下するものである。その中でも雨と雪は最も普通なものであるが、雹や霰もさほど
長谷川時雨
凡愚姐御考 長谷川時雨 義理人情の美風といふものも歌舞伎芝居の二番目ものなどで見る親分子分の關係などでは、歪んだ――撓めた窮屈なもので、無條件では好いものだといひかねる。立てなくつてもいい義理に、無理から無理を生ませてゐる。人情にしてもまことに低級卑俗だ。大局とか、大義とか、さういふものには眞つくらで、ただ、ただ親分のためとか、顏が立たぬとかでもちきつてゐる
カフカフランツ
「こいつがまた、いい機械なんです。」 旅人にそう言って、将校は、もう知りつくしたはずの機械を、あらためてほれぼれと眺めた。 ただの義理だった。 旅人は司令官に頼まれて、しぶしぶ来ていた。一人の兵士が、不服従と上官侮辱で処刑されるから、立ち会ってほしい、と。 この流刑地でも、この処刑に対する関心は低いようだった。 荒れ果てた深い谷の底に、小さな場所があった。周
宮本百合子
「処女作」より前の処女作 宮本百合子 どんな作家でも、はじめて作品が雑誌なら雑誌に発表されたという意味での処女作のほかに、ほんとの処女作というのもおかしいが誰にもよまれず、永年のうちには書いた自分自身さえそのことは忘れてしまっているというような処女作がきっとあるだろうと思う。 自分の公認処女作は「貧しき人々の群」というので大正五年に『中央公論』に発表された。
坂口安吾
処女作前後の思ひ出 坂口安吾 私が二十の年に坊主にならうと考へたのは、何か悟りといふものがあつて、そこに到達すると精神の円熟を得て浮世の卑小さを忘れることができると発願したのであるが、実は歪められた発願であつて、内心は小説家になりたかつたのであり、それを諦めたところに宗教的な満足をもとめる心も育つたのであらうと思ふ。なぜ諦めたかと云へば、言ふまでもなく、才能
南部修太郎
處女作の思ひ出 南部修太郎 忘れもしない、あれは大正五年十月なかばの或る夜のことであつた。秋らしく澄み返つた夜氣のやや肌寒いほどに感じられた靜かな夜の十二時近く、そして、書棚の上のベルギイ・グラスの花立に挿した桔梗の花の幾つかのしほれかかつてゐたのが今でもはつきり眼の前に浮んでくるが、その時こそ、私は處女作「修道院の秋」の最後の一行を書き終つて、人無き部屋に
牧野信一
大正八年の春書いた「爪」といふのが処女作であり同年の十二月号に「十三人」といふ同人雑誌に載り、それが偶然にも島崎先生より讃辞を頂いたことに就いては先生も或る文章の中に誌したので省略するが、それが十二月のことであり、日本橋の或る商店に寄食してゐた折から、私は暮から春の休みへかけて、秘かに原稿紙などを鞄に入れてひとりで熱海へ赴いたことを憶ひ出す。 ●図書カード
宮本百合子
処女作より結婚まで 宮本百合子 人並みの苦心をすることは決して苦心とはいえないでしょう。というのは、成功と失敗とに拘わらず、努力に就ての或る標準が予想されていて、その標準以上の努力をした場合でなければ、苦心といえないものだと思うからで御座います。ある一定の効果を挙げる為に当然支払わねばならぬというだけのものを支払った事は、それは敢て苦心という事が出来ないもの
夏目漱石
処女作追懐談 夏目漱石 私の処女作――と言えば先ず『猫』だろうが、別に追懐する程のこともないようだ。ただ偶然ああいうものが出来たので、私はそういう時機に達して居たというまでである。 というのが、もともと私には何をしなければならぬということがなかった。勿論生きて居るから何かしなければならぬ。する以上は、自己の存在を確実にし、此処に個人があるということを他にも知
野上豊一郎
処女の木とアブ・サルガ 野上豊一郎 一 カイロに着いた翌日、町の北東五マイルほどの郊外にある昔のヘリオポリス(日の町)の遺跡にウセルトセン一世の建てたエジプト現存第一の大オベリスクを見に行った。そのついでに車を廻して、そこからあまり遠くない所にある「処女の木」を見物した。 その辺はマタリアと呼ばれる部落で、五千年前のヘリオポリスの殷賑などはいくら想像を働かし
北村透谷
天地愛好すべき者多し、而して尤も愛好すべきは処女の純潔なるかな。もし黄金、瑠璃、真珠を尊としとせば、処女の純潔は人界に於ける黄金、瑠璃、真珠なり。もし人生を汚濁穢染の土とせば、処女の純潔は燈明の暗牢に向ふが如しと言はむ、もし世路を荊棘の埋むところとせば、処女の純潔は無害無痍にして荊中に点ずる百合花とや言はむ、われ語を極めて我が愛好するものを嘉賞せんとすれども
寺田寅彦
またひとしきり強いのが西の方から鳴って来て、黒く枯れた紅葉を机の前のガラス障子になぐり付けて裏の藪を押し倒すようにして過ぎ去った。草も木も軒も障子も心から寒そうな身慄をした。ちょうど哀れをしらぬ征服者が蹄のあとに残して行く戦者の最後の息であるかのような悲しい音を立てている。これを嘲る悪魔の声も聞えるような気がする。何処の深山から出て何処の幽谷に消え去るとも知
牧野信一
* 心象の飛躍を索め、生活の変貌を翹望する――斯ういふ意味のことは口にしたり記述されたりする場合に接すると多く無稽感を誘はれるものだが、真実に人の胸底に巣喰ふ左様な憧憬や苦悶は最も原始的に多彩な強烈さを持つて蟠居する渦巻であらう。僕も亦不断に斯る竜巻に向つて戈を構える包囲軍中の一兵卒である。勇敢なる軽騎兵だ。然し僕は、余りに激烈なる突撃のために、屡々自己を見
牧野信一
「君は一度も恋の悦びを経験した事がないのだね。――僕が若し女ならば、生命を棄てゝも君に恋をして見せるよ。」と彼のたつた一人の親友が云つた時、 「よせツ、戯談じやねえ、気味の悪るい。」、と二人が腹を抱へて笑つてしまつて――その笑ひが止らない中に、彼はその友の言葉に真実性を認めたから、自分を寂しいと思ふ以上に、親友の有り難さに嬉し涙を感ずる、と同時に、「そんなに
楠山正雄
むかしあるところに、田を持って、畑を持って、屋敷を持って、倉を持って、なにひとつ足りないというもののない、たいへんお金持ちのお百姓がありました。それで村いちばんの長者とよばれて、みんなからうらやましがられていました。 この長者とおなじ村に、これはまた持っているものといっては、ふるいすきとくわとかまがいっちょうずつあるばかりという、たいへん貧乏なお百姓の夫婦が
倉田百三
『出家とその弟子』の追憶 倉田百三 この戯曲は私の青春時代の記念塔だ。いろいろの意味で思い出がいっぱいまつわっている。私はやりたいと思う仕事の志がとげられず、精力も野心も鬱積してる今日、青春の回顧にふけるようなことはあまりないが、よく質問されるので、この戯曲のことから青春を思いかえすことがある。 私の青春はたしかに純熱であった。私は悔いを感じない。人生に対し
坂口安吾
出家物語 坂口安吾 幸吉の叔母さんに煙草雑貨屋を営んでいる婆さんがあって、御近所に三十五の品の良い未亡人がいるから、見合いをしてみなさい、と言う。インテリで美人で、三十ぐらいにしか見えない。会社の事務員をして二人の子供を女手で育てゝいるが、浮いた噂もない。幸吉にはモッタイない人だけれども、あるとき叔母さんに、事務員じゃ暮しが苦しいから、オデン屋の小さい店がも
槙村浩
今宵電車は進行を止め、バスは傾いたまゝ動かうともせぬ沿道の両側は雪崩れうつ群衆、提灯と小旗は濤のように蜒り歓呼の声が怒濤のように跳ね返るなかをおれたちは次々にアーチを潜り、舗道を踏んでいま駅前の広場に急ぐ おゝ、不思議ではないかかくも万歳の声がおれたちを包みおれたちの旅がかくも民衆の怒雷の歓呼に送られるとは! 春の街は人いきれにむれ返り銃を持つ手に熱気さへ伝
永井荷風
文学書類を出版する本屋も私は明治三十四、五年頃から今日まで関係していることだから話をしだせば限りがないくらい沢山あります。文学者の方から見れば本屋というものは概して不愉快なものさ。口と腹とはまるでちがっている人間ばかりだから心持好く話はできない。文学者は初から一枚書けばいくらだと胸算用をして金のためばかりに筆を執るわけでもないんだから本屋と金の取引をするだけ
永井荷風
文学書類を出版する本屋も私は明治三十四五年頃から今日まで関係してゐることだから話をしだせば限りがないくらい沢山あります。文学者の方から見れば本屋といふものは概して不愉快なものさ。口と腹とはまるでちがつてゐる人間ばかりだから心持好く話はできない。文学者は初から一枚書けばいくらだと胸算用をして金のためばかりに筆を執るわけでもないんだから本屋と金の取引をするだけで
島崎藤村
時計屋へ直しに遣つてあつた八角形の柱時計が復た部屋の柱の上に掛つて、元のやうに音がし出した。その柱だけにも六年も掛つて居る時計だ。三年前に叔母さんが産後の出血で急に亡くなつたのも、その時計の下だ。 姉のお節は外出した時で、妹のお栄は箒を手にしながら散乱つた部屋の内を掃いて居た。斯の姉妹が世話する叔父さんの子供は二人とも男の児で、年少の方は文ちやんと言つて、六
原民喜
吉池の不機嫌は母と衝突してみてわかった。 着物のことになると如何して女と男は意見が違ふのだらう。 意見が違ふと云ふことはそんなに人間の感情を害ねるものだらうか。 人間はむしろ感情を損ひたいと云ふ感情に支配されることがありはすまいか。 吉池はAからZまで自分の不機嫌を種々様々に分解してみた。だが、何よりも大切なのは早く不機嫌を取消すことであった。自分が主賓とし
牧野信一
「風よ風よ、吾を汝が立琴となせ、彼の森の如く――か、ハツハツハ……琴にならぬうちに、おさらばだよ、森よ森よ、さよなら――と!」 「真面目かと思へば冗談で、冗談かと思へば生真面目で、転がせ/\、この樽を――だ、ハツハツハツ……」 「泣いて呉れるなヨ、出船の邪魔だヨ……」 「今日は黒パン、明日は白パン、兵士の歌だよ、白い娘と黒いパン、黒い娘と白いパン、どんどん行