あらしの前の木と鳥の会話
小川未明
ある山のふもとに、大きな林がありました。その林の中には、いろいろな木がたくさんしげっていましたが、一番の王さまとも見られたのは、古くからある大きなひのきの木でありました。 また、この林の中には、たくさんな鳥がすんでいました。しかし、なんといっても、その中の王さまは、年とったたかでありました。多くの鳥たちは、みんな、このたかをおそれていました。 ある日のこと、
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小川未明
ある山のふもとに、大きな林がありました。その林の中には、いろいろな木がたくさんしげっていましたが、一番の王さまとも見られたのは、古くからある大きなひのきの木でありました。 また、この林の中には、たくさんな鳥がすんでいました。しかし、なんといっても、その中の王さまは、年とったたかでありました。多くの鳥たちは、みんな、このたかをおそれていました。 ある日のこと、
中野鈴子
お前は此の頃よくねむる 朝もなかなか目が覚めない 若いお前には深いねむりが必要なのだ お前よ お前は母の手に返ってきた 日本が敗けたとき お前はわたしの子供となった お前が生まれたとき はじめてねむったあの時の母子のように わたし自身によって生まれた子供として 母の誇りをもって抱くことのできる 何と言う喜びぞ わたしは乳をしぼった 出ない乳をしぼり、つかれて
小林一三
アーニイ・パイルの前に立ちて 小林一三 ネオンの中に明滅する追憶 私は、「アーニイ・パイル」の横文字が、淡い、うす緑の五線紙型ネオンサインの色彩の中に明滅するのを、ジッと見詰めていた。眼がしらが熱くうるおいそめて、にじみ出して湧いてこぼれて来る涙を拭く気にもなれない。誰れも見て居らない、泣けるだけ泣いてやれ、という心持ちであったかもしれない。私は、頬のあたり
国枝史郎
前記天満焼 国枝史郎 1 ここは大阪天満通の大塩中斎の塾である。 今講義が始まっている。 「王陽明の学説は、陸象山から発している。その象山の学説は、朱子の学から発している。周濂溪、張横渠、程明道、程伊川、これらの学説を集成したものが、すなわち朱子の学である。……朱子の学説を要約すれば、洒掃応待の礼よりはじめ、恭敬いやしくも事をなさず、かつ心を静止して、読書し
小山清
金沢イエは私の父の浄瑠璃の弟子である。短い間であったが内弟子に来ていたこともあった。私は小学校の五年生位だった。イエはそのとき十五位だったろう。あれは稚児輪というのだろう、絵に見る牛若丸のような形の髪に結っていた。またそれがよく映った。色白で眼の涼しいイエは子供の聯想で牛若丸のように私の眼に映った。イエがその日から家に来るという日、学校から帰るとすぐ私はイエ
宮本百合子
このたび、常任中央委員会によって発表された日和見主義との闘争に関する決議は、プロレタリア文学運動が今日到達したレーニン的立場に立っての分析の周密さ、きわめて率直な自己批判の態度などにおいて、非常にすぐれたものである。この決議の精神は、作家同盟の全活動を今後ますます正しく活溌化するばかりでなく、おそらくは他の文化団体及びその指導部にとっても何らかの意味で示唆す
宮本百合子
前進的な勢力の結集 宮本百合子 一九四五年の八月以来、日本のすべての生活は驚く程のテンポで推移している。日本の民主化がいわれ、やっと私たちの生命が私たちのものに戻された時、日本のインテリゲンチャは「自分」を取り返す為に熱中と混乱とを示した。何しろ戦争が強行された十数年間日本のすべての理性と人間らしい一人一人の「自分」は殺されていたのだから。そしてその十数年間
マクラウドフィオナ
ロックリンの海賊どもがヘブリッド島の鴉に餌じきを与えた時から三年目の、しろき六月とよばれる月に、夏の航海者たちは又もスカイの海峡を下って来た。 東風が山からあたらしく吹いて来た、明方と日の出ごろとのあいだにその風は向きを変えてクウフリンの岩の峯に触れて冷されて、やがて西北に向いて、風あしの白い泡をうしろから太陽のきらめきに捕えさせながら、飛んで行った。 「ス
坂口安吾
剣術の極意を語る 坂口安吾 僕は剣術を全然知らない。生れて以来、竹刀を手に持つたことがたつた一度しかないのである。 中学の時、剣術と柔道とゞちらか選んで習ふ必要があつたが、僕は柔道を選んだ。人にポカ/\頭を殴られるのは気がすゝまなかつたのだ。ところが後になつて、学校の規則が変つて、剣道も柔道もどつちも正科になつて一時間づゝ習ふことになつた。その第一時間目、型
牧野信一
“I chatter, chatter, as I flow To join the brimming river, For men may come and men may go, But I go on for ever” ……………… うたでもうたつてゐないと絶え入りさうなので、私はあたりの物音を怕れながら、聴心器のゴム管で耳をおさへ、自分で自分の鼓動
折口信夫
副詞表情の発生 折口信夫 一 ――けなばけぬかに 道に逢ひてゑますがからに、零雪乃消者消香二恋云わぎも(万葉巻四) ……まつろはず立ち対ひしも、露霜之消者消倍久、ゆく鳥のあらそふはしに、(同巻二) 一云ふ、朝露之消者消言(香かと云ふ)爾うつそみとあらそふはしに 私は、今の場合、「けなばけぬかに」を主題としようとするのではない。だが、一つの前提として、此から解
太宰治
創作余談 太宰治 創作余談、とでもいったものを、と編輯者からの手紙にはしるされて在った。それは多少、てれくさそうな語調であった。そう言われて、いよいよてれくさいのは、作者である。この作者は、未だほとんど無名にして、創作余談とでもいったものどころか、創作それ自体をさえ見失いかけ、追いかけ、思案し、背中むけ、あるいは起き直り、読書、たちまち憤激、巷を彷徨、歩きな
牧野信一
窓下の溝川に蛙を釣に来る子供たちが、 「今日は目マルは居ねえのか。」 「居ないらしいぞ。」 などと、ささやき合つてゐるのを聴いた。 さういふ俗称の蛙がゐると見える、いつたい何んな蛙の謂なのか――と私は、読みかけてゐた本を顔の上に伏せて、蚊帳のなかで耳をそばだてた。二三日前に押入の隅から取出した幼児の褓※蚊帳だつた。この貸家の先住者が忘れて行つたものらしい。洋
桑原隲蔵
創建清眞寺碑は支那の陝西省西安府城學習巷の清眞寺内に在る。支那に於ける囘教の傳來を記した最古の石碑として、囘教徒の間には非常に珍重されて居る。碑文に據ると唐の玄宗の天寶元年(西暦七四二)の建設であるから、かの徳宗の建中二年(西暦七八一)に建てられた大秦景教流行中國碑よりも約四十年前のものである。 西暦千八百六十六年に露國の Palladius 僧正が始めてこ
太宰治
創生記 太宰治 ――愛ハ惜シミナク奪ウ。 太宰イツマデモ病人ノ感覚ダケニ興ジテ、高邁ノ精神ワスレテハイナイカ、コンナ水族館ノめだかミタイナ、片仮名、読ミニククテカナワヌ、ナドト佐藤ジイサン、言葉ハ怒リ、内心ウレシク、ドレドレ、ト眼鏡カケナオシテ、エエト、ナニナニ?――海ノ底デネ、青イ袴ハイタ女学生ガ昆布ノ森ノ中、岩ニ腰カケテ考エテイタソウデス、エエ、ホントニ
岸田国士
「劇作」に告ぐ 岸田國士 ずいぶん旧いことだが、「劇作」が創刊される頃はたしかに新劇の世界に一つの機運がもり上つてゐた。それは、大正初年の、いはゆる戯曲の開花期に相応するものである。 私はこの二つの時期をそれぞれに、新劇に於ける飛躍時代と呼びたいのであるが、その意味は、日本演劇の近代化が、戯曲文学を通じて、これほどはつきり、一つの足跡を残した時代はないと思ふ
岸田国士
劇作家としてのルナアル 岸田國士 劇作家ルナアルは、ミュッセと共に、僕に戯曲を書く希望と興味と霊感とを与へてくれた。彼に就いて何かを言はなければならないなら、僕は寧ろ黙つてゐたい。僕はあまり多く彼に傾倒し、あまり多く彼の芸術に酔つてゐる。 彼は生涯にたつた六篇の喜劇を書いた。小喜劇を書いた。その小喜劇は、偉大なる力を以て舞台を征服した。彼は既に非凡なる戯曲作
岸田国士
自ら劇作家と名乗る資格があるかどうかわからないものが、劇作家たるべき道を説くことは甚だ可笑しいと思ひますが、私を一個の劇作家と見立てゝ、かういふ課題を与へた本誌編輯者の、表面的な責任の蔭にかくれ、私は、自分の信ずるところを述べて見ませう。 一体、「劇作家になる」といふこと、それ自身が問題なのです。 或る批評家の説によれば、「劇作家は生れながらにして劇作家であ
岸田国士
劇作と私 岸田國士 雑誌「劇作」が生れるについて、私は直接なにも力にはなつてゐないが、同人のなかには親しい仲間も加はつてゐたし、蔭ながら声援をおくるといふ立場で、大いに発展を期待してゐた。 元来、戯曲家を育てる温床の役目は、よかれあしかれ、劇場が引受けるべきであつて、如何に才能ある新人を網羅するにもせよ、一雑誌の経営が完全にこれを果し得る筈はないのであるが、
岸田国士
劇場と作者 岸田國士 一代の人気女優、ド・リュジイ嬢は、給料の問題で、作者にも金を払はなければならないと云ふことを聞いて、「何だつて。一体作者なんて云ふものを、なしにするわけには行かないかね」と、やつつけた。ラ・カメラニイ夫人もまた、オペラ座の化粧部屋に納つて、「作者なんぞゐるうちは、芝居の繁昌するわけはない」と宣言した。それが、仏蘭西のことである。しかも、
宮本百合子
ソヴェト「劇場労働青年」 宮本百合子 一九三〇年の初夏、レニングラードから「トラム」劇団がモスクワへ興行に来た。その「トラム」劇団と云うのは皆何年か実際職場で働いた経験のあるコムソモール達に依って組織されている劇団だ。初め各々が演劇好きで倶楽部の演劇研究部のメンバーとなり、勉強して祭の日に倶楽部の芝居へ出演したりしていた。ところが段々専門化して来て色んな工場
岸田国士
劇場と観客層 岸田國士 本誌(「改造」)に時評を書くのは初めてだから、多少今まで云つたことと重複する点もあるが、私が現在、最も痛切に感じてゐることを、ここでも云はして貰ふことにする。 先づ、私が訊ねたいと思ふのは、本誌の読者で、「現在の芝居」を観に行く人が、どれだけあるかといふことだ。歌舞伎、新派、新劇を通じて、ある程度まで各人の好みがあることはあるだらうが
岸田国士
近頃、純文学と大衆文学の問題が各所で論議されてゐるやうだが、これは、所謂「文芸上の問題」とはなり得ない一個の文壇四方山話にすぎないので、「純文学では飯が食へん」とか、「大衆文学を書くのにもやはり才能がいる」とか、何れも、動かすべからざる真理に違ひないが、今まで、どの時代の文学者も、そんなことは嘗て言はなかつたほど、当り前のことなのだ。まして、「純文学の勢力が
岸田国士
演劇の不振といふことを、近頃よく世間では問題にするが、それが悦ぶべきことか悲しむべきことかといふ議論になると、私には、殆んど見当がつかないと云つていい。 一国の一時代に於ける演劇が、特に盛んであつたところで、少しも悦ぶべきことでなく、殊にその盛んでありやうによつては、寧ろ厄介千万だからである。 興行者乃至俳優の側から云へば、劇場に見物が殺到する世の中を望んで