半七捕物帳 53 新カチカチ山
岡本綺堂
一 明治二十六年の十一月なかばの宵である。わたしは例によって半七老人を訪問すると、老人はきのう歌舞伎座を見物したと云った。 「木挽町はなかなか景気がようござんしたよ。御承知でしょうが、中幕は光秀の馬盥から愛宕までで、団十郎の光秀はいつもの渋いところを抜きにして大芝居でした。愛宕の幕切れに三宝を踏み砕いて、網襦袢の肌脱ぎになって、刀をかついで大見得を切った時に
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岡本綺堂
一 明治二十六年の十一月なかばの宵である。わたしは例によって半七老人を訪問すると、老人はきのう歌舞伎座を見物したと云った。 「木挽町はなかなか景気がようござんしたよ。御承知でしょうが、中幕は光秀の馬盥から愛宕までで、団十郎の光秀はいつもの渋いところを抜きにして大芝居でした。愛宕の幕切れに三宝を踏み砕いて、網襦袢の肌脱ぎになって、刀をかついで大見得を切った時に
岡本綺堂
一 こんにちでも全く跡を絶ったというのではないが、東京市中に飴売りのすがたを見ることが少なくなった。明治時代までは鉦をたたいて売りに来る飴売りがすこぶる多く、そこらの辻に屋台の荷をおろして、子どもを相手にいろいろの飴細工を売る。この飴細工と粉細工とが江戸時代の形見といったような大道商人であったが、キャラメルやドロップをしゃぶる現代の子ども達からだんだんに見捨
岡本綺堂
一 ある年の夏、わたしが房州の旅から帰って、形ばかりの土産物をたずさえて半七老人を訪問すると、若いときから避暑旅行などをしたことの無いという老人は、喜んで海水浴場の話などを聴いた。 そのうちに、わたしが鋸山へ登って、おびただしい蛇に出逢った話をすると、半七は顔をしかめながら笑った。 「わたしの識っている人で、鋸山の羅漢さまへお参りに行ったのもありましたが、蛇
岡本綺堂
一 種痘の話が出たときに、半七老人はこんなことをいった。 「今じゃあ種痘と云いますが、江戸時代から明治の初年まではみんな植疱瘡と云っていました。その癖が付いていて、わたくしのような昔者は今でも植疱瘡と云っていますよ。こんな事はあなた方がよく御存じでしょうから、詳しくは申し上げませんが、日本の植疱瘡はなんでも文政頃から始まったとか云うことで、弘化四年に佐賀の鍋
岡本綺堂
一 七月七日、梅雨あがりの暑い宵であったと記憶している。そのころ私は銀座の新聞社に勤めていたので、社から帰る途中、銀座の地蔵の縁日をひやかして歩いた。電車のまだ開通しない時代であるから、尾張町の横町から三十間堀の河岸へかけて、いろいろの露店がならんでいた。河岸の方には観世物小屋と植木屋が多かった。 観世物は剣舞、大蛇、ろくろ首のたぐいである。私はおびただしい
岡本綺堂
一 「幽霊の観世物」の話が終ると、半七老人は更にこんな話を始めた。 「観世物ではまだこんなお話があります。こんにちでも繁昌している団子坂の菊人形、あれは江戸でも旧いものじゃあありません。いったい江戸の菊細工は――などと、あなた方の前で物識りぶるわけではありませんが、文化九年の秋、巣鴨の染井の植木屋で菊人形を作り出したのが始まりで、それが大当りを取ったので、そ
岡本綺堂
一 団子坂の菊人形の話につづいて、半七老人は更に「蟹のお角」について語り出した。団子坂で外国人らの馬をぬすんだ一件は、馬丁平吉の召し捕りによってひと先ず落着したが、その関係者の一人たる蟹のお角は早くも姿をくらまして、ゆくえ不明となった。したがって、この物語は前者の姉妹篇とでも云うべきものである。 「蟹のお角という女は、だんだん調べてみると札付きの莫連もので、
岡本綺堂
一 読者もすでに御承知の通り、半七老人の話はとかくに芝居がかりである。尤も昔の探索は、幾らか芝居気が無くては出来なかったのかも知れない。したがって、この老人が芝居好きであることもしばしば紹介した。 日清戦争が突発するふた月ほど前、明治二十七年五月の二十日過ぎである。例のごとく日曜日の朝から赤坂の宅へ推参すると、老人はきのう新富座を見物したと云った。 「新富は
岡本綺堂
一 極月の十三日――極月などという言葉はこのごろ流行らないが、この話は極月十三日と大時代に云った方が何だか釣り合いがいいようである。その十三日の午後四時頃に、赤坂の半七老人宅を訪問すると、わたしよりもひと足先に立って、蕎麦屋の出前持ちがもりそばの膳をかついで行く。それが老人宅の裏口へはいったので、悪いところへ来たと私はすこし躊躇した。 今の私ならば、そこらを
岡本綺堂
一 前回には極月十三日の訪問記をかいたが、十二月十四日についても、一つの思い出がある。江戸以来、歳の市の始まりは深川八幡で、それが十四、十五の両日であることは、わたしも子どもの時から知っていたが、一度もその実況を観たことが無いので、天気のいいのを幸いに、俄かに思い立って深川へ足を向けた。 今と違って、明治時代の富岡門前町の往来はあまり広くない。その両側に露店
岡本綺堂
一 四月の日曜と祭日、二日つづきの休暇を利用して、わたしは友達と二人連れで川越の喜多院の桜を見物して来た。それから一週間ほどの後に半七老人を訪問すると、老人は昔なつかしそうに云った。 「はあ、川越へお出ででしたか。わたくしも江戸時代に二度行ったことがあります。今はどんなに変りましたかね。御承知でもありましょうが、川越という土地は松平大和守十七万石の城下で、昔
岡本綺堂
一 「いつも云うことですが、わたくし共の方には陽気なお話や面白いお話は少ない」と、半七老人は笑った。 「なにかお正月らしい話をしろと云われても、サアそれはと行き詰まってしまいます。それでも時時におかしいような話はあります。もちろん寄席の落語を聴くように、頭から仕舞いまでげらげら笑っているようなものはありません。まあ、その話に可笑味があるという程度のものですが
岡本綺堂
一 これも例の半七老人の話である。但し自分はこの一件に直接の関係はなく、いわば請け売りのお話であるから、多少の聞き違いがあるかも知れませんと、前提をして老人は語る。 「今でも無いことはありませんが、昔は祭礼や開帳には造り物が出来たものです。殊にお開帳には必ず種々の造り物が出来て、それが一つの呼び物になったのですから、皆それぞれに工夫を凝らしたものです。その造
岡本綺堂
一 ある時、半七老人をたずねると、老人は私に訊いた。 「あなたに伺ったら判るだろうと思うのですが、几董という俳諧師はどんな人ですね」 時は日清戦争後で、ホトトギス一派その他の新俳句勃興の時代であたから、わたしもいささかその心得はある。几董を訊かれて、わたしはすぐに答えた。彼は蕪村の高弟で、三代目夜半亭を継いだ知名の俳人であると説明すると、老人はうなずいた。
岡本綺堂
一 ある日、例のごとく半七老人を赤坂の家にたずねると、老人はあたかも近所の碁会所から帰って来た所であった。 「あなたは碁がお好きですか」と、わたしは訊いた。 「いいえ、別に好きという程でもなく、いわゆる髪結床将棋のお仲間ですがね」と、半七老人は笑った。「御承知の通りの閑人で、からだの始末に困っている。といって、毎日あても無しにぶらぶら出歩いてもいられないので
岡本綺堂
四月なかばの土曜日の宵である。 「どうです。あしたのお天気は……」と、半七老人は訊いた。 「ちっと曇っているようです」と、わたしは答えた。 「花どきはどうも困ります」と、老人は眉をよせた。「それでもあなた方はお花見にお出かけでしょう」 「降りさえしなければ出かけようかと思っています」 「どちらへ……」 「小金井です」 「はあ、小金井……。汽車はずいぶん込むそ
岡本綺堂
半七捕物帳の思い出 岡本綺堂 初めて「半七捕物帳」を書こうと思い付いたのは、大正五年の四月頃とおぼえています。そのころ私はコナン・ドイルのシャアロック・ホームスを飛び飛びには読んでいたが、全部を通読したことがないので、丸善へ行ったついでに、シャアロック・ホームスのアドヴェンチュアとメモヤーとレターンの三種を買って来て、一気に引きつづいて三冊読み終ると探偵物語
国枝史郎
岡本綺堂氏の「半七捕物帳」その主人公の半七に就いて些私見を述べることにする。 「……三十二三の痩ぎすの男で、縞の着物に縞の羽織を着て誰の眼にも生地の堅気とみえる町人風であった。色の浅黒い鼻の高い、芸人か何ぞのように表情に富んだ眼を有っているのが、彼の細長い顔の著るしい特徴であった」 働き盛りの半七といえば、こんなような風貌を持ってたらしい。 「しかしこんな稼
牧野信一
神妙な療養生活がどうやら利きめがあらはれて、陽気もおひおひと和んで来ると、酒の有りがたさが沁々と感ぜられるのである。やはりわたしは、わらはうとおもへば、どうやらわらふことも出来さうな風来の大酒家であり、若しも陶然としてさへゐれば、何処に住んでも胡蝶物語の夢想兵衛であるらしい。この間、わたしの近年の幻想的なる作品が、マンネリズムにおち入つて云々といふことを尾崎
寺田寅彦
九月二十四日、日曜日、空よく晴れて暑からず寒からず。数学の宿題も午前の中に片付けたれば午後半日は思うまま遊ぶべしと定まれば昼飯待遠し。今日は彼岸にや本堂に人数多集りて和尚の称名の声いつもよりは高らかなるなど寺の内も今日は何となく賑やかなり。線香と花估るゝ事しきりに小僧幾度か箒引きずって墓場を出つ入りつ。木魚の音のポン/\たるを後に聞き朴歯の木履カラつかせて出
田山花袋
人間の一生を縦に考へて見ただけでも、世間に就ての考へ方は各自に、非常に違つて来るやうなものである。若い頃には誰でも大概は世間に圧されてゐる。意味なしに上から圧迫されてゐる。従つて弱いものはいぢけ、強い者は反抗するといふやうな態度を取るやうになつてゐる。それといふのもさういふ時代には、対象は十の八九まで世間であつて、何うかして人並になりたい、世間並になりたい、
太宰治
私は田舎のいわゆる金持ちと云われる家に生れました。たくさんの兄や姉がありまして、その末ッ子として、まず何不自由なく育ちました。その為に世間知らずの非常なはにかみやになって終いました。この私のはにかみが何か他人からみると自分がそれを誇っているように見られやしないかと気にしています。 私は殆ど他人には満足に口もきけないほどの弱い性格で、従って生活力も零に近いと自
谷崎潤一郎
先生、わたし今日はすっかり聞いてもらうつもりで伺いましたのんですけど、折角お仕事中のとこかまいませんですやろか? それはそれは詳しいに申し上げますと実に長いのんで、ほんまにわたし、せめてもう少し自由に筆動きましたら、自分でこの事何から何まで書き留めて、小説のような風にまとめて、先生に見てもらおうか思たりしましたのんですが、……実はこないだ中ひょっと書き出して
宮沢賢治
卑屈の友らをいきどほろしく 粘土地二片をはしりてよぎり 崖にて青草黄金なるを知り のぼりてかれ草黄なるをふめば 白雪きららに落ち来るものか 一列赤赤ならべるひのき ふたゝび卑屈の友らをおもひ たかぶるおもひは雲にもまじへ かの粘土地なるかの官庁に 灰鋳鉄のいかりを投げよ ●図書カード