古井戸
豊島与志雄
古井戸 豊島与志雄 一 初めは相当に拵えられたものらしいが、長く人の手がはいらないで、大小さまざまの植込が生い茂ってる、二十坪ばかりの薄暗い庭だった。その奥の、隣家との境の板塀寄りに、円い自然石が据っていた。 「今時、これほどの庭でもついてる借家はなかなかございませんよ。それですから、家は古くて汚いんですけれど、辛棒して住っておりますの。」 「そうですね。手
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豊島与志雄
古井戸 豊島与志雄 一 初めは相当に拵えられたものらしいが、長く人の手がはいらないで、大小さまざまの植込が生い茂ってる、二十坪ばかりの薄暗い庭だった。その奥の、隣家との境の板塀寄りに、円い自然石が据っていた。 「今時、これほどの庭でもついてる借家はなかなかございませんよ。それですから、家は古くて汚いんですけれど、辛棒して住っておりますの。」 「そうですね。手
金鍾漢
しだれ柳はおいぼれてゐて 井戸のそこには くつきりと 碧空のかけらが落ちてゐて 閏四月 おねえさま ことしも 郭公が鳴いてゐますね つつましいあなたは 答へないで 夕顔のやうにほほゑみながら つるべをあふれる 碧空をくみあげる つるべをあふれる 伝説をくみあげる 径は麦畑のなかを折れて 庭さきに 杏も咲いてゐる あれはぼくらの家 まどろみながら 牛が雲を反芻
折口信夫
古代人の思考の基礎 折口信夫 一 尊貴族と神道との関係 尊貴族には、おほきみと仮名を振りたい。実は、おほきみとすると、少し問題になるので、尊貴族の文字を用ゐた。こゝでは、日本で一番高い位置の方、及び、其御一族即、皇族全体を、おほきみと言うたのである。この話では、その尊貴族の生活が、神道の基礎になつてゐる、といふ事になると思ふ。私は、民間で神道と称してゐるもの
高村光太郎
エジプト彫刻最高期の作であるこの像はさすがに堂々たる大彫刻の美をもつている。後期王朝時代のもののように巨大ではないが、彫刻からうける感銘はかえつてそれよりも大きい。ギイザにある大スフインクス建造時代のこの王が遺憾なく造型美をあたえられている。材質も重剛な閃緑岩が用いられ、その堅さと光澤とが巧に彫刻美の基礎を作り上げ、寫眞と樣式化とが破綻なく融合し、形態の單純
橋本進吉
我が国の古典を読むについて何かその基礎になるようなことについて話してもらいたいという御依頼でございました。それで、我が国の古代の音韻についてお話申上げたいと思います。もっともこれについては、私の研究もまだ最後の処まで行き着いていないのでございまして、自分でも甚だ不満足ではございますが、しかしこれまで私が調べました範囲内でも、古典をお読みになるような場合に多少
中原中也
認識以前に書かれた詩―― 沙漠のたゞ中で 私は土人に訊ねました 「クリストの降誕した前日までに カラカネの 歌を歌つて旅人が 何人こゝを通りましたか」 土人は何にも答へないで 遠い沙丘の上の 足跡をみてゐました 泣くも笑ふも此の時ぞ 此の時ぞ 泣くも笑ふも ●図書カード
堀辰雄
「古代感愛集」讀後 堀辰雄 お寒くなりました しかしそれ以上に寒ざむしい世の中の變り果てた有樣のやうでございますね ときどき東京に行つて歸つてきた友人などに東京の話を聞くたびに、先生などいかがお暮らしかと、心の痛いやうな思ひをいたします さういふ折など、いつぞや頂戴いたした御手づつの「古代感愛集」を披いては、さういふ一切を超えられた、先生の搖ぎもなさらぬやう
中谷宇吉郎
『東と西』の問題は、人類にとって、最大の課題といわれる。東洋人としての立場からこの問題を考える場合、中国における古代の神仙思想というものが、どうしても逸することの出来ない要素のように、この頃思われてきた。齢のせいかもしれない。 直接の誘因は、露伴先生の神仙ものを、少しばかり読んだところにある。そのなかでも『仙書参同契』にひどく心を惹かれたので、その紹介を主と
折口信夫
一 生活の古典 明治中葉の「開化」の生活が後ずさりをして、今のあり様に落ちついたのには、訣がある。古典の魅力が、私どもの思想を単純化し、よなげて清新にすると同様、私どもの生活は、功利の目的のついて廻らぬ、謂はゞむだとも思はれる様式の、由来不明なる「為来り」によつて、純粋にせられる事が多い。其多くは、家庭生活を優雅にし、しなやかな力を与へる。門松を樹てた後の心
折口信夫
古代生活に見えた恋愛 折口信夫 一 今日伺ひまして、お話を聴かして頂かうと思ひました処が、かへつて私がお話をせなければならない事になりました。恋愛の話は、只今の私には、最不似合な話であります。併し、歴史的な話でもといふので、何かさせていたゞきます。 此恋愛といふものは、段々進化して、知識的になつて来て居りまして、大分、そこに遊びが這入つて来て居る。或は、知識
折口信夫
古代研究 追ひ書き 折口信夫 この書物、第一巻の校正が、やがてあがる今になつて、ぽっくりと、大阪の長兄が、亡くなつて行つた。さうして今晩は、その通夜である。私は、かん/\とあかるい、而もしめやかな座敷をはづして、ひっそりと、此後づけの文を綴つてゐるのである。夜行汽車の疲れをやすめさせようと言ふ、肝いり衆の心切を無にせまい為、この二階へあがつて来たのであつた。
片山広子
古い伝説 片山廣子 いつ、どんな本で読んだ伝説かはつきり覚えてゐない、夢のなかでどこかの景色を見て、蒼ぐらい波の上に白い船が一つみえてゐたやうに、伝説の中の女の姿を思ひ出す、美しい女である。世界最初の女、イヴよりもずつと前にこの世界にゐた美しいリリスである。 神は七日のあひだに、つまり七千年か七万年か計算することはむづかしいが、天地とその中の万物をお造りなさ
宮本百合子
古典からの新しい泉 宮本百合子 世界が到るところで大きい動きと変化とをみせていて、この状態はおそらく五年や六年でおさまるものとは考えられない。 第一次の欧州大戦ののち世界の文学は非常に変化して、日本も文学の歴史に一つの転換を示した。 今日から明日へかけて私たちの吸う空気のなかに感じられている現代の波立ちは、その間からどんな文学を生み出して行くのだろう。そのこ
太宰治
きのうきょう、狂せむほどに苦しきこと起り、なすところなく額の油汗拭うてばかりいたのであるが、この苦しみをよそにして、いま、日本文学に就いての涼しげなる記述をしなければならない。こうしてペンを握ったまま、目を閉じると、からだがぐいぐい地獄へ吸い込まれるような気がして、これではならぬと、うろうろうろうろ走り書きしたるものを左に。 日本文学に就いて、いつわりなき感
太宰治
古典風 太宰治 ――こんな小説も、私は読みたい。(作者) A 美濃十郎は、伯爵美濃英樹の嗣子である。二十八歳である。 一夜、美濃が酔いしれて帰宅したところ、家の中は、ざわめいている。さして気にもとめずに、廊下を歩いていって、母の居間のまえにさしかかった時、どなた、と中から声がした。母の声である。僕です、と明確に答えて、居間の障子をあけた。部屋には、母がひとり
北大路魯山人
古唐津というものの良さは、日本陶器として古瀬戸、古備前、古萩、古伊賀、古信楽等の類品と共にいずれを姉とし、いずれを妹とすべくもないまでに、著しく他に優れた良さと日本趣味に富む野趣を存する。 古唐津は最初全く朝鮮の手法になっているが、漸を逐って、日本固有の美形を具えて、一種の体をかまえて来る。随って、底力を欠く朝鮮陶から救われて、力強き作風と変化し、純然たる日
北大路魯山人
在銘 高サ 七寸六分 胴廻 五寸七分 口径 二寸九分 この壺の銘には「太平十年五月十六日造」とある。「太平」は遼の年号で、その十年は宋の仁宗の天聖八年(西暦一〇三〇)にあたり、天下が宋の太祖によって半ば統一されてまだ間もないころで、しかも、宋の文物が漸く盛大を告げようとした矢先だった。 ところで一説には朱銘の宋赤絵のものには偽作が多いともいう以上、これ
木暮理太郎
古図を閲覧するに当りて何人も抱く可き疑問は、其図が輯製の当時既に知られたる事実を、果して如何程まで広く採録せりや否やといえることなる可し。ここに所謂古図とは主として徳川時代に出版されたる地理に関する絵図類をいう。此等の図に拠りて地形の正確なる説明を大要なりとも知らんとするが如きは、欲する者の無理なるは言う迄もなく、唯だ山川都邑道路等に就て其概念を得ば以て満足
野村胡堂
「ああ退屈だ。こう世間が無事ではやり切れないなア」 文学士碧海賛平は、鼻眼鏡をゆすり上げながら、女の子のように気取った欠伸をいたしました。 「全くだ、何んか斯う驚天動地の面白い事件が無いものかネ」 百舌の巣のような乱髪を、無造作に指で掻き上げるのは、朝山袈裟雄というあまり上手でない絵描きです。 十五六人集った倶楽部の会員は、いずれも金と時間の使い途に困ると言
小川未明
つばめが帰るとき 真紅な美しい夕焼けに、 少年はらっぱを鳴らして 遊んでいた。 つばめがきたとき 家の周囲を幾たびも飛びまわった。 すると、少年の吹いていたらっぱは 窓の下に捨てられて、 赤いさびがところどころに出ていて、泥に塗れていた。 ●図書カード
中原中也
古る摺れた 外国の絵端書―― 唾液が余りに中性だ 雨あがりの街道を 歩いたが歩いたが 飴屋がめつからない 唯のセンチメントと思ひますか? ――額をみ給へ―― 一度は神も客観してやりました ――不合理にも存在価値はありませうよ だが不合理は僕につらい―― こんなに先端に速度のある 自棄 々々 々々 下駄の歯は 僕の重力を何といつて土に訴へます 「空は興味だが役
長谷川時雨
坪内先生は、御老齢ではあったけれど、先生の死などということを、考えもしなかったのは我ながら不覚だった。去年朝日講堂で、あの長講朗読にもちっとも老いを見せないで、しかもお帰りのおり、差上げた花束を侍者に持たせて、人ごみの出口で後から、とてもはっきりとした声で私の名を呼ばれ、笑い顔で帽子をつまみあげられた元気さに、今年五月早大内の演劇博物館で挙行される、御夫妻の
チェスタートンギルバート・キース
オープンショウ教授は、もしだれかに心霊主義者だとか心霊主義の信者だとか言われると、ガタンと卓を叩いて、いつもかんしやくをおこすのであつた。しかし、これだけで持前の爆発がおさまるわけではなかつた。というのはもしだれかに心霊主義の否認者だと言われても、やはりかんしやくをおこしたからである。自分の一生をささげて心霊現象を研究してきたのは彼の誇りであつた。そういう心
豊島与志雄
終戦後、柴田巳之助は公職を去り、自宅に籠りがちな日々を送りました。隙に任せ、大政翼賛会を中心とした戦時中の記録を綴りかけましたが、それも物憂くて、筆は渋りがちでありました。一方、時勢を静観してみましたが、大きな転廻が感ぜられるだけで、将来の見通しは一向につきませんでした。そして索莫たる月日を過すうち、病気に罹りました。 初めは、ちょっとした感冒だと思われまし