向島
永井荷風
向島 永井荷風 隅田川の水はいよいよ濁りいよいよ悪臭をさえ放つようになってしまったので、その後わたくしは一度も河船には乗らないようになったが、思い返すとこの河水も明治大正の頃には奇麗であった。 その頃、両国の川下には葭簀張の水練場が四、五軒も並んでいて、夕方近くには柳橋あたりの芸者が泳ぎに来たくらいで、かなり賑かなものであった。思い返すと四、五十年もむかしの
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永井荷風
向島 永井荷風 隅田川の水はいよいよ濁りいよいよ悪臭をさえ放つようになってしまったので、その後わたくしは一度も河船には乗らないようになったが、思い返すとこの河水も明治大正の頃には奇麗であった。 その頃、両国の川下には葭簀張の水練場が四、五軒も並んでいて、夕方近くには柳橋あたりの芸者が泳ぎに来たくらいで、かなり賑かなものであった。思い返すと四、五十年もむかしの
永井荷風
向島は久しい以前から既に雅遊の地ではない。しかしわたくしは大正壬戌の年の夏森先生を喪ってから、毎年の忌辰にその墓を拝すべく弘福寺の墳苑に赴くので、一年に一回向島の堤を過らぬことはない。そのたびたびわたくしは河を隔てて浅草寺の塔尖を望み上流の空遥に筑波の山影を眺める時、今なお詩興のおのずから胸中に満ち来るを禁じ得ない。そして悵然として江戸徃昔の文化を追慕し、ま
野村胡堂
「あら、麗子さん、どうなすったの」 「あッ、加奈子さん」 「近頃学校へもいらっしゃらないし、みんなで心配して居てよ、――それに顔色も悪いわ、どうなすったの本当に」 「困った事が起ったの、加奈子さん、私どうしたらいいでしょう」 加奈子は、お使いに行った帰り上野の竹の台で、お友達の麗子にバッタリ出逢ったのでした。 麗子は、加奈子と同じ年の十三、今年女学校へ入った
サッフォ
君のねがひ望みたまふもの、 もし道にかなひて尊きことならば、 または、 くちに正しからぬ言葉をたくみたまはずとならば、 いかでか羞は君の眼を蓋ふべき、 あからさまにいひいでたまふべきに。 ●図書カード
ゲランシャルル
「マルテの手記」の一節に、巴里の陋巷で苦惱に充ちた生活をしてゐる孤獨なマルテが、或日圖書館で讀んだ一人の田園詩人――山のなかの靜かな古い家で、花や小鳥や書物などを相手にして暮らしてゐられるその幸福な詩人のことをひそかに羨望するところがある。その一節は讀者に忘れがたい印象を殘すが、その田園詩人はフランシス・ジャムだと云ふことになつてゐる。 この頃ジャムの囘想記
萩原朔太郎
ああ戀人の家なれば 幾度そこを行ききずり 空しくかへるたそがれの 雲つれなきを恨みんや 水は流れて南する ゆかしき庭にそそげども たが放ちたる花中の 艶なる戀もしらでやは 垣間み見ゆるほほづきの 赤きを人の脣に 情なくふくむ日もあらば 悲しき子等はいかにせん 例へば森に烏なき 朝ざむ告ぐる冬の日も さびしき興に言よせて 行く子ありとは知るやしらずや ああ空し
武田麟太郎
明治三十七年九月号の「明星」と云ふ雑誌に有名な詩「君死にたまふことなかれ」が載つた。その第三聯に 堺の街のあきびとの 旧家をほこるあるじにて 親の名を継ぐ君なれば 君死にたまふことなかれ。 ――とある。そんなことには迂遠な僕が詩なんぞを引用すると、人は実に滑稽に思ふかも知れぬが、堺市大小路と宿院との間に、古びた構へで、昔風にこじんまりした老舗の菓子屋の前を通
亀井勝一郎
聖武天皇が大仏造顕を御発願あそばされ、その詔を賜つたのは天平十五年十月十五日であつた。昭和十八年十月十五日はそれからちやうど千二百年目に当るので、東大寺では盛大な記念法要が営まれた。私もお招きをうけて、天平の古を模した祭典を拝観することが出来た。戦ひのさなかとはいへ、未だ本土空襲もなかつた頃なので、蜻蛉の飛びかふ秋空のもとに、至極おだやかに祭典はとり行はれた
三遊亭円朝
吝嗇家 三遊亭円朝 極吝嗇い仁が御座いまして、旦「小僧や。小「へえ。旦「お隣へ往てノ蚊帳の釣手を打つんだから鉄槌を貸して下さいと然う云つて借りて来い。小「へえ……往て参りました。旦「貸して呉れたか。小「アノお隣で、何の釘を打つんだと申しますから、蚊帳の釣手を打つんですから鉄釘で御座いませうと申しましたら、鉄と鉄との摺れ合ひで金槌が減るから貸せないと申しました
坂口安吾
新宿御苑に沿うた裏通り。焼け残った侘しい長屋が並んでいる。とみると、その長屋の一部を改造し、桃色のカーテンをたらしてネオンをつけたバーもある。ドロボー君はその隣の長屋を指して、 「あの二階がオレの女のアパートだ」 はなはだ御自慢の様子である。長屋の二階に外部から階段をとりつけ、階下を通らずに行けるようになっている。至って人通りが少く、しかもアイマイ宿のような
宮本百合子
初めてあなたのお書きになるものを読んだのは、昔、読売新聞にあなたが「二人の小さいヴァガボンド」という小説を発表なさったときであり、その頃私は女学校の上級生で、きわめて粗雑ながら子供の心理の輪廓などを教わっていた時分のことでした。もうそれからでも、ざっと二十年は経ちます。そして、あの当時にあっては大変ハイカラーで欧州風の教養の匂いの高かった作品の中で、母なる作
ポリドリジョン・ウィリアム
時正に倫敦に於ては冬期の宴会騒ぎが今を盛りの真最中、いつもながら当代流行の魁を行かうといふ連中が先きに立つて彼方此方でさまざまな宴会を催してゐる折から偶その中へ一人の貴族が現れた。貴族とは云へ、彼はそんな身分よりも寧ろ一風変り者だといふ点で人目を惹いてゐた。面白可笑しい周囲の歓楽の中に雑りながら自分だけはそんな仲間に加はることは出来ないと云つたやうな様子をな
ドイルアーサー・コナン
ホームズがつぶさに読んでいた手紙は、先刻届いたものだった。済むと、本人としては大笑いに等しいあのいつもの乾いた含み笑いをし、その紙を私に投げてよこす。 「現代と中世、現実と妄想の混ぜものとしては、思うにこれは極めつけだ。」と友人。「これをどう見るね、ワトソン?」 私が読んだ文面は次の通り。 オールド・ジューリ四六 一一月一九日 吸血鬼の件 拝啓 当社依頼人ロ
小川未明
李さんが、この町にすんでから、もう七、八年になります。いまではすっかり町の人としたしくなって、えんりょ、へだてがなくなりました。工場へつとめ、朝出かけて晩に帰ってきます。 休みのときは、よく近所の源さんのところへあそびにいきました。この二人は、わけて仲がよかったのです。源さんは会社につとめて、ごくほがらかな性質でありましたが、李さんはそれにくらべて口数の少な
萩原朔太郎
わが故郷前橋の町は赤城山の麓にあり、その家竝は低くして甚だ暗し。 ふもとぢに雪とけ、 ふもとぢに緑もえそむれど、 いただきの雪しろじろと、 ひねもすけふも光れるぞ、 ああいちめんに吹雪かけ、 吹雪しかけ、 ふるさとのまちまちほのぐらみ、 かの火見やぐらの遠見に、 はぜ賣るこゑもきれぎれ、 ここの道路のしろじろに、 うなゐらのくらく呼ばへる家竝に、 吹雪かけ、
野上豊一郎
吹雪のユンクフラウ 野上豊一郎 一 アルプス連峰の容姿の目ざめるような美しさにいきなり打たれたのは、ベルンに着いてベルヴュー・パラース(ホテル)の二階の部屋に通された瞬間だった。南東を受けた大きな窓一ぱいに遠く雪を戴いた山々が一列に並んで、時刻はもう十九時(午後七時)を過ぎているのに日中の光のまだ残ってる碧空に、くっきりと鮮やかな空劃線を描き出してる美しさ!
原民喜
マルが私の家に居ついたのは、昭和十一年のはじめであった。死にそうな、犬が庭に迷い込んで来たから追出して下さいと妻はある寒い晩云った。死にはすまいと私はそのままにしておいた。犬は二三日枯芝の日だまりに身をすくめ人の顔をみると脅えた目つきをしていたが、そのうちに元気になった。鼻や尻尾に白いところを残し、全体が褐色の毛並をしている、この雌犬は人の顔色をうかがうこと
戸坂潤
東大数学科の教授である竹内端三博士は私にとって一種の恩師である。先生が八高から一高の教授に転任して来て最初に数学を受け持ったクラスの一つが、私のクラスであった。私は先生に微積分のごく初歩をならった。私は宿題が当って黒板に出て問題を解くという教育にあまり賛成でなかった生徒の代表的な一人であったので、適当に出欠を調節することに専ら数学的才能を傾倒したのであるが、
永井荷風
毎夜吾妻橋の橋だもとに佇立み、往来の人の袖を引いて遊びを勧める闇の女は、梅雨もあけて、あたりがいよいよ夏らしくなるにつれて、次第に多くなり、今ではどうやら十人近くにもなっているらしい。女達は毎夜のことなので、互にその名もその年齢もその住む処も知り合っている。 一同から道ちゃんとか道子さんとか呼ばれている円顔の目のぱっちりした中肉中丈の女がある。去年の夏頃から
原勝郎
吾妻鏡の性質及其史料としての價値 原勝郎 吾妻鏡が鎌倉時代史の貴重なる史料なることは苟も史學に志ある者の知悉する所たり、若し未同書に接せざる人あらば史學會雜誌第一號に掲げたる星野博士の同書解題をよみて後同書を一讀せられよ、其記事の比較的正確にして且社會諸般の事項に亘り、豐富なる材料を供給すること多く他に類をみざるところなり。然れども同書は其性質及其史料として
牧野信一
私は、初歩英語読本が随分好きだつた。往年それらの聚集モノメニアに陥つて、海外の知友の助けまでかりて幅は三尺位ひだが四段になつてゐる書架を一杯以上にしたことがある。十年も前のことなんだが、その為に英語のほんとの勉強を疎かにして今もつて初歩英語以上の知識は備はらず、馬鹿を見たと思ふこともある。だがその文庫は随分私を悦ばせて呉れた。モノメニアには違ひなかつたのだ、
長谷川時雨
吾が愛誦句 長谷川時雨 六歳のをり、寺小屋式の小學校へはいりまして、その年の暮か、または一二年たつてかのお席書きに、「南山壽」といふのを覺えました。だが、この欄に書かうと思ひますのは、それよりもまた一年位たつてから書きました、 百尺竿頭更一歩進 といふのでございます。これは、わたくしが、物を覺え、よく記憶したはじめての句だといつてもよいかと思ひます。字句の置
夏目漱石
吾輩ハ猫デアル 吾輩ハ猫デアル 夏目漱石 序 「吾輩は猫である」は雜誌ホトヽギスに連載した續き物である。固より纒つた話の筋を讀ませる普通の小説ではないから、どこで切つて一册としても興味の上に於て左したる影響のあらう筈がない。然し自分の考ではもう少し書いた上でと思つて居たが、書肆が頻りに催促をするのと、多忙で意の如く稿を續ぐ餘暇がないので、差し當り是丈を出版す
夏目漱石
『吾輩は猫である』上篇自序 夏目漱石 「吾輩は猫である」は雑誌ホトトギスに連載した続き物である。固より纏った話の筋を読ませる普通の小説ではないから、どこで切って一冊としても興味の上に於て左したる影響のあろう筈がない。然し自分の考ではもう少し書いた上でと思って居たが、書肆が頻りに催促をするのと、多忙で意の如く稿を続ぐ余暇がないので、差し当り是丈を出版する事にし