富貴発跡司志
田中貢太郎
富貴発跡司志 田中貢太郎 至正丙戌の年のことである。泰州に何友仁という男があって、学問もあり才気もあり、それに家柄もよかったが、運が悪くて世に出ることができないので、家はいつも貧乏で困っていたが、その年になってまた一層の窮乏に陥り、ほとんど餓死しなくてはならないという境遇に立ち至った。で、友仁は城隍司に祷って福を得ようと思って、ある夜その祠へ往った。 その祠
Perpustakaan pengetahuan dunia domain publik
田中貢太郎
富貴発跡司志 田中貢太郎 至正丙戌の年のことである。泰州に何友仁という男があって、学問もあり才気もあり、それに家柄もよかったが、運が悪くて世に出ることができないので、家はいつも貧乏で困っていたが、その年になってまた一層の窮乏に陥り、ほとんど餓死しなくてはならないという境遇に立ち至った。で、友仁は城隍司に祷って福を得ようと思って、ある夜その祠へ往った。 その祠
永井荷風
竜子は六歳の時父を失ったのでその写真を見てもはっきりと父の顔を思出すことができない。今年もう十七になる。それまで竜子は小石川茗荷谷の小じんまりした土蔵付の家に母と二人ぎり姉妹のようにくらして来た。母の京子は娘よりも十八年上であるが髪も濃く色も白いのみか娘よりも小柄で身丈さえも低い処から真実姉妹のように見ちがえられる事も度々であった。 竜子は十七になった今日で
内村鑑三
寒中の木の芽 内村鑑三 一、春の枝に花あり 夏の枝に葉あり 秋の枝に果あり 冬の枝に慰あり 二、花散りて後に 葉落ちて後に 果失せて後に 芽は枝に顕はる 三、嗚呼憂に沈むものよ 嗚呼不幸をかこつものよ 嗚呼冀望の失せしものよ 春陽の期近し 四、春の枝に花あり 夏の枝に葉あり 秋の枝に果あり 冬の枝に慰あり
野中至
玄冬の候、富士山巓の光景は、果して如何なるものなるべきや。吾人の想像以上なるべきか、これを探して以て世に紹介せんことは、強ち無益の挙にあらざるべし、よって予はここに寒中の登岳を勧誘せんと欲するに臨み、先ず予が先年寒中滞岳中の状況を叙述して、いささか参考に供する所あらんとす、既に人の知る如く、富士山巓は木の葉一枚だになき、極めて磽なる土地なれば、越年八月間の準
中原中也
恋人よ、その哀しげな歌をやめてよ、 おまへの魂がいらいらするので、 そんな歌をうたひだすのだ。 しかもおまへはわがままに 親しい人だと歌つてきかせる。 ああ、それは不可ないことだ! 降りくる悲しみを少しもうけとめないで、 安易で架空な有頂天を幸福と感じ做し 自分を売る店を探して走り廻るとは、 なんと悲しく悲しいことだ……
中原中也
きらびやかでもないけれど、 この一本の手綱をはなさず この陰暗の地域をすぎる! その志明かなれば 冬の夜を、われは嘆かず、 人々の憔燥のみの悲しみや 憧れに引廻される女等の鼻唄を、 我が瑣細なる罰と感じ そが、わが皮膚を刺すにまかす。 蹌踉めくままに静もりを保ち、 聊か儀文めいた心地をもつて われはわが怠惰を諫める、 寒月の下をゆきながら、 陽気で坦々として
正岡子規
寒山落木 明治十八年ヨリ同二十五年マデ 一 第一期 明治十八年 夏郷里松山ニ歸ル○嚴嶋ニ遊ビ祭禮ヲ觀ル○九月上京 仝 十九年 夏久松定靖公ニ扈從シテ日光伊香保ニ行ク○九月歸京 仝 廿年 春腸胃ヲ病ム上野ヲ散歩ス○夏歸省○九月上京 仝 廿一年 夏牛嶋月香樓ニ居ル○九月歸京常盤會寄宿舍ニ入ル 仝 廿二年 四月水戸ニ遊ブ徃復一週間○五月咯血 七月歸省九月上京不忍
小川未明
それは、もう冬に近い、朝のことでした。一ぴきのとんぼは、冷たい地の上に落ちて、じっとしていました。両方の羽は夜露にぬれてしっとりとしている。もはや、とんぼには、飛び立つほどの元気がなかったのです。 昨日の夕方、彼は、この山茶花のところへ飛んできました。さびしくなった圃の方から夕日の光を身に受け、やってきて、この美しい、紅い花を見たときに、とんぼは、どんなに喜
中谷宇吉郎
『猫』の寒月のモデルとして一般に信ぜられていた寺田寅彦先生が、昨年の暮押し迫って亡くなられた。その御葬式も済んで、一通りの用事も片付いた頃、漱石同門でありかつ先生の心友であった小宮さんが、「古蹟巡りをしよう」といわれて、私をあるビルディング内のC亭へ案内された。そこは小宮さんが仙台から出てこられるたびに、寺田先生と東京中の美味い料理を喰べさす家を廻られたその
牧野富太郎
寒桜の話 牧野富太郎 カンザクラというサクラの一種があって、学名をプルーヌス・カンザクラ(prunus Kanzakura, Makino)と称する。落葉喬木で多くの枝を分かち、繁く葉をつける。高さはおよそ一丈半くらいにも成長し、幹はおよそ一尺余にも達する。 このカンザクラは、ふつうのサクラよりはずっと早く開花する。寒いときに早くも花が咲くというので、寒桜の
宮本百合子
寒の梅 宮本百合子 一月○日 朝飯をたべて、暫く休んで、入浴してかえって横になっていると、傷の写真をとりますから腹帯はあとになすって下さいということだ。やがて、白い上っぱりを着た写真師が助手をつれて入って来て、ベッドに仰むきに臥ている自分の右側のおなかの傷に向って高いところからアングルをとって写してゆく。もういいのかと思ったら富田さんがいそいで来て、木村先生
佐藤垢石
寒鮒 佐藤垢石 静寂といおうか、閑雅といおうか、釣りの醍醐味をしみじみと堪能するには、寒鮒釣りを措いて他に釣趣を求め得られないであろう。 冬の陽ざしが、鈍い光を流れにともない、ゆるい川面へ斜めに落として、やがて暮れていく、水際の枯れ葦の出鼻に小舟をとどめて寒鮒を待つ風景は、眼に描いただけで心に通ずるものがある。舟板に二、三枚重ねて敷いた座蒲團の上に胡座して傍
佐藤垢石
謹啓、余寒きびしくと申し上げ度く存じ候へ共、今年程暖かき例無之、お互に凌ぎよき春日に候。 さればにや、この頃鮒のみには無之冬寄致せし鮠、鰔などまでが俄かに巣離れの動作を見せ申しそぞろに釣意をそそられ、釣場の風景を眼に描き申候。堪まり兼ねて一昨日出発富士川に寒鮠釣を志し車中の人と相成候。下部温泉から約一里、屏風岩下流の大瀞は例年鮠の冬寄出来申す所に有之、彼の地
上村松園
寛政時代の娘納涼風俗 上村松園 月蝕は今迄余り多く描かれて居りませんから一度描いてみたいと胸に浮びましたのが動機です。 あの画は寛政の頃の良家の娘さんの風俗で夏の宵広い庭に降り立って涼を納れて居ります時に「今夜は月蝕だわ……」とふと思い付いて最も見易いように鏡を持ち出して写し取っている所です。空を仰いで眺めているのでは落ち着きがなくて如何にも軽くなりますので
直木三十五
寛永武道鑑 直木三十五 一 桜井半兵衛は、門弟に、稽古をつけながら (何故、助太刀を、このわしが、しなくてはならぬのか?) と、その理由を、考えていた。烈しく、突出して来る門弟の槍先を――流石に、修練した神経で、反射的に避けながら、声だけは大きく 「とう」 と、懸けはしたが、何時ものような、鋭さが――門弟が (病気かしら) と、疑うまでに、無くなっていた。そ
林不忘
寛永相合傘 林不忘 一 つまらないことから、えて大喧嘩になる。これはいつの世も同じことだ。もっとも、つまらないことでなければ喧嘩なんかしない。隣家の鶏が庭へはいって来て、蒔いたばかりの種をほじくったというので、隣家へ談じ込んでゆくと、となりでは、あんたの犬が鶏を追い廻して困ると逆ねじを食わせる。そこで、こっちが、ええ面倒くせえ、やっちめえというんで、隣家の鶏
種田山頭火
寝床〔扉の言葉〕 種田山頭火 ここへ移って来てから、ほんとうにのびやかな時間が流れてゆく。自分の寝床――それはどんなに見すぼらしいものであっても――を持っているということが、こんなにも身心を落ちつかせるものかと自分ながら驚ろいているのである。 仏教では樹下石上といい一所不住ともいう。ルンペンは『寝たとこ我が家』という。しかし、そこまで徹するには悟脱するか、ま
平野零児
昨年の晩秋、福井ラジオの営業局長をしている池田左内君が上京のついでに、私の陋居を訪ねて来た。昔上智大学の新聞科で教壇というよりも、主として附近のオデン屋や、新宿の酒場え連れて行き、三、四の学生に他愛のない放談を聞かせただけだったが、彼はそのことで今に私を先生と呼び、教え子だったとしている一人であり、絶えず師の礼をとり、時々越前ガニや、ツグミやウニを送ってくる
内村鑑三
寡婦の除夜 内村鑑三 月清し、星白し、 霜深し、夜寒し、 家貧し、友尠し、 歳尽て人帰らず、 思は走る西の海 涙は凍る威海湾 南の島に船出せし 恋しき人の迹ゆかし 人には春の晴衣 軍功の祝酒 我には仮りの侘住 独り手向る閼伽の水 我空ふして人は充つ 我衰へて国栄ふ 貞を冥土の夫に尽し 節を戦後の国に全ふす 月清し、星白し、 霜深し、夜寒し、 家貧し、友尠し、
内藤湖南
寧樂 内藤湖南 寧樂 一 浪華三十日の旅寢、このたびは二度目の觀風なれば、さまでに目新らしくも思へず、東とはかはれる風俗など前よりは委しく知れる節もあれど、六十年の前に人の物せる「浪華の風」といふ一書、温知叢書の中に收められしといたく異なれりと見えざるは、世の移りかはり、疾しといへば、疾きが若きものから、又遲しといへば遲くもあるかな、面白かりしは此の間兩度の
佐藤春夫
探偵小説といふ言葉は、すでに余り面白い言葉でない。誰か何とかいゝ名称を附けかへてほしいやうな気がしてゐたが、そいつが探偵趣味といふ雑誌の名になつたのだから実は雑誌を見る度に内容は面白いと思ひながら名前には少々閉口してゐる。全く探偵趣味などは悪趣味だよ。同人諸君の中にも、聞けば同感の諸君があるさうだが、尤も今になつては、どう変へる事も出来ぬかも知れぬ。これは些
直木三十五
寺坂吉右衛門の逃亡 直木三十五 一 「肌身付けの金を分ける」 と、内蔵之助が云った。大高源吾が、風呂敷包の中から、紙に包んだ物を出して、自分の左右へ 「順に」 と、いって渡した。人々は、手から手へ、金を取次いだ。源吾が 「四十四、四十五、四十六っ」 と、いって、その最後の一つも自分の右に置いた。内蔵之助の後方に、坐っていた寺坂吉右衛門はさっと、顔を赤くして、
中谷宇吉郎
わが師、わが友として、最も影響を受けた人たちと言えば、物心がついてから今日まで、私が個人的に接触したすべての人が、師であり友であった。 どういう人でも、よく見れば必ず長所があるので、その点を表立てて見ることにすれば、自分の接触する人は誰でも師であり、友であると、この頃私はかなり自然にそういう気持になっている。こういう心の持ち方は、明かに寺田寅彦先生の感化を少
中谷宇吉郎
寺田寅彦先生の連句の中に 春の夜や不二家を出でて千疋屋という句がある。 「銀座アルプス」や「珈琲哲学序説」などでよく分るように、先生は銀座へよく出かけられた。 先生は、毎日のように、十一時半頃になると、実験室へ顔を出され、「ちょっと失敬」といって、銀座へ出かけられた。そして月か不二家で、ゆっくり昼飯を食べて、珈琲をのんで、銀座をぶらぶらして、三時頃にまた理研